3. このあまりに不自由な自由からの脱出
状況を整理しよう。
今、私は動けなくなっている。
無重力の立方体の中にぷかりと浮いて、動くことができなくなっている。
そして、30分……いや、20分後には通信機の前にいないといけない。
予定時刻の通信を受け取れなかった場合、周囲は『事故』を想定して動き始める。いや、まごう事なき事故ではあるのだけれど。……こう、あってやむなしの不慮の事故でも過失でもなく、「要らんこと」をして起こした事故だ。恥ずかしいし、怒られる。
もしも、物資が「かがりび」に届くタイミングまでに、通信機の前まで戻れなければ、受け取れなかった物資を丸ごとロストするか、とんでもない迂回コースでの再ランデブーを要求することになるか。
どちらにしても大損害だ。
想像してしまった。全てが露見して、ネットで嘲笑記事が書かれる様子を。
『ロボットアーム専門家 実験施設に侵入してセルフ拘束! 「宇宙空間でぴょんぴょんしたばっかりに……」』
……身震いする。
そして、決意する。
今日は、何も起きていない。何も事故など起きなかった。起こしていない。
つまり、私は時間内に、無事にハッチの向こうに生還するのだ。宇宙開発に注ぎ込まれた予算と、私の名誉を守りきるために。
明日も「ちょっとお堅い笹倉ちゃん」でいるために。
どうすれば、私はハッチに戻れるだろうか。
とにかく、壁に掴まれれば良い。
壁に取り付いてしまいさえすれば、跳躍なり取っ手を伝ってなりで、ハッチに戻れる。
では、どうすれば壁に向かえるか。「移動」できるだろうか。
極論、私たちが
ここは無重力。「落っこちる」ことはできない。
そして、触れられる物は何もない。押し出すことのできる「重さ」がない。
「ろくな物、身に付けてないもんね……」
ポロシャツにスラックス、あとはメガネに腕時計くらいしかないので、身に付けているものの重量は1キロにも満たないだろう。宇宙服を着ていれば、脱ぎ捨てて蹴っ飛ばして、ほどほどの推力を得られただろうが。
扇ぐ、しかないか。
私はポロシャツを脱いだ。とても人様にはお見せできない格好だ。なんで無人の宇宙施設でストリップまがいのことをしなくてはならないのかと情けなくなるが、ギャラリーが存在しないのは幸運だったと思うことにしよう。
この服をうちわのようにばたつかせ、空気を押し出すことで推力を得る。行けるか。
目指すのは、近い壁がいい。つまり、目測1メートルと少しの距離しかない、頭上の壁だ。
私は体育座りよろしく脚を畳み、腰の下でシャツをバタつかせてみた。頭上方向に、進め!
「あっ……あっ……あ、これ、ダメかも」
ポロシャツを私が振り回すのと互角な感じで、私がポロシャツに振り回される。
私にはポロシャツを超える質量があり、ポロシャツには私を超える空気抵抗がある。ほぼ互角。期待したような安定した推進力は得られそうにない。私は腕を止めた。
ハンディ扇風機でもあればな。ゆっくりとでも確実に加速ができたろうに。
アプローチその2。壁にシャツを引っかけて引っ張れないか。
「……えいっ! ……えいっ!」
ダメ。
ドックの壁を撫でることはできたが、ちょうど引っかかるような突起はない。
ずず。何度目かの試行で、指の中をポロシャツが滑った。背筋を冷たいものが走る。
大丈夫。少し滑ったが、まだ私はシャツを掴んでいる。
手を離したらあまりにも悲惨だった。シャツの重量を壁に投げつけるということは、私自身はその分、壁から離れてしまうということだ。
私は半裸のまま、数少ない移動手段の候補を失い、もっと取り返しの付かない状況に陥っていたことになる。
跳ね上がった心拍数を戻すまでには、数分の時間を要してしまった。
アプローチその3。服を投げ捨てて、その反作用で壁の方向に加速できないか。
これは、残念ながら却下せざるを得ない。
壁に取り付くだけなら、この方法で可能な気がする。しかし、投げ捨てた服は空中に漂ってしまう可能性が高い。そうなると、制限時間内に回収できるかはあまりに賭けだ。服を取り戻せないままドックが開放されたら、服は宇宙空間に飛んでいき、私は固い女あらため宇宙痴女となってしまう。
反作用。質量。なにか、捨てられる物。押し出せる物。
ここまで考えて、私は一つの結論に辿り着いた。
私にとって、捨てることが可能で、回収が不要で、多少の質量を持った物体。おそらくだが、今なら私はそれを「捨てる」ことができる。
何かと何かを脳内で秤にかける。それをこの場で「捨てる」ことによって、私は大事な何かを失うことになるだろう。しかし、現在の「事故」が露見するよりは、秘密の裡に「何か」を捨てる方がマシだ。
私は、ドックのコンディションを思い出す。
監視カメラは起動していない。
目視できる監視カメラを確認。ランプは確かに消灯している。
「ふぅ」
私は軽いため息を吐く。
そして、決心を固めた。
私は手の僅かな震えを自覚しながら、ベルトを外し始めた。
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