プロローグ 3

「……いいでしょう、柳田啓吾さん。あなたは褒美に値します。特筆すべき善行も、また秀でた功績も残してはおられませんが、それでもあなたは正しい心を持っている。人の世を生きるという苦行の中で、最後までそれを失わなかった……ならば、わたくしはあなたに報いるべきでしょう。現世の慣例はさておき、やはり正直者は救われるべきなのです」


「はあ……それはじつに身に余るお言葉ですが、しかし褒美というのはいったい……?」


「覚えておいででしょう? この死後の世界の第二の目的は、死した者の次なる行き先を決定することです。心悪しき者は悪しき世界へ。清く正しい者は清く正しい世界へ。あなたはこれからとても美しく、素晴らしい世界に生まれ変わるのです」


「ええ、本当にいいんですか? 自分みたいな半端者が……いやでも、正直うれしいです、そんなふうにおっしゃってもらえて。これまで、あんまり褒められたことなかったので……」


「うふふ、それも存じておりますよ…………さて、では今から実際に転生していただくわけですが、最後に一点、確認しておく必要があります。柳田さん、あなたは何か、やり残したと思うことはありませんか?」


「やり残したこと、ですか……ううん、どうだろう……」


「先に説明しておくと、たとえ転生したとしてもあなたの精神は『根本的には』あなたのままです。がしかし、あなたが過去――という言葉は厳密には正確ではないのですが――、自らが柳田啓吾氏であったと思い出すのは困難になります。よって、捉えようによってはこの転生の瞬間こそ、あなたと現世との繋がりが正式に絶たれる瞬間だとも言えます。ですので、もう一度よく考えてみてください。本当に何も思い残しはないのか、と」


 俺は目をつぶって考えた。


 改まって「やり残し」と言われると、これぞと思うことはない。突然の不幸ゆえあれこれと思い当たる事柄はあれど、いずれもつまらない内容ばかりだ。


 ただ、「思い残し」となると話は別である。


「あの……」


 俺が小さく言うと、女神様は少しだけ首をかしげた。


「はい、なんでしょう?」


「一つ訊きたいことがあるのですが、その褒美というのは、いくらか融通を利かせられるものなんでしょうか?」


「あなたが思う融通の内容によります」


「そうですか……いやじつは、ちょっと相談がありまして。というのも、友人や肉親たちのことが気がかりなんです……ほら、自分の死はあまりに急なことだったでしょう? だから、やっぱりショックを受けているんじゃないかと思って……自分の両親はこれまで立派にその務めを果たしてきました。友人たちだって、こんな至らない人間によく付き合ってくれましたよ。そんな人たちが自分のせいで悲しむなんて、やっぱりいたたまれません」


「ううん……なるほど……」


「だから、褒美というなら何か、彼らのためになる事をしていただけないでしょうか? 彼らの悲しみが少しでも和らぐように。彼らの今後の人生が、できるだけ明るいものになるように」


「……なるほど、おっしゃることは分かりました。しかし本当によろしいので? わたくしが知るかぎり、転生にまつわる特権は他人のために手放すにはあまりに惜しいもの……あなたはそれで後悔なさいませんか?」


「後悔はするかもしれません。というかします、多分。でも、ここで黙ってたって結局は同じですよ。いずれにせよ悔いは残ります。だったら、後味がいいほうを選ぶのがずっといいじゃないですか。だから女神さま……どうか、よろしくお願いします」


 俺は深く頭を下げた。宙に浮いたままお辞儀をするのは、なんとも不思議な感覚だった。


 そんな俺の姿を見て、女神さまは「うふふ」と笑った。


「やっぱり、あなたは思ったとおりの人でした……柳田さん、わたくしはいよいよあなたを気に入りましたよ」


「そんな、恐縮です」


「こうなったらとことん特別扱いです。ご両親やご友人らのことはお任せください。わたくしがいいように取り計らいましょう。彼らの前途は明るいですよ。それと、今あなたが頭の片隅で考えていらっしゃる、不運にもあなたを殺めてしまった運転手氏の心のケアも承ります」


「あ、そこまでやってくださるんですね」


「ええ、わたくしだって神ですからね、まあまあこれくらいは…………とまあ、そういうわけでして柳田啓吾さん。今度こそ、あなたを引き留めるものは何もありません。どうぞ心置きなく理想の異世界ライフをお楽しみください」


「至れり尽くせりで何だか申し訳ないなあ……あ、ところで女神さま?」


「はい」


「自分が転生する世界っていうのは、いったいどんな場所なんですか?」


「それは見てからのお楽しみ――という趣向も乙なものですが、お望みでしたら軽くお伝えしておきましょう。一言で言えばあなたご自身が望む世界です。こんな場所に行ってみたいとか、こういう所で暮らしてみたいとか、こんな経験がしてみたいとか――そういう、あなたのお望みにかなった世界にこれからあなたをお連れします」


 望みのまま、と言われると少し戸惑ってしまう。こういう機会に恵まれるとは思ってもいなかったので、希望がまとまっていないのだ。


「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。もしあなたが自覚しておられなくても、あなたの深層心理はほかの何よりも内なる理想を理解しています。そこでわたくしがその深い部分を読み取れば、自然、あなたが心から願う場所にご案内できるというわけです」


「楽々ですね」


「それはそうですとも。だってご褒美なんですもの。手続きは簡単なほうがいいに決まっています……さて、ほかに何かご質問等はございますか?」


「いいえ、今度こそ準備万端です」


「分かりました。それでは、いよいよ転生のお時間です。お別れは少しさみしい気もしますが、気を落とすことはありませんよ。いずれまたお目にかかれることでしょう……そういうわけで、どうぞ心ゆくまでユートピアをご堪能ください」


 と彼女が言い終わるや、ゆらゆらと心地よい眠気が立ち上ってきた。意識が緩やかに輪郭を失っていく。


 生きているうちには感じたことがないほどの安寧。その柔らかな光の清流に、俺はためらいがちに自身を投じた。

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