2. 私は如何にして心配に支配され大地を愛するようになったか

「笹倉、『かがりび』に無事搭乗しました」

[了解。どう。住み心地は良さそう?]


 到着してすぐ、私がしたのは、「はしだて」への通信だった。

 いつ致命的な事故が起きるとも限らない宇宙空間。報・連・相の重要さは地上を遙かに上回る。


「分かりませんね。三日も住んでみれば分かると思います」

[食料もたくさん届くし、住んじゃう?]

「原田さんが恋しくなっちゃうから、予定通り、明日には帰りますよ」

[嬉しいねぇ。あ、天野さん、話します?]

[あー、天野だ。聞こえるか?]

「良好」

[資材の到着予定時刻は、約2時間後の日本時間ヒトナナヒトゴー。本格的な準備の開始はヒトロクマルマルとする。30分だけになるが、休んでいていい。まずは無事な移動、ご苦労さん]

「了解です。腹ごしらえと、仮眠くらいとってるかもしれません」

[では通信おわる]

「またあとで」

 切断。

「ふぅ」

 私は軽いため息を吐く。

 どんなに気安い間柄であっても、通信は軽い緊張を、通信終了は軽い弛緩を伴うものだ。

 そして、30分の自由時間か。

 時間はある。これは、「アレ」をするチャンスではないか。

 私は、普通に狭い「かがりび」の一般居住スペースを抜けて、収納型ドックスペースに向かった。

 ドックにつながるハッチには、危険を示すマークと、目的外の立ち入りを禁じる注意書きが掲示されている。単独でドックに立ち入るな、ドック立ち入り時は、常にドック外に別のクルーを配置せよと。

 要は、今の私には入るなと言っている。

 そして今、ドックに入る【任務上の】必要はない。

 しかし、私は入らずにはいられなかった。1ヶ月にわたる宇宙ステーションでの生活。私のフラストレーションは限界だったのだ。


 ハッチ横のディスプレイで、ドック内に空気があることを確認。ドックと宇宙空間を隔てる開閉式の壁も、機密されていることを確認。他にもいくつかの項目の指さし確認を経て、私はドックに立ち入るべく、ハッチ開放の操作を行った。

 通路のハッチが僅かに開き、一瞬、空気の流れが生じる。

 万一、宇宙空間と直通になっている可能性を想像してヒヤリとするが、空気という空気がハッチから抜けていくようなことはなかった。

 いつものように足で壁を蹴り、突起を掴んだ腕で体を漕いで、私はドックの中に体を滑り込ませた。

 口を突いて、感嘆の声が漏れる。

「ああ……」

 広い。素晴らしく広い。

 元来たハッチの閉鎖を行ったあとで、気付けば私は両足に力を込め、ドック内を「跳躍」していた。

 宇宙は広大だ。

 しかし、こと人類の生存環境に限ってしまえば、宇宙はあまりにも窮屈だった。

 狭い船内。油断すればすぐに何かと、誰かと衝突する世界。せっかく、重力の軛から逃れているというのに。

 宇宙飛行士としては不器用な私が味わってきた、無数の痛みと、たまにたんこぶ。人間は涙の数だけ強くなれるわけじゃない。

 それが! それが! この「かがりび」では! なんということだ!

 広いのだ。小学校の教室くらいの、立方体の空間。思い切り暴れても、決して何者にもぶつからない空間。

 思い切り跳躍すれば反対の面に結構なスピードでぶつかってしまうから、目一杯の「運動」にはならない。しかし、今の気持ちは、あまりにも「自由」だった


 ぴょーん。

 ぴょーん。


 跳躍する。

 反対側に到達するまでに、腕でほどよく空気抵抗を作り、くるりと身を翻す。結果として、足で床に……壁に着地する。さらに跳ぶ。気の向くままに。

 ああ、気持ちいい。

 EVAのような緊張はない。

 重たい宇宙服を着込んでもいない。

 今の私は「固い」どころか、掛け値なしに宇宙一自由な人類なのではないだろうか。


 何度目かもわからない「ぴょーん」をしようと、足に力を入れる。

 ずるっ。

 踏み切りの角度が壁に対して浅かった。私は足を滑らせた。

 これまでよりも、ずっとノロノロした速度で、私は壁を離れる。

 無重力でも、空気抵抗は存在する。移動速度はゆるゆると落ちる。

 そして、壁に到達するしばらく前に、私の体が止まった。


「……え?」


 蹴る物も掴む物もない。

 私を束縛する物は何もない。

 しかし、私の拠り所となる物も何もない。

 そんな状況に気付くのに、あまり時間はかからなかった。

 ドックの「危険」って、もしかして、こういうこと!?

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