第二話 ペインフル・トランジション 5
六
血濡れの回廊を無事に抜けると、俺は震える手でドアの取っ手を掴んだ。間を置かず扉を開ける。だが、そこに俺の望む景色はなかった。
眼前に現れたのは例の小部屋で間違いなかった。ビクトリア朝の青い壁紙が目に入る。
しかし、そこはすでに俺の知っている場所ではなくなっていた。
見上げると天井ランプの光が消えている。そのため、視界の確保は手元のライトと暖炉の火明かりのみが頼りだった。
揺らめく火炎が部屋中を赤く染め上げる。しかし一帯を覆う鮮烈な赤色は、炉中の炎のみが原因ではなかった。コーナーテーブル、時計、電話、絵画、安楽椅子――もれなくすべてがそこにあり、もれなくすべてが血に塗れている。
床には血だまりがひろがり、天井と壁には血飛沫が飛び散っている。いったい何をすればこれほどの惨状が出来上がるのか。
くだんの囁き声はいまだ止む気配がない。両手で耳を覆ってもなお、指の隙間をすり抜けてくるようだった。
俺は居ても立ってもいられず部屋を飛び出した。「その先に逃げ場はない」と、本能的に知りながら。
無意識の癖でコーナーテーブル上の置き時計に目をやる。その古めかしい文字盤には、数字が見えなくなるほど大量の血液が付着していた。
廊下に進むと見覚えのない物がそこにあった。床の血だまりに残された足跡だ。
足跡は大股に、かつ規則正しく並んでいる。この印を残したのが誰かは言うまでもない。すなわち、俺自身だ。
くわえて、今度の変化はそれのみに留まらなかった。
さらなる変化とはつまり、一見、俺の足跡と同じようでその実まったくの別物。足の裏と指との形状がはっきりと見て取れる、裸足の足跡であった。それは俺が通った後をぴったりなぞるように、不揃いな間隔を置いて並んでいた。
(追ってきているのか……)
もはや立ち止まるだけでも危険なのかもしれない。
されど、いったいどこへ向かえばいいのか?
何度問えども答えは出ない。そもそも、俺には最初から選択権など存在しないのである。
重たい身体を引きずり前に進む。ライトを方々に向けるが、どこを見ようと紅の色からは逃れられなかった。
そうして曲がり角に差しかかった時、ベルの音が耳に届いた。その音は小部屋に続くドアを通して聞こえているらしかった。あの電話がまた鳴っているのだ。
その急かすような音色に焦りを煽られ、俺は無意識に歩調を早めた。ぴちゃぴちゃと濡れた足音が耳に鬱陶しい。
通路の突き当りの扉を開く。これまでと同じく、扉は青い小部屋へと通じていた。
ただ、そこに見えた景色は俺の予想とはまるで異なるものだった。
部屋はがらんどうになっていた。
残っているのは三方の扉と天井ライトと、あとは備え付けのカーペットくらい。電灯は問題なく灯っているし、床や天井に血飛沫が飛び散っていることもない。ちょうど、俺が初めてここを訪れた時とほとんど変わらぬ様子だった。
違いがあるとすれば一つ。つまり、今も騒がしく鳴り続けている例の電話である。それは以前、コーナーテーブルが設置されていた部屋の一角で、絨毯の上に直に置かれていた。
(とにかくこの音を止めないと……)
俺は電話に近寄ると、その場にしゃがみ込んだ。そのまま受話器を取る。直後、聞き覚えのある声が聞こえてきた。さきほど心中事件を伝えていた、男性キャスターのそれだった。
彼は相変わらずの堅苦しい調子で、たった二言、短いフレーズを繰り返していた。
「Behind you.」――あなたの後ろ。
その瞬間、俺は気がついた。部屋の壁にかかる人影が揺れている。
最初、俺はその影を自分自身のものだと思っていた。「部屋の中央の電灯に背を向けている以上、前方の壁に影がかかるのは当然だ」と。
ところが、俺はいま微動だにしていない。むろん、天井ランプが揺れているということもない。
にもかかわらず、その影は今この瞬間も不安定に揺れ続けていた。足元で縮こまる俺の影に、覆いかぶさるようにしながら。
――ああ、いるんだな……
瞬時に身体が硬直する。受話器を置くことすらままならない。俺の中の緊張と絶望とが、何よりきつく俺の手足を縛り上げていた。
分かりきっていたことだ。いつかはこの時が来るんだと。
鼻から大きく息を吸い込む。幸いにも血の匂いはしない。おかげで、ほんの少しだけ身体が軽くなった
そうして二、三回、深呼吸を繰り返したのち、俺はようやく覚悟を決めた。
受話器を耳にあてたまま振り返る。やがてそこに見えたのは――
黒い下地に白い文字――「Thank you for playing !」
…………最後の「バアン!」が無えっ!!
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