第六話 ダンス・イン・ザ・ショーウインドウ 5
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しばらくしていよいよコートのマネキンを追い越した。
「さあここからだぞ」と一人意気込むも様子がおかしい。試しにまばたきなどしてみるが、そのマネキンは一向に動こうとはしなかった。じわりじわりとこちらに忍び寄るのはデニムジャケットの一体のみだ。
「マネキンが動かないのはおかしい」などという発想は我ながらちょっとどうかしていると思う。
しかし事実、妙である。襲いかかってこないのならば、どうして彼はここに配置されているのだ。
と考えているところにどこからか声が響いてきた。その声はたった一言だけ、歯切れのいい調子でこう告げた。
「グリーンライト!」
長く静寂のなかにいたせいか、俺はその短い音に肩が跳ねるほど驚かされた。顔を向けているほうから聞こえたような気もするが、正確な発生位置までは分からない。
ともあれ動揺は厳禁。まずは慌てず騒がず足を止める。今は状況の把握が最優先事項だ。
視界のなかに変化は認められない。音にも匂いにも気になる点はない。
このまま進んでも問題はないか、と足を踏みだしかけたその時、またもや声が響きわたった。
「レッドライト!」
(あっ……!!)
その時になってようやく俺は気が付いた。
間違いない。この声を発しているのはあのコートのマネキンだ。
と同時に、彼が発した言葉の意味も理解した。この理解は知識によるものではなく、肌で感じた危機感からのことだった。
だるまさんが転んだ――今しがた彼が口にしたのは、そうした意味合いのフレーズだ。
『グリーンライト』のかけ声の後は動いてもよく、『レッドライト』と言われたのちは足を止めなくてはならない。
単体ならば対処はそれほど難しくないが、問題は組み合わせである。
こちらの視界を限定する敵と、こちらの動きを限定する敵。それら二体を同時に相手にするとなると、状況次第では完全に積んでしまう可能性もある。ここからは今まで以上にスピード感を意識しなくてはならない。
まずは進行方向の確認。
曲がり角の外側の壁に背を付けて立ち、それまで進んできた道と前方との両方が視界に入るようにする。前方の通路は長さが二〇メートルほどで、右手側が一面ガラス張りになっている。おかげでようやく外の様子が確認できた。
といっても大きな窓はすべて曇りガラスになっているので、分かるのは外の明るさくらいのものである。一面真っ暗で明かり一つ見えないということは、やはり今は真夜中なのだろう。
ガラス窓のいくつかは自動ドアになっているらしかった。といっても、すべてのドアに虎柄の警戒用テープが張られていることからすると、残念ながらそれらは使用が禁止されているようだ。
俺にとっての唯一の希望は、通路の突き当りに見える両開きの手動ドアであった。
その扉の上にはお馴染みのマークが掲示されていた。緑の下地に白い人型。人型は扉の中に駆け込んでいる――すなわち、非常口の表示である。
曲がり角から非常口まで邪魔になるような物体はない。そうなると、ここからは俺とマネキンたちとの真っ向勝負である。
(いいだろう、受けて立とうじゃないか)
俺が思うのに呼応するかのごとく、コートのマネキンが高らかに叫ぶ。
「レッドライト!」
さあ、戦いの幕開けだ。
少し進んで元いた通路が見えなくなると、曲がり角の陰にデニムジャケットのマネキンが滑り込んできた。
その点を除けば前後方向ともにこれといった変化は見られない。とりあえず順調なスタートだ。
「レッドライト!」
かけ声に合わせて動きを止める。
この時点ですでにコートのマネキンは見えなくなっていたが、相手はどういう方法で俺の動きを検知しているのだろうか……いや、余計なことを考えるのはよそう。いま集中を切らしたら命取りになりかねない。
それから少々敵とにらみ合った後、「グリーンライト!」の合図とともに後ろ歩きを再開する。「走ったほうが早いんじゃないか?」とも思いはすれど、リスクを考えると実行する勇気は出なかった。
ゆえに、俺は自らの焦りを押し殺して地道に通路を進んでいった。
だんだんと近づくマネキンの姿に恐怖を覚えながら、しかし虎柄のテープを横目に越えるたび、たしかな手ごたえを噛みしめる。
出口は着実に近づいている――その動かぬ事実が、何より冷静さを保つ助けになった。
「レッドライト!」
停止命令が今一度あたりに響きわたる。これでもう何度目だろうか。
(たかが二〇メートルていどがこれほど遠く感じられるとは……)
時間は相対的だ、とはよく聞くが、ひょっとすると空間も似たようなものなのかもしれない。
極力まばたきをしないようにしていたせいか、目のかすみがひどかった。気のせいか痛みも感じるようだ。まるでパソコンの画面を何十時間もぶっ続けで見続けた後のようだ。
そんなことを考えながらゴーサインが待つが、しかしなかなか号令がかからない。
(くっ……姑息な時間稼ぎを……!)
もどかしさが募る一方で、だが俺は意外と落ち着いてもいた。
この時点で最後の直線も残すところあと半分。さきの曲がり角からここまで、追っ手に詰められた距離は最小限度に抑えられていた。
計算上、負けはない。よっぽど下手を打たなければ――そう思うと、独りでにほほが緩んだ。
そこでようやく次なる号令がかかった。
「グリーンライト!」
機械的で冷たい声もこの時ばかりは耳に心地よかった。あたかも長距離レースの完走を讃える歓声のようでもある。
ところがその直後、順調な旅路に突然の嵐がおとずれた。
否応なくこちらの視界をふさぐ大雨。強烈な存在感を放つ雨粒が、千本の矢となって俺の全身に降りそそぐ。
(スプリンクラー……!!)
完全に虚を突かれた。まさかこんな物まで利用してくるとは。
とっさに両手で目元を保護するが、それでも被害をゼロにはできなかった。例のデニムジャケットのマネキンは最前より明らかにこちらに近づいていた。
その事実に気が動転したか、俺は続けざまに失態を犯してしまった。後ろ向きに踏み込んだ一歩が地面を捉えそこねる。「遅れを取り返そう」と無意識に歩幅が広がりすぎたのだ。
転倒、捻挫、骨折、敗北、死――あらゆる悪寒が束の間に脳裏をよぎる。
気づいた時には、俺はびっしょり濡れた床に四つん這いになっていた。
そこへ無情な声がさらに追い打ちをかける。
「レッドライト!」
鋭く響く停止命令。
間一髪、相手がその号令を言い終わらないうちに何とか顔だけは上げられた。絶え間ない水滴が次々とまぶたを叩く。
追っ手たるジャケットのマネキンはすぐ目の前まで迫っていた。失望感も相まって、実際以上に相手が近く、また大きく見えていた。
その追っ手のさらに奥側、通路の突き当りの壁際には、いつの間に移動したのかコートのマネキンの姿もあった。がつがつと距離を詰めてこないところに、こちらをからかってあざ笑おうという真意が見え隠れするようだ。
俺の優位性は今や完全に失われてしまった。ここから首尾よく体勢を立て直したとしても、無事出口までたどり着けるかは分からない。
黒雲のような諦めが胸に去来する。
だがその時、俺は気が付いた。
身体にはどこにも痛みはない。あれだけ派手に転んだにもかかわらず、俺は怪我一つ負っていなかった。
ならば勝負を捨てることはない。どうせ死ぬなら、最後の一瞬まで精一杯あがいて死んでやろう。
俺は迫る死神を射殺すつもりで、きっと視線に力を込めた。
とにかくこうなれば一か八かだ。着実な方法で勝ち目がないなら思い切った行動に出るしかない。
自身に残された最後の希望を想いながら、静かに行動の時を待つ。
間を置かず、その「時」は訪れた。
「グリーンライト!」
俺はその号令に合わせて勢い良く立ち上がった。と同時に、非常口に向かって一目散に駆けだした。
視線を後方に向けたまま、全力疾走で“豪雨”のなかを突き進む。一歩目から早くも靴底が滑りそうになったが、体重移動と動きの勢いとで何とか事なきを得た。
激しい水滴と視線の揺れとでますます敵との距離が詰まっていく。そんななか、ただ一心不乱にゴールを目指し、驀進する。
こんな無策な力押しがどこまで通用するものか。これほどの危機的状況下にあって、だが俺は内心、高揚感すら覚えていた。
追っ手のマネキンはもう眼前まで迫っている。大げさでなく、手を伸ばせば触れられそうな距離感だ。次に停止のかけ声がかかれば敗北は免れない。
ただ、眼前に迫るのはゴール地点とて同じだった。非常口までは残り五メートルもない。
(俺とあのマネキンとの一騎打ちなら、停止命令さえかからなければ、あるいは――)
ところがそこで号令は下された。
「レッドライト!」
足を止めなくては、と一瞬考えるも、すぐに思いなおす。ここで立ち止まったところで命がないのは同じなのだ。だったら、悪あがきくらいはして然るべきだろう。
今度こそ本当に最後の手段。俺は停止命令に真っ向から背いた。
なりふりかまわず非常口に駆け寄る。ちらと後ろを振り返ると、コートのマネキンがすさまじい速度で追い上げてきていた。コートの裾をはためかせ、まるで滑るように床の上を疾走する。もし彼に表情があったなら、その顔は憤怒の一色に染まっていたことだろう。
この時点でゴールまで残り一メートル。
俺は両足に満身の力を込めて踏み込んだ。次いで、そのまま倒れこむようにして金属製の扉に飛びついた。
とたん何者かに首根っこを捕まれた。俺を捕らえたのがデニムジャケットのマネキンか、それともコートのマネキンなのかはもはやどうでもいいことだ。
棒状の取っ手を押し込み、ドアを開ける。そして外界の空気を吸い込むや、視界が完全に暗転した。
気づけば目の前に広がる暗黒。そこは四方八方を黒一色に囲まれた世界だった。
ややあって、その黒いスクリーンに白い文字が浮かび上がってきた。それらの文字が形作る文章はこうだ――「You Escaped !」
音も感覚もない世界と世界とのはざまで、俺は大きく歓喜の声をあげた。
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