第五話 ジパング怪鬼譚 4
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短い話し合いののち、俺たちはすぐに階段に向かった。
今のところ俺とタカヒロは怪物の姿を見ていない。それに、それらしい気配や痕跡などにも遭遇しなかった。そうした事実からすると、おそらくその怪物はあまり下の階には降りてこないのだろう。
つまり調べるべきは上。なかでも、もっとも怪しいのは最上階たる四階、ということになるだろうか。
ほどなく階段に着くや、タカヒロは言う。
「ユウキ、玄関のほうは頼んだぜ。俺たちがメイを連れてきたら、すぐに逃げられるように――」
と彼の声が変なところで途切れる。
直後、俺の目と鼻の先を彼の顔が横切っていった。
まるで交通事故のようだった。
高校生にしては大柄なタカヒロの身体が、重力に逆らって真横に吹っ飛ぶ。そのまま、彼はすさまじい勢いで廊下の壁に叩きつけられた。
激しい衝突音ののち彼は力なく床に横たわった。衝撃のせいだろう、右腕と左足があらぬ方向を向いている。
立ち上がる気配はない。即死だった。
何が起こっているのかすぐには理解できず、俺とユウキは束の間、立ち尽くした。だが呆けている時間はない。その事実に思い至らせてくれたのは、皮肉にもタカヒロを手にかけた張本人であった。
その時、辺りに獣の咆哮が響きわたった。
俺は声のしたほうへと光を向けた。するとそこには、見上げるばかりの巨体があった。
身長は目測で三メートルあまり。頭が天井に付きそうなほどの高さだ。その身体は濃い体毛によって覆われており、二足歩行ではあるものの人間でも熊でもない――何もかも、ユウキが言っていたそのままだった。
「鬼だ……」
ユウキがぼそっと呟く。
目の前の化け物には角はないが、されどその存在を端的に言い表すのなら、たしかに『鬼』という言葉が何より相応しいかもしれない。
そんなことを考えるあいだにも、鬼は俺たちに近づきつつあった。立ち位置で言えば下へ続く階段の直前。玄関への道を完全にふさぐ形だった。
俺はいまだ呆然とするユウキの手を引くと、急いで階段を上りはじめた。
(とにかくこの場を脱しなければ……!)
この時の俺たちには、友の死を悼む余裕すらなかった。
唯一の救いは鬼の動きがそれほど早くないことだ。おそらく、足を止めさえしなければ追いつかれる心配はない。あとは袋小路に入らないよう祈るばかりだ。
とはいえ四階の構造はまったくの未知である。どこに向かえばあの鬼をまけるのか、正直見当の付けようもない。ここは直感で勝負するしかなさそうだ。
四階の廊下に並ぶドアは、三階で見たそれらとよく似ていた。察するに、中の作りも似たり寄ったりだろう。
鬼はまだ階段を上りきっていない。部屋のどれかに逃げ込むなら今が最後のチャンスだ。
俺はユウキを引き連れたまま、ひとまず階段から三番目の部屋に飛び込んだ。
思ったとおり部屋の作りは階下のそれと同じだった。風呂とトイレを別にして、人一人が寝泊りをするのにちょうどいい大きさの一室だ。
ただ、想定外の事態もないわけではない。それすなわち部屋の使用用途である。
ここには、最前にユウキが隠れていたようなクローゼットは置かれていない。同様にベッドをはじめとする寝具も、手ごろな個人用デスクもなかった。
代わりにあるのは飾り気のない棚がいくつかと、その棚に収められた未使用の洗剤やゴミ袋、トイレットペーパー、ティッシュ、あるいはタオルの予備などといった品々だ。どうやら、ここはかつて日用品の倉庫として利用されていたらしい。
一つ残念なのは、身を隠すのに適した場所が見当たらないことだった。
こうなればしょうがない。ここは姑息なやり方に頼るしかあるまい。
試しに懐中電灯のスイッチを切ってみると、部屋内はほとんど真っ暗になった。光源は窓から入る月光だけだ。この暗闇に紛れてあの鬼をやり過ごす。あとは、相手の夜目が利かないことを祈るしかない。
その時ドアが開かれた。巨大な影がゆらりと部屋に入ってくる。
俺とユウキはともに棚の陰に身をひそめた。しかし、これでは近づかれた時にすぐに見つかってしまうだろう。このままここに留まるのは危険だ。
暗がりでうごめく鬼の位置を確認しながら、俺とユウキは陰から陰へと移動した。
そのうち敵も諦めたのか、例の鬼は入ってきた時と同様、ゆらりと部屋を出ていった。その時になって気づいたが、鬼が通ったあとには強い獣の匂いが漂っていた。この特徴は覚えておくと後で使えるかもしれない。
俺は部屋の隅で大きく息を吐いた。今はとにかく冷静にならなければ。
そのことはユウキも分かってはいるのだろうが、事が事だけに彼の動揺は大きかった。
「どうしよう、どうしよう……ああタカヒロ君…………どうしてこんなことに……」
彼は誰にともなく呟いていた。
今の彼に「うろたえるな」と言うのは酷だろう。なにせ目の前で幼馴染が惨殺されたのだ。それも、正体不明の化け物によって。
しかし今は非常事態だ。恐れるなり悲しむなりは、この苦境を乗り越えてから思う存分すればいい。でなければ、次に命を落とすのは俺か彼かのどちらかだ。
四
少しのち、俺はユウキを連れて四階の廊下を進んでいた。
基本的な作りはほかの階と同じである。フロアの中央付近に階段があり、その左右にそれぞれ一本ずつ廊下が伸びている。廊下の途中にはずらりとドアが並んでおり、それらの扉は一様に、手ごろな大きさの個室に繋がっているようだ。
あえて他階との違いを挙げるならば一点。つまり、この四階は異様に濃い獣臭に覆われている、ということだ。
俺たちがこの階に残ったのは、むろんメイを探すためだ。彼女を置いて逃げるわけにはいかない。くわえて、辺りに鬼の気配を感じないのも理由の一つだった。思うに、いま奴はほかの場所で獲物を探しているのだ。
適当なタイミングでメイ充てにメッセージを送ってみるも、やはり返事はない。気を失っているのか、あるいは――いや、後ろ向きなことを考えるのはよそう。
どうあれ、あの鬼が生きたまま彼女をさらったのであれば、その後どこかに閉じ込めるくらいはしたはずである。ならば、俺たちがすべきことはその部屋、メイが幽閉された一室を探し出すことだ。
唯一の手がかりは匂いだった。
想定外の獲物をとっさに閉じ込めるならば、あの鬼にとって慣れた場所を選ぶのが自然である。そういう場所には、くだんの獣臭がとりわけ強く残っていることだろう。
あくまで推測の域を出ない情報ではあるものの、しかし追うべき線はほかにない。
細い希望の光を頼りに、俺とユウキは暗い通路を黙々と進んでいった。
ほどなくたどり着いたのは東側の一番奥の部屋。この場所がもっとも匂いが強かった。
ドアの前に立ち、慎重に周囲の気配をうかがう。どうやら、俺とユウキを除いて動くものはなさそうだ。危険はないと喜ぶべきか、それともメイの不在を疑うべきか。
結果を知る方法は一つ。とにかく前進あるのみだ。
俺は恐怖を押し殺してドアを開けた。
そこに現れたのは、思わず目を覆いたくなるような光景だった。
まず鼻を突いたのは腐臭。肉の腐った匂いである。その異常な臭気は、床のあちこちに転がった生物の死骸を原因とするものだった。
その部屋は他の居室に比べ、およそ二倍ほどの広さを有していた。家具の類は一つもなく、床にはラグ一枚敷かれていない。その代わりとでもいうのか、足元にはおびただしい数の亡骸が横たわっていた。白骨が多く見られたが、なかには干からびた肉が残っているものもあった。そして一部には、血が滴るほど新鮮な肉の塊も。
きれいに形の残った亡骸も、また骨片も含め、ほとんどの死骸の大きさは人間のそれよりはるかに小さかった。おそらく野生動物の死体なのだろう。ただ、数は限られるものの大型の霊長類らしき白骨もないではなかった。
あまりの光景にしばし言葉を失う。
数秒のあいだ呆然としていると、隣に立つユウキが激しく嘔吐しはじめた。無理もあるまい。彼のような繊細な人間にとって、この惨状はまさに見るに堪えないものだろう。
俺がしっかりしなければ――この時、そうした思いだけが唯一、俺の両脚を支えていた。
とにかく、これだけの死骸がまとめて置いてあるということは、ここはあの鬼にとって何か意味のある場所に違いない。
そうなると問題はその用途だ。食べ残しを捨てるなら周りの山にでも捨てればいいし、何らかの供物と見るには物の置き方が雑すぎる。やはり、この場所は奴の食糧庫だと考えるのが妥当だろう。
ここが食糧庫なら、獲物であるメイが運び込まれた可能性は充分以上にある。
俺はユウキを励ましたのち、部屋の中央にそびえ立つ死体の山へと歩み寄った。
不幸中の幸いか、一目で彼女と分かる亡骸はなかった。小さく名前を呼んでみるも返事はない。
(やはりこの『山』を切り崩してみるしかないか……)
と考えたところで、ユウキが口を開いた。
「電話を鳴らすのはどうかな? もしかしたら、着信音で位置が分かるかも……」
なるほど名案だ。
試しに音声通話をかけてみると、部屋のどこかでかすかに音が鳴りはじめた。通常の着信音ではなく、くぐもったバイブレーションの音である。
その音は部屋の隅のほう、比較的新しい死骸が集まる一帯から伝わってくるようだった。
それらしい場所にライトを差し向けるや、すぐに気になる物が目に付いた。赤褐色の肉塊からすらりと伸びる白い腕。
俺とユウキは一瞬だけ目を見合わせると、すぐにその腕へと駆け寄った。
意外と言うべきか、メイはぞんざいにそこに転がされていた。まだまだたっぷり可食部が残った、肉片の集合体の近くに。
彼女が目を覚ます気配はない。もしやと肝を冷やしたが、近くで見ると呼吸はしているようだった。彼女はまだ生きているのだ。
「ああ、よかった……」
ユウキはようやく安堵の息を漏らした。
しかし安心するにはまだ早い。メイが意識を取り戻すまで、ひいては三人で無事この館を脱出するまでは、本心から落ち着くことなどできるはずがないのだ。
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