第6話 花火 ――7:57 p.m.


「うわぁ……。」


 隣りにいる草華が思わず声を漏らす。その言葉は幻滅によるものではなく、驚嘆と感動によるものであるという事は、容易に想像がついた。


 夜の黒い森林を抜けた先にあったのは、月光に遍く照らされて輝く見渡す限りの野原。その緑の端、急斜面の少し上に、放棄された灰色の展望台がまるで月面に取り残された着陸船のように、ひっそりと佇んでいる。屋台の景品を入れた袋を肩にかけながら、悪路を踏破して疲れた自分自身に言い聞かせるように、俺は元気に呟いた。


「ふぅ、ここまで来た甲斐があったな。」

「貴方中々やるじゃない。何でこの場所の事知ってたの?」


 浮かんで来たのは、誰か二人の大人に手を引かれて、ここに連れてこられた遥か昔の記憶。記憶の中の俺はとびっきりの笑顔で、手を引いている二人も同様に優しい笑みをこちらに向けて浮かべている。展望台のコンクリートもまだ草に覆われておらず綺麗なままだ。青空と白い雲がやけに眩しい。


 ――頭を振って、掻き消した。あぁ、思い出すだけで反吐が出る。


「んー、勘だよ勘。こんなにデカい山なら頂上に広々とした場所でもあるんじゃねぇかと思ったの。」

「……何よそれ。超能力かなにか?」


 こそばゆい草華の窃笑が、夜の野原に小さく響く。それと同時に草原がざぁっと波立って、春の暖かな夜風が俺ら二人を包み込んだ。野草の湿った匂いと、夜特有の、あの何とも表現し難い匂いが心地良い。満月は相も変わらず黄色い光を下界に投げかけている。……視界に映るもの全てが囁きかけてくるようだ。『今、この世界には二人しか存在していない。お前と、横にいる彼女だけだ。』


 ――そんな夢の中のような情景でぽつり、我に返って俺は呟いた。


「そういえば、花火打ち上がるのって多分そろそろだよな。」

「まぁ麓の屋台にいた時点であと1時間半とか誰かが言ってたから……、大体それくらいかもね。」


 麓の屋台、か……。つい数秒前に思い返した昔の記憶とはまた別のベクトルの嫌な記憶が、頭の中に溢れ出す。全く、あんなに悍ましいものを今まで俺は見たことがない。生気の抜け落ちた不気味な笑顔が、屋台の甘ったるい光に照らされてどこを見渡しても溢れかえっていた。誰も彼もが死んだ目をして、まだある筈の生を手放してしまっていた。俺達は化け物と悪魔のコンビだが流石にゾンビにまで身を堕としたくはない。そんな風に、人混みの中を掻き分けながら強く誓ったのを覚えている。


 膝程まである雑草を搔き分けて進み、俺達は元々遊歩道であったのだろう曲がりくねった獣道を歩く。コンクリの床板と柵だけのシンプルな展望台に備え付けられた、これまた薄汚れた灰色のベンチに腰掛けて、深黒に沈む街全体を見渡す。


 普段ならこの場所からはピカピカ光る夜景が拝めたのかもしれないが、停電で明かりという明かりが消え去ってしまった今では、あの麓の屋台の橙の灯りが宝石のように輝いて見えてしまう。死に生きる者達の喧騒と祭囃子が、時折不快でない程度に聞こえる。


 腹の虫と今しがたの嫌な記憶二つを押し潰す勢いで、屋台で貰った焼きそば(タダで売ってた)をひたすら口の中にかきこんで、必死に噛み砕いて。頬張ったまま草華に声をかけた。


「なぁ、おふぁえ、いふぁあおいふぇふぇるか?(お前、今楽しめてるか?)」


 罵倒ではなく、含み笑いが返ってきた。


「そうね……、まぁ及第点ってトコロじゃない?夕方のバイクも然り、さっきの祭り会場での逃走劇も然り。なかなかに狂っていて面白かったと思うわ。……それに今、馬鹿なカレシとこうして二人でいれているわけだし。」


 祭り会場での逃走劇というのは、草華にナンパ目的で声をかけてきた年上のDQN(逆に獣に堕ちた野郎もいたという訳だ)から逃げ果せた時の事だ。最終的に設営されていた櫓と電気ケーブルを利用して全員返り討ちにしてやった。あれ程気分の良い事もこの先そうそう起こる事ではない。


「へっ、馬鹿で悪かったな。」

「本当、土下座してもらいたいくらいだわ。」



 ふいに、会話が途切れて、夜のしじまが世界を包む。


 ……いや、しかし本当に静かだな。こんな静寂に俺は今まで遭遇した事があっただろうか。気がつけば麓の騒ぎもいつの間にか消えている。虫の鳴き声も人の生活音も無く、在るのはただ、俺が焼きそばを咀嚼する音と草華の呼吸音のみ。こんな時、詩人だったらどう現在の状況を表現するのだろう。なんてらしくもない思考の深みに嵌りかけた俺を、突然、草華が呼び戻した。


「ねぇ。」

「うん?」


 その顔から察するに、どうやら草華は何かについて悩んでいるらしい。


「何かさー……、う~ん。」

「要件は定まってから伝えてくれ。お前頭良いんだろ?」

「………、私ってさ、ひょっとして本当は頭悪いのかも。」


 はぁ?(怒)何言ってやがるんだコイツ。悪いが単純な当て付けならもう間に合っている。だがそんな俺の文句の切っ先は、コンマ数秒早く口に出した草華に逸らされてしまった。


「何かさ、今のこの状況、少し思い描いていたのと違うのよね。」

「……というと?」

「んー、何て言えばいいのかしら……何かこう、しんみりとした空気になるんじゃなくて……、もっと情熱的なものだと思っていたの。」


 危うく口に溜め込んだ焼きそばを吹き出してしまいそうになる。いや花火を待ってるっていうタイミングで『情熱的』は無いだろwww。だが哀しい哉、俺はその明確な理由を日本語で的確に表現する事が出来ない。


「お前さ、それは確かに頭悪いぜ。花火ってのはもっとこう、何というか、あー……」

「ふん、何よ。アンタも分からないんじゃない。いいわ、教えてあげる。花火が打ちあがる時にカップルがすることは……。」



 ――その時だった。


 ヒュルルルルル……


 突如として、白い光の糸が、目下の闇に呑まれた街のどこかから天に向かって打ち上がる。それに続いて他の場所からも、閃光が黒一色の背景の中へと一斉に放たれて——―、嗚呼しかし、それも全部一瞬の事。


 全てが弾けて、消えた。その無数の極彩色の爆裂は、美的感覚の微塵もない俺達におもいを抱かせるには、十分な程の迫力があった。


 ……強く、頭の中に湧き上がる。


 何 だ こ れ


 急ごしらえで準備したせいなのだろうか、打ちあげるタイミングも、花火の各玉の配色も、更にはその規模の大きさのバランスまで最初を除いて何もかもがバラバラで、ムードも神秘性もとてもあったもんじゃない。


 現に今この瞬間、立て続けに色相環の法則を無視した様々な種類の花火が空に上がったと思ったら、今度はランダムなタイミングでまた別の種類の花火が空に上がり、それまでに創り上げられていた余韻や炸裂音のテンポを全て台無しにしてしまっている。目にも悪ければ耳にも悪い。一言で言うなら、カオスだ。カオスが夜空に満ち溢れている。


 なぜか無性に悔しくなって、俺は草華の方へと同意を求めて振り向いた。きっと草華も俺と同じ事を思っていたのだろう。文字通り開いた口が塞がらないでいる。


「……で、キスでもするか?」


 ——やってしまった。特に何も考えず、さっき草華が言いかけていた言葉の続きを皮肉たっぷりに補完してしまった。後悔に固まった俺の目の前で、草華の何とも悔しげな顔が、氾濫した無秩序な光の洪水に照らされて、七色に映える。いやお前がそんな顔するなよ。折角あの時楽しませるって約束したのに。何だかこっちが悲しくなっちまうじゃねぇか。


 絶望、とは言わないまでも居心地の悪い空気が、俺達のいる空間――即ち世界全体を満たしてしまったようで。その空気にどこか悪い意味での懐かしさを覚えて、途端に、全て思い出してしまった。逆になぜ忘れていたのだろう。自分の知能の低さを呪う。


 ――ああ、何だ、いつもの事じゃないか。何をしても上手く行かないこの無力感も。大切なものを台無しにされてしまった時のやり場のない怒りも。それから、どうしても埋めることの出来ない灰色の虚無感も。全て、つい昨日まで何千回も感じ続けていた事だ。


 俺の中にずっと昔から潜んでいた忌々しい何かの声が、次第に熱を帯びて大きくなっていく。


 さぁ、いつも通り潔く諦めてしまえ!!間抜けなお前がいくら口汚く罵って抵抗した所で、どうせ世界はあと数時間で滅び去る。化け物なんだろう?孤独でいるのが好きなんだろう?こんなクソ喰らえな世界なんて消えてしまえばいいと願っていたんだろう?ならもう死んでしまえ。お前は誰にも理解されない。お前は誰かを幸せにする事も出来ない。『お前は不幸にしかなれねぇ。お前の人生に、何の意味もなかったんだ!!』


 ……あぁ、何で俺はこんな些細な事で絶望しているんだ?考えるだけアホらしい、俺らしくもない。いつも通り、ヘラヘラしていればいいじゃねぇか。しれっとした顔でも浮かべて、草華に何か軽いジョークでもかけてやれ。


 だが、内なる自身の声に従って、口を動かそうとしたその瞬間――、俺は気付いてしまった。


 出来ない。俺の得意技であった筈の冗談が、首を強く捻っても、こめかみをぎゅっと強く押してみても、繰り出せなくなってしまっている。そうこうしてる間にも、草華はどんどん失意の底に沈んでいく。


 ——不意に、悟ってしまった。嗚呼、そもそもなんで、本当の幸せがこの期に及んで用意されていると思い込んでいたのだろう。草華のように辛い現実に立ち向かいもせずに、最初から無理だと決めつけて諦めてしまった。そんな人間ではない何かの末路に、端からハッピーエンドなんて用意されている筈がない。


 神様は全部初めからお見通しだった。全部知っていたから、俺に最高の舞台を用意してくれた。思わず嘲笑えてしまう程無様に、自然と涙が零れ落ちてしまう程惨めに。自身が一生をかけて積み上げてきた白い絶望に身を蝕まれながら、一匹の化け物のまま、野垂れ死んでいけるように。


 自分の意思に反して、口角が上がっていくのを感じる。冷たい涙が、頬を伝っていくのが分かる。全身の力が緩んで、思わず口に出してしまった。


「あぁ……何でこうなっちまうんだろうなぁ。」



 ――それは、丁度飛行機の音が鳴り響いてきた時と同じように。空いっぱいの花火よりも苛烈でイカれた何かが俺の頭の中に飛び込んできたのは、そう、勝手に絶望していた時だった。

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