第五話 ジパング怪鬼譚 5
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例の食糧庫から四つ隣の部屋に移ったところで、俺たちはようやく一息つくことができた。たとえ大の男が二人そろっていようと、人一人運ぶのは骨が折れるものだ。
この時、俺たちがたどり着いたのはいたって普通の居室だった。机にベッドに収納棚と、ひととおりの家具は備わっている。
俺とユウキはひとまず、メイの身体をベッドの上に横たえた。
メイを担いで移動する最中、ずっと頭にあったのは、「タカヒロがここにいてくれたら」ということだった。彼の助けがあれば一連の救助作業もさぞかし捗ったことだろう。彼の死は返す返すも残念でならない。
その後、彼女が実際に目を覚ましたのはそれから十分ほどが経過したころだった。
力なく閉じた瞼がわずかに開き、その瞳に針のような光が宿った瞬間、真っ先に喜んだのはユウキだった。
「ああ……ああ、よかった……」
彼は目に涙をためてつぶやいた。
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彼女に事情を飲み込ませるまで、また少し時間が必要だった。
それも当前というか、彼女自身が命の危機に陥ったのみならず、親友が無残にも殺害されたという惨たらしい現実を、今すぐ受け入れろというのはたしかに酷な話である。
動揺するのも無理はないが、しかし今は場合が場合だ。酷でもなんでも順応してもらうしかない。俺たち全員が生きてここから出られるように。
そのことを知ってか、彼女は気丈に言った。
「……分かったわ……とにかく、いま大事なのはここからどうやって逃げだすのか、ということね」
四階だけに窓から脱出とはいかない。となると順当に階段を使うしかないが、それには一つ問題があった。
「ごめん、私がこんな怪我さえしてなければ……」
「メイちゃんが謝ることないよ、悪いのは全部――全部アイツなんだ!」
ユウキは珍しく語気を荒げた。
彼らが言う『怪我』とはメイの足のことだった。見たところ骨折にまでは至っていないが、どうやら捻挫ていどは負っているらしい。肩を借りれば歩けるものの走ることはできそうにない。当然、階段を下りるにも余計に時間がかかる。
――そんな状態であの鬼から逃げ切れるか? もし通路中で見つかりでもしたら?
この問題を片づけないかぎり、この危険極まる仮宿を離れることはできない。
「だったら――」
とユウキ。
「だったら、僕がなんとかするよ」
「なんとかって……どうするつもりなの?」
「僕がおとりになる。メイちゃんとシュウジ君が逃げるための時間をかせぐよ」
「ちょっとユウキ、本気なの!?」
ユウキはベッドの端に腰かけたまま、目を伏せた。
「ぼ、僕は身体が小さいから、いざという時にメイちゃんを守り切れない。さっきさらわれた時だって……僕は何も……でも、シュウジ君、君ならそれができるだろう? つまり、君自身と彼女のために、あの鬼に立ち向かっていくことが……」
逃げるならまだしも『立ち向か』うとなると容易ではない。
だが、どうしても必要なら俺はやるだろう。少なくとも、そう簡単に諦めはしない。
「だから、いざという時は頼んだよシュウジ君。きっと…………」
その後にどんな言葉が続くかと少し待つが、彼はそれ以上、何も言わなかった。
五
やがて脱出の算段を整えると、俺たちは三人そろって廊下に出た。無人の回廊は青白い月光に照らされ、ひどく冷え冷えとして見えた。
出発の前に一つ片づけねばならない事があったが、その始末はすでにつけてある。あとは、不意なタイミングで鬼に出くわさないよう祈るばかりだ。
俺はこの四階こそが勝負どころだと踏んでいた。これまでのところ、あの鬼の痕跡がはっきり見て取れたのが、唯一この階だけだったからだ。
ところが、俺のこの勘は見事に外れた。はたしてどこで何をしているのか、奴は俺たちが三階にたどり着くまで影も形も見せなかった。
異変が起きたのはそこからだった。
三階に到着した時、俺は努めて「あの場所」を見ないようにした。自らの友人が無残に叩きつけられた、あの壁の周辺を。
そうして見ないようにすればするほど、かえって目はそちらの方を向こうとするが、意地でも懐中電灯は差し向けない。心細い夜の暗闇も、この時ばかりはありがたかった。
「ねえ、シュウジ君」
と、不意に言ったのはユウキだった。
「この匂い、さっきより強くなってる……」
癖の強い獣臭――間違いない、奴はどこか近くにいる。
と考えるが早いか、突然、すぐそばで大きな音がした。何か重量のある物体が、廊下の壁に衝突したらしかった。
いったい何事かとライトを向ける。やがて真っ白い光の中に浮かび上がったのは、ズタズタに引き裂かれたタカヒロの亡骸だった。
「ひっ――」
メイが小さな悲鳴をあげる。
“奴”はこの声が聞きたかったのだろう。そのためにこそこの場所で俺たちを待ち伏せ、俺たちの仲間の変わり果てた姿を、これ見よがしに見せつけたのだ。
後方から「うおう、うおう」と唸り声が聞こえる。
振り返ると、奴はたしかにそこにいた。毛に覆われたその表情を読むのは難しいが、ニタニタと嫌らしい笑みを浮かべているのは容易に察しがついた。
恐怖がなかったと言えば嘘になる。
だがこの時、俺のなかにはその恐れとは比べ物にならないほど強い感情が生じていた。
そうした激情は俺だけでなく、彼もまた同様に抱いていたらしかった。
「この野郎っ!!」
ユウキは怒鳴りながら一歩前に踏み出た。俺とメイとの二名と、あの鬼との間に立ち塞がるような格好だった。
「よ、よくもこんな…………もう許さないぞ、お前だけは絶対に……絶対に許さない!」
「ユウキ君……」
「メイちゃん、シュウジ君、早く逃げて! ここは僕がなんとかするから!」
叫びつつ、彼は手に持っていた荷物を床に下ろした。その荷は四階の居室を出発する前に、わざわざ時間を取ってまで用意した物だった。
内容品は全部で三つ。マッチと灯油缶と即席の松明だ。
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さきほど鬼に追われて日用品倉庫に逃げ込んだ際、俺たちは闇に紛れることで難を逃れられた。おそらく、あの鬼はさほど夜目が利かないのだ。
にもかかわらず、奴のテリトリーには一つの明かりも存在していなかった。電灯が点かないのは仕方ないにしても、夜間に灯火すらないのでは歩き回るのにも苦労が絶えまい。
それでもなお火を頼らないのであれば、可能性は二つだ。火を御するだけの知能がないか、もしくは、近くに火があっては都合が悪いかだ。
確証のない憶測ではあるものの、この気づきは俺たちにとって一筋の光明となった。
都合がよかったのは四階に倉庫があったことだ。おかげで、暖房用だろう灯油とマッチは簡単に手に入った。あとは、適当な棒切れに油をしみこませた布を巻きつけ、即席の松明を用意するだけ。現地調達の間に合わせではあるが、ともあれ武器は武器だ。
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