第五話 ジパング怪鬼譚 6


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 その武器にユウキが着火するや、彼の手元から勢いよく火柱があがった。仁王立ちする彼を中心に、熱く赤い光が周囲を照らしはじめる。


 その光景を前に鬼はひるむような様子を見せた。にやついていた表情が途端に曇り、一歩、二歩と後ずさる。やはり、この怪物は炎を恐れているのだ。


 しかしながら敵も完全に諦めたわけではない。その目には今だ邪まな光が宿り、今や遅しと惨劇の瞬間を待ちわびている。仮に火がなければ、奴はすぐにでもこちらに飛びかかってきていただろう。


「今」を逃すわけにはいかない――俺はすぐに下に降りるよう、メイを促した。


「でも……いえ、そうね…………分かった、行こう」


 階段を一段降りたところで、俺はユウキのほうを振り返った。「すぐに追ってこいよ」と声をかけるつもりだった。


 ところが、そのとき俺の目に映ったのはにわかには信じがたい光景だった。ユウキが周囲の床に灯油缶の中身をぶちまけていたのだ。乱暴に振りまかれた油は鬼の方向のみならず、階段に続く通路にまで飛散していた。


 あまりの事にメイは目を見開いて叫んだ。


「ちょっとユウキ、どういうつもりなのっ!?」


 この時点で、ユウキはすでに鬼を廊下の入り口まで追いやっていた。俺たちからは少し距離を置いた位置だ。


 ゆえに彼の表情はおぼろげにしか見えないが、それでもその立ち姿を目にするだけで、赤く血走った目や、むき出しになった歯の様子まで想像されるようだった。


「こいつを生かしてはおけない、こんなクズに生きる権利なんてないんだ! 僕が絶対に息の根を止めてやる! ここで、今すぐにっ!!」


「でもそれじゃあユウキまで――」


「かまうもんか! いいから君たちは早く行け、モタモタしてたら巻き添えになるぞ!」


 言うが早いか、彼は近くにあったカーテンに松明の先端を押し付けた。数秒と経たず火が燃え移る。


 彼は本気でやるつもりだ。もはや俺たちでは止められない。いや、たとえ誰であろうと。


 なおも説得を試みるメイを、俺はやや強引に引っ張って階段を降りはじめた。


 この時の俺にできること、俺がおこなうべきことは、ただそれ一つのみだった。


――シュウジ君。


 名前を呼ばれた気がして振り返る。とたん、彼と目が合った。気のせいか、彼の表情は普段と同様の穏やかで優しいものに見えた。


「あとは頼むよ」


 ユウキは自らの足元に火を放った。


 直後、うねる炎の壁が彼の姿を覆い隠した。カーテンや壁紙が燃えることで通路内の気温が上昇し、辺りにばらまかれた灯油が引火点に達したのだ。


 木材のはぜる音とガラスの割れる音が、灼熱の渦に乗って周囲一帯に鳴りひびく。むせるような煙の匂いが瞬く間に館の中に充満した。


 俺は迫る熱気に追われながら一階へと向かった。次いで、ほどなく現れた正面玄関の扉を、体当たりするように勢いよくこじ開けた。


    ×


 屋外に出ると夜風が肌に心地よかった。興奮で火照った身体が適度に冷やされていく。


 俺とメイは暗い森の入り口に立ち、直前までいた洋館を仰ぎ見た。火の手は早くも四階部分まで燃え広がっていた。ごうごうと唸るような音はここまで届くほどだった。


 館の正面から見たかぎり、あの鬼が窓から逃げ出した様子はない。それもそのはず、あの巨体では一般的な窓枠は逃走経路にはなり得ないのだ。


 第一、今さら逃げることなどユウキが許すはずがない。今の彼ならたとえ道連れにしてでも奴を焼き殺すことだろう。そのことが心底頼もしく、だがそれ以上に悲しかった。


    六


 あの洋館の惨劇から三か月が経った。


 そのころになっても、俺とメイは日常を取り戻すことができていなかった。


 意外と言うべきか、二人とも社会的な制裁はほとんど受けなかった。不法侵入の件で厳重に注意はされたものの、それですぐ刑事罰だ更生施設だという話には至っていない。それぞれ身近な人間を失ったことと、当人らに反省が見られることが考慮された結果だろう。



 メイが抱えた最大の問題は、精神的な傷だった。


 身体が無事なのは不幸中の幸いだが、学校やアルバイト先など日常的に注がれる好奇の視線と、幼馴染らを失った苦痛とに耐えられず、彼女はこの二か月ほど家に引きこもりがちになっていた。


 無理もあるまい。年齢にして十六、七の少女が受け止めるには、この現実はあまりにも重すぎる。


 本来なら俺が手を差し伸べるべきなのだろう。そのためにこそ、俺は生き残ったのだ。


 しかし事件以来、彼女は俺に対しても心を閉ざすようになっていた。おそらく、あの夜のことを思い出させるものは何一つ受け付けなくなっているのだ。



 むろん、当の俺自身も安穏と生きてはいられなかった。行く先々で腫れ物扱いを受けるのは、やはりどうしても辛い。


 だがそれ以上に、傷ついた友人を思いやることすら満足にできない、自分の至らなさが何より辛かった。自身の軽薄さが招いた結果ゆえ、どんな罰でも受ける心づもりではあるものの、それでも苦しむ友をただ見ているというのは耐え難い。ユウキの最後の言葉が、自ずと何度も思い出された。



 不思議なことにユウキの遺体はいまだ見つかっていなかった。


 出火から通報までそれほどタイムラグがなかったからか、例の洋館は全焼を免れた。その後、複数の地元学生が行方不明ということで、当面の安全が確認されたのち徹底的な捜索がおこなわれた。


 その過程でタカヒロの遺体は回収され、ほどなく遺族によって荼毘に付された。


 ほかに見つかったのはおびただしい数の動物の亡骸と、いくつかの人間の遺骸である。これらはあの食糧庫で発見されたものだった。


 また、三階の奥の部屋からはひと際巨大な哺乳類の焼死体が回収されたらしい。その焼死体の生前の姿を知るのは、今となってはおそらくこの世に二人だけだ。



 ユウキはどこに消えたのだろうか。


 彼の行方は誰も知らない――

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