第二話 ペインフル・トランジション 2


    三


 通路を過ぎるとあんのじょう青い部屋に行きついた。


 依然右手側のドアは開かず、一方の角にはコーナーテーブルが鎮座している。


 そして四方に見える壁のうち、唯一、扉が配置されていない一枚に目をやると、そこには新しく二枚の絵画が出現していた。題材はそれぞれ「洋館」と「野良仕事」だ。


 なるほど、「廊下に現れた物が小部屋に移動していく」というのが、この世界の基本的なルールなのだ。


(待てよ……?)


 ちょっとした思い付きから置き時計を凝視する。ぱっと見では気づかなかったが、いつの間にか長針が五六分を指していた。


 わずか数ミリの差なれど、これもまた確実な変化だ。



 その後、俺はまたも廊下に侵入した。


 次の変化は目に見えて明らかだった。人が通って然るべき通路のど真ん中に、古めかしい椅子がこれ見よがしに置かれてあったのだ。


 正直、見ていてあまり心地のいい情景ではない。椅子の存在そのものが悪いというのではなく、それが相応しくない場所に放置されたままなのが、どうにも居心地の悪さを感じさせるのだ。


 とはいえ、そうした不愉快さも長続きはしないはずだ。この椅子を正しい場所に移すのにさほど労力はかからない。なにせ扉をくぐるだけでいいのである。


 俺は足早に廊下を通り抜けた。あの青い小部屋に似合いの、しゃれた椅子を横目に見ながら。



 うきうきと部屋に舞い戻る。ところが――無い。


 さきの通路では簡単に眺めただけだったが、じつに立派な椅子である。成人男性がゆったりくつろぐにも十分なほどの大きさだ。


 それだけ大きな家具が室内に移動していて、見つけられないはずがない。


 にもかかわらず、無い。


(待てよ……?)


 再度、ちょっとした思い付きから置き時計を凝視する。思ったとおり長針は五六分を指したままだった。


 さあ来たぞ――察するに、ここからは単に前進するだけでは状況が変化しないのだ。すなわち、謎解きの時間である。



 俺自身が何らかの形でオブジェクト――マップ内の設置物――に干渉し、あらかじめ設定された条件を満たすことで、物語が進行する。


 基本的にはそういう考え方でいいのだろうが、しかし俺にできることはそう多くない。設置物をじっくりと観察したり、触ってみたり、あるいはどこかに動かそうと試みたりが関の山だろう。



 この青い部屋にある物体はすでに調査済みであるし、とくに気になる点があるでもない。ここはやはり、あのアンティークチェアが鍵になるか。


 というわけでまた廊下に進む。


 くだんの椅子はいまだ通路の中央に置かれたままだった。まあ、ここで消えられていたらそれはそれで困るのだが。


 改めて見るとなかなか豪奢な椅子である。全高は成人男性の胸よりやや下ていどか、見た目は古めかしいが時代遅れなふうではなく、「味がある」という評価がしっくりくる。全体のシルエットは丸みを帯びており、座面と背もたれとに張られたクッションは品のいい花柄模様に覆われている。じつにエレガントな佇まいだ。


 次いで視線を足元に移すと、さらなる特徴が目に入った。この椅子の足先は一般的なそれとは異なり、前後でアーチ状になっている。早い話、これはロッキングチェアなのだ。


 やわらかい座面に深く腰かけ、優雅に揺られながら時を過ごす――そういう光景を、俺もこれまで何度かは目にしたことがあった。とはいえ、それは映画やアニメの中だけの話である。現物を生で見たのはこれが初めてだ。


 俺はすぐに「座ってみたい」という衝動にかられた。よって、思うがままに実行した。


 想像よりも硬いクッションにしっかりと体重を預ける。しかるのち、足で床を押して前後に身体を揺らす。


(ああ、いいなあ…………)



 その後しばらく木材のきしむ感触を堪能したのち、俺は満ち足りた気分でその場を後にした。


「これでいいはずだ」という予感があった。これで進行に必要なフラグが立ったはずだ、と。


 俺は鼻歌交じりに廊下の奥のドアに向かった。いつものようにドアノブに手をかける。


 が、動かない。


(施錠されている……?)


 とたん、背後で物音がしはじめた。きいきいと何かを揺らすような音。例のロッキングチェアが瞬時に頭に思い浮かぶ。


 俺は反射的に振り返――られればよかったのだが、無情にもそのタイミングはすでに逸していた。今はただ背中越しに届く異音におびえながら、開きもしないドアを見つめるばかりだ。


(ああ……これ振り返ったらバアン! のやつだ……)


 想像しただけで心臓が縮こまる。


 とはいえいつまでも立ち尽くしてはいられない。俺はここ一番とばかりに気合いを込めると、意を決して振り返った。


 位置関係で言えば、俺は例の椅子を後ろ側から見る形になっていた。ゆえに、俺は背もたれのフレーム部分が最初に見えるものだと思っていた。


 だが、実際にそこに見えたのは黒いベールのような物体だった。


 背もたれのやや上方から真ん中部分にかけて、何やら黒い層が垂れ下がっている。長さのわりには横幅はそれほど広くない。ちょうど、人の頭の幅と同じくらいだろうか。


 と、そこまで考えてようやく気が付いた。「あれは背もたれにかかった髪の毛なのだ」と。


 瞬間、椅子に座る何者かがゆっくりとこちらに振り向きはじめた。


 俺は本能的に目を逸らそうとした。得も言われぬ危機感が背筋を走る。しかし、上手くいかない。


 あえなくぶつかる両者の視線。心臓を鷲掴みにされるような感覚があった。


 とたん、電気が消えた。


 かと思えば、明かりはすぐに戻った。


 暗転はほんの一秒足らずのことだった。にもかかわらず、例の黒髪の人物は忽然と姿を消していた。このとき俺の目に映っていたのは、惰性で揺れる一脚の椅子のみだ。


(女、だったな……)


 束の間に見えた相手の顔を思い出す。その女の肌は、体温を感じさせない冷たい色をしていた。


    ×


 いいジャブだ……ばっちり効いた…………


「バアン!」って感じではないが、きゅうっと胸を締め付けられるようだ。それも呼吸が苦しくなるほど。


 転生前の俺ならここでいったん休憩していたところだろう。温かいコーヒーでも飲んで気持ちを落ち着かせるのだ。


 とはいうものの、ここにはポットも自販機もスタバもない。今は黙って進むしかないのである。

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