第四話 インファースト 4


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 玄関扉をくぐると、濃い緑の匂いが全身を包み込んだ。恋焦がれた外の空気はまた格別に清々しい。


 ホテル前の道はきちんと舗装されており、また街灯が立っているため夜中でも見通しがよかった。ただ、車道を少しでも外れるとそこには深い森が広がっている。立ち並ぶ木々の枝葉は濃く、一部には車道の真上近くまで覆いかぶさる箇所も見られた。


 いずれにせよここまで来ればまずは一安心。あとは車で街に戻るだけだ。


 そういう段になって、俺はようやく気がついた――撮影機材の一部をホテルに置き忘れている。むろん、取りに戻ろうとはさらさら思わない。


(こりゃ思ったより経費がかさむかもな……)


 駆け足で車に向かいつつ、俺は頭の端で考えた。



 一言で言えば油断していたのだろう。あるいは、長く続いた緊張に集中力を奪われていたのかもしれない。


 どうあれ俺は事前に察知することができなかった。このとき自身に迫っていた、さらなる危機の予兆について。


 引き続き車へと向かうそのさなか、俺は突然の衝撃に襲われた。何が起きたのか瞬時には理解できなかったが、ヘマを踏んだことだけは不思議と自覚していた。


 一瞬だけ天地が逆転した。


 かと思えば、次の瞬間にはもう頭上を覆う木々の枝葉しか見えなくなっていた。「何者かに投げ飛ばされたのだ」と事態を把握できたのは、失われた平衡感覚のおかげだった。


 仰向けに倒れた俺を何者かが真上から覗き込む。その男の顔は、予想どおり鹿か山羊かという具合だった。


(待ち伏せか……!)


 痛みはひどいが動けないほどではない。俺は慌てて上半身を起こすと、勢いそのままに立ち上がった。


 正面から鹿男と対峙する。こうして改めて向かい合うと、歴然たる体格差を否が応でも思い知らされる。しかも、男の手には見覚えのある解体用のハンマーが握られていた。あまりの威圧感に今にも心が折れそうだ。


 その時、少し離れた位置からトムの声が聞こえた。


「エド、こっちだ、早く!」


「ぐうっ……足が言うことを聞かない……駄目だ、手を貸してくれ、トム!」


 おう、まかせろ――と、そういう返事が返ってくるのを俺は期待していた。


 だが現実は非情だった。


 返答がないのでちらりと相棒のほうに目をやる。すると、もはやそこに彼の姿はなかった。ただ深い山道が広がるばかりだ。


(おいおい、ウソだろっ……!)


 文句を言うべき相手はもういない。この時、俺を除いてこの場に居合わせていたのは、見るからに話の通じなさそうな大男だけだ。


(ちくしょう、こうなりゃヤケだ!)


 俺はまっすぐ鹿男に向かっていった。こうなった以上、生き残るには戦うしかない。


 満身の力で地面を蹴り、頭から相手に突進する。


 思い切りは良かったはずだ。思わぬ攻勢に、さしもの鹿男も不意を付かれたに違いない。


 とはいえ無謀だったことは否めない。自分よりはるかに身体の大きい、しかも鈍器で武装した相手に、素手で立ち向かってどうなるというのだ。


 結局、俺はまたすぐにコンクリートの上に投げ飛ばされてしまった。それも、あえて致命傷を負わないようなやり方で。「すぐには殺さず存分にいたぶってやろう」という魂胆が透けて見えるようだ。


 俺は今度こそ立ち上がることができなかった。そのための気力を失っていたからだ。勝ち目がないこともそうだが、何より相棒に見捨てられたのが痛かった。


 地べたにへたり込んだままの俺に、鹿男がゆらゆらと近づいてくる。やがて獲物に抵抗の意思がないと悟ったか、男はまた緩慢な動作で、柄の長いハンマーを頭上高く振り上げた。


 瞬間、視界一面が白く染まった。鹿頭の大男も、鬱蒼たる緑の木々も、空を覆いつくす夜の闇も、そのすべてが一瞬のうちに姿を消す。


 代わりに現れたのは無限の白色。くわえて、うなりをあげるエンジン音。


 ドン!――と箪笥をひっくり返したような大きな音が響く。


 まばゆいヘッドライトに照らされつつ目を凝らすと、血を噴き出して横たわる鹿男の巨体が見えた。


「ふう、どうにか間に合った……おいエド! ぼうっとすんな、早く乗れっ!」


 トムが四角いSUVの運転席から声を張り上げる。


「お、おうっ」


 対する俺は、半分夢見心地で愛車の助手席に飛び乗った。



 座りなれたシートに腰を下ろしたとたん、気が抜けたのか涙が溢れそうになった。


 だがトムの前で泣くのは格好がつかない。ごまかすように顔を両手でこする。


 そうしながら、俺は喉を震わせてこう言った。


「まったく……一言いえよ、見捨てられたかと思ったぜ」


「言ったら騙し討ちにならないだろ。こういうのはな、油断させてから『ガツン』とやるのが一番効くんだよ」


 応じつつ、トムは軽快に車を走らせた。車道脇の樹木が高速で後ろに流れていく。この調子なら一、二時間ほどで人里に出られるだろう。


「なるほど、たしかにあれだけガツンとやれば、あいつも当分は起きてこないだろうな」


「バチが当たったんだよ。善良な市民を襲ったりするからだ……それより、お前もインタビューの準備をしとけよ。『幽霊ホテルに潜む謎のカルト集団! 生還者は語る!』――ようよう、俺たちこれから忙しくなるぜ。ネットニュースでもテレビ局でも、どこに行こうが引っ張りだこだ!」


「まずは病院から、な」


「それか『美容院』でバッチリキメるか」


「ハハハ……お前にゃ勝てないよ」


 陽気な笑い声が車内にこだまする。俺たちの前途は明るかった。



 だが、そのとき俺は気づいてしまった。


 角ばったバックミラーに映りこむ風景。車内の後部座席を切り取ったその像の中から、見覚えのある鹿の頭がこちらを覗き込んでいることに――

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