第二話 ペインフル・トランジション 4


    五


 思うに、条件は「火を眺めながら一定時間くつろぐ」ことだったのだろう。


 ゲームを進めるために「何かしなければ」と焦るプレイヤーに対し、用意された解答は「何もしない」こと。


 古典的だが有効な手だ。現に、俺はすっかりドツボにはまっていた。「今回は幸運に助けられた」というのが、正直なところである。



 それにしても、いよいよ良い部屋になってきた。


 趣味のいい壁紙。ふわふわのカーペット。しゃれた雰囲気のコーナーテーブル。趣のある時計と電話。落ち着いた画風の絵画。くつろぎがいのあるロッキングチェア。そして、本物の暖炉。


 妙な話だが、俺はこの先が少々楽しみになってきていた。


――次はどんな設備がこの部屋に追加されるのだろう?


 本棚を置いてもいいだろうし、床で寝そべるためのラグがあってもいい。サイドテーブルとコーヒーと甘味のセットなら、もう言うことなしだ。



 俺は浮かれた気持ちで廊下に続く扉を開けた。


 直後に目に入ってきたのは、見知らぬ女性の後ろ姿だった――いや、見知らぬというのは誤りだ。俺はたしかに彼女を知っている。


 腰まで伸びた滑らかな黒髪に、生気のない白い肌。


 間違いない。あれはさきほど安楽椅子の上で見かけた女だ。


 思わず息をのむ俺に気づいたか、その時、女が動きはじめた。どうやらこちらに振り向こうとしているようだ。


 俺は反射的に逃げ出そうとした。言い知れぬ危機感があったのだ。


 しかし願いかなわず、身体が思うように動かない。俺の記憶が正しければ、前に女を見た時も同じ症状に陥ったはずである。


 視線と視線がぶつかる。


 かと思うや、突然の消灯。一時的に視界を失うも、またすぐに電気が戻る。


 再び前方が確認できるようになった時には、すでに女の姿はそこにはなかった。あとにはがらんとした通路が残るばかりだ。


(……も、もしかして……)


 ふいに嫌な予感が脳裏をよぎる。これまでの流れを考えると、この次に青い部屋に移動してくるのは……


 いいや、まだ断言はできない。悪く考えるのはよそう。


 俺は震える膝に喝を入れると、ひと気のない廊下を進みはじめた。


 そうして歩みを進めつつ辺りを調べるも、成果なし。廊下に新しく追加された物体は一つも見当たらなかった。



 意外と言うべきか、変化がないのは青い小部屋についても同様だった。どこを見てもただ居心地のいい空間があるばかりで、異常、異変の類は確認できない。


 その平穏さのためか、今一度廊下に進むのが億劫で億劫でたまらなかった。何故わざわざ藪をつついて蛇を出すような真似をしなければならないのか?


 答えは簡単。そうしないと話が先に進まないからだ。結局のところ、俺には最初から選択権など存在しないのである。



 俺は思い切って小部屋を後にした。そこに現れたるは見慣れた廊下の景色。最前と同じく、通路の途中に女の後ろ姿があった。


(うん……?)


 心なしか、さっきより女が近いように感じられる。同じ後ろ姿にもかかわらず、以前に比べ詳細があらためやすい気がしたのだ。


 とはいえじっくり観察する余裕はない。


 ほどなく女が振り返り、俺は見えない力に拘束される。何度経験してもこれは慣れない。


 心臓が早鐘を打ちはじめる。


 次いで明かりが消え、また直後に復旧。気づけば女は消えている。この流れ自体は前とまったく同じである。


(もしやここから何かをすべきなのか)と考えを巡らせるも、冴えたアイデアは浮かばなかった。よって、俺は黙って廊下を通り過ぎることにした。


 厳密に言えば「何一つ変化がなかった」というわけではない。あの女の立ち位置が変わっていたからだ。


 もしかすると、ここからは周回を重ねるごとに徐々に変化が現れてくるのかもしれない。



 というわけでまたも青い部屋まで進む。


 一見、変わりないようなのですぐに行き過ぎようと考えたが、ふと思い立って時計を見てみた。長針は五八分を指している。時間が進んでいないということは、状況は停滞したままなのか……?



 扉を抜けるとまた廊下。


(しまった……!)


 そこに広がる景色を前に、俺は思った。


 気づけば女が目の前にいた。


 女は両手をだらりと垂らしたまま、まばたきもせずこちらを見つめている。黒目がちで白目がほとんど見えない。濡れた黒真珠のようなその瞳には、恐怖に引きつる俺の顔が綺麗に反射していた。


 次に動いたのは女のほうだった。操り人形のようなぎこちない動作で両手を上げる。青白い肌に血管が透けて見える。


 細い指を備えた手がへその高さ、続いてみぞおち、さらに胸へと順々に上昇する。


 その艶めかしい指先が目指す場所は一つ。向かい合って立つ男の首筋にほかならない。


(頼む、早く消えてくれっ……!)


 眼前の女に対してか、それとも頭上の電灯か、あるいはそれら両方か。ともあれ、俺はそのとき心から強くそう念じた。


 しかし祈りもむなしく、くだんの女の手はじわじわと、かつ確実に俺の首元へと迫りつつあった。そのあいだ、俺は瞼一枚動かせないままだった。


 やがて女の指先が俺の肌に触れた。その手は氷のように冷たかった。


(頼む、頼む、頼むっ!)


 必死の祈りがようやく通じたか、そのとき周囲を暗闇が覆いつくした。突然に視界を奪われてほっとするというのは、これまた初めての経験だった。



(……これで明かりが戻ればひとまず安心、か?)


 これまでのパターンからすればそうなる――はずなのだが、待てど暮らせど電灯が復旧する気配がない。廊下の窓からは光一つ差し込まず、漆黒の世界はただ静まりかえるばかりだ。


 俺は一刻も早く例の青い部屋に戻りたかった。あの暖炉と安楽椅子が、恋しくて恋しくてたまらなかった。


 しかしこう暗いと動くに動けない。


 当然、「ついさっき通った扉を戻ればいいか」とも考えたのだが、無情にも背後のドアは閉まると同時に施錠されていた。


 どうしたものかと頭を抱える寸前、ひらめくものがあった。この世界で目覚めた時、俺は「良い物」を拾っていたではないか。


 ポケットに手を伸ばし、その良い物を取り出す。上方のスイッチを操作すると、フラッシュライトは問題なく機能した。


 ともあれこれで前は見える――とほっとしたのも束の間、背筋を戦慄が走った。それはライトの白光が照らし出した、廊下の情景のせいだった。


 あの女はいなくなっていた。


 その代わりとでも言うのか、周囲一帯におびただしい量の赤黒い液体がぶちまけられていた。いつの間にやったのだろう、その液体は通路の壁という壁、床という床、はてには天井までをもあまねく覆いつくしている。


 ツンとした匂いが鼻を衝く。液体の正体は考えるまでもない。


 呆然とその場で立ち尽くしていると、ふと何者かの声が耳元で囁きはじめた。


 弱くか細い声だった。集中しないと上手く聞き取れず、しかしちゃんと聞こうとすればするほど、かえって遠ざかっていくようでもある。にもかかわらず、無視をするにはあまりに忙しなく語りかけてくる。


(少しでいいから黙ってくれ!)


 叫びだしたくなるのをどうにかこらえる。その衝動をごまかすように、俺は大股で歩きだした。この時はただ、その場に留まっていることさえ耐えられない心持ちだった。

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