幕間Ⅱ ②審判の言うことは絶対なんだろう?
「真珠美ちゃんは天才ねぇ。まだ小学校に通っていないのに、中学年で習う漢字が書けるのね。先生やご両親から、勉強しなさいと諭された訳ではないのでしょう? それにも驚かされるわ」
「倅も見習ってほしいわ。私のいる前では、ちっとも勉強する様子を見せないのよ。お菓子を持って行ったときだけしか、参考書を開かないのよね。オンライン学習ツールは使ってくれているみたいだけど、二画面にしてネット検索しているとしか思えないの」
「学力が身についていないことは、学校や塾のテストで数値化されるというのに。そこまでして正解率百パーセントを叩き出したいものかね」
「叔父様。課題を答え丸写しにするのは、今も昔も変わりませんわ。答えが分からずに時間を持て余すより、課題を終えて遊ぶことを優先しませんでしたか?」
つまみになる重箱が緩やかに減る横で、子ども達はくるみの田作りと黒豆を無心で食べていた。栗きんとんと伊達巻は朝のうちに消えた。好きなものが食べ尽くされるまで時間の問題だった。
「有喜良ちゃんも、同じ歳の子と比べたら群を抜いていますわね。英会話の習得も、ヴァイオリンの腕も素晴らしいわ」
僕は箸を止めた。
やっと、じぶんのはなしをしてもらえるんだね。
顔をもたげた期待は、長く続かなかった。
「素晴らしいですけど、お姉さんとの差は簡単に埋まりそうにありませんわね。出来のよすぎる姉を持つと、さぞかしお困りでしょう」
「お年玉は、有喜良ちゃんの方を多めにしておいたよ。あれで好きなものを買いなさい」
親戚から向けられる共感は、慰めにならなかった。期待していないから頑張らなくていいと言われる方が、僕の心に響いたはずだ。涙がこぼれかける。
かんしゃくをおこしてしまっては、みぐるしいよ。なにごともなく、わらうんだ。
「ありがとう、ございます。おじちゃま」
にぎやかなおいわいのせきを、だいなしにしてはいけない。ますみおねえちゃまのいもうとは、くうきをよめないなんて、おもわれたくなんかない。
親戚を騙せた笑みは、姉に通じなかった。
「あきらがいるから、わたしはまけられないとおもえるの。わたしのとなりは、あきらでなくてはいけないのよ。おとっているなんて、おっしゃらないで」
「真珠美ちゃんったら。機嫌を直してちょうだい。有喜良ちゃんとお揃いのお年玉にしてあげるわ」
そういうことではないの。
真珠美姉さんの悲しそうな目は、見たくなかった。宝石にふさわしい笑顔でいてほしい。
「あきら、さいこうのプレゼントだわ。ありがとう」
花冠を感謝されたとき、僕は役目を見つけた嬉しさを噛みしめた。ようやく僕も、真珠美姉さんにはできない生き方ができる。
自分の価値を磨くために、聖ヒルデガルド小学校のときは演劇部に入った。役をもらっただけ別人になれる。僕にもスポットライトが当たることが嬉しかった。演技が終わった後も、校内で僕の話題が持ちきりだった。
「有喜良様は白薔薇が似合いますわ。私達と同じブラウスをお召しになっているとは思えないほど、神秘的ですもの」
「いいえ。深紅の薔薇ですわ。鼻筋の高さをご覧になりまして? 物憂げな表情も、笑顔もふつくしい王子様ですわ」
主計真珠美の妹としてではなく、一人の人間として見てもらえる喜びに舞い上がった。
フリルやリボンを使ったドレスより、パンツスーツが似合うらしい。体のラインがはっきり浮かび上がる衣装を、多くあてがわれた。露出が控えめで手足が長く見えるデザインは、観客の溜息を誘った。
「あの役のように、有喜良お兄様が私に尽くしていただけたら。幸せすぎて息が止まりそうですわ」
「一度きりでよいですから、有喜良お兄様に甘やかされたいですわね」
王子でもお兄様でも、僕を求めるのなら演じてみせる。職員室に運ぶノートを一緒に運んだり、大会出場人数の足りない部活があれば助っ人を引き受けたりした。
古都羽と出会ったのは、小学校最後の夏休みだった。育児休暇から復帰したメイド長が、娘を伴って来た。
「奥様。娘を連れてくることをお許しくださり、ありがとうございます」
「いいのよ。双子ちゃんの誕生を、心からお祝いするわ。夫に子ども三人を任せるのは大変でしょう? 有喜良が家にいるから、古都羽には話し相手になってもらいたいの」
らせん階段から玄関を見下ろした僕は、古都羽に体の自由を奪われた。今まで見たどのビスクドールよりも、美しい少女だった。
賞賛の言葉は、役で何度も口にした。舞台に立ったときは恥ずかしくなかったはずなのに、口説き文句が出てこない。
「よろしく。古都羽」
ありきたりな自己紹介に、古都羽は表情を変えなかった。それすらも僕は新鮮だった。
古都羽と一緒にいる間、ほとんど静かにできなかった。興味のあること、共学での生活のこと、何でも聞きたがった。両手の置きどころにも困らされた。古都羽の背中に回したい腕を、必死で抑えた。
夏休みが終わっても、古都羽は僕の家に遊びに来てくれた。
「ごめんよ、古都羽。待たせてしまったね。今日はテスト前の勉強会に付き合わされちゃってさ。何を読んでいたのかな?」
「私の本ではありません。友人から強引に貸されたものです」
表紙を隠される前に、タイトルは確認できた。聖ヒルデガルド学園でも流行している漫画だ。片思いの人に「私のことが好きだったらお姫様抱っこしてよ」と告白するヒロインは印象的だった。その前に指輪だろと、左手の薬指にキスをされる展開も、読者の胸を苦しくさせた。
「古都羽が少女漫画を読んでいても、変じゃないよ。僕だって、お姫様抱っこされるのは憧れる」
「お嬢様と同じではありません。私はあのようなものなど、羨ましくないのですから」
「それでも読んであげているんだね」
「ただの付き合いです。いい加減な感想は、貸していただいた方に失礼ですから」
古都羽が忘れているときを見計らい、彼女を抱き上げた。両腕に密着させた背中と太ももが温かい。
「古都羽は軽いな。ずっと抱えていられるよ」
「降ろしてください。子どもみたいで恥ずかしいです」
「暴れないでよ、お姫様」
軽々と持ち上げられたことに浮かれ、カーペットの上でターンを決める。僕の手を握る古都羽に動揺し、抱えたまま床へ倒れ込んでしまった。浅さかが招いた事故に、僕は後悔した。床に体を打ちつけたことより、古都羽を怪我させていないか心配だ。
僕の目の前に、左手が差し出される。
「お嬢様。どこか痛むのですか?」
先に身を起こした古都羽のものだった。
痛むよ。王子様でありたいと願ってきた僕より、きみの方が似合っている。このままキスされてもいいと、思ってしまったじゃないか。
「すまない。きみを守りきれなくて」
「お嬢様に怪我がないなら本望です」
古都羽は僕が何度謝っても、同じ言葉を繰り返した。
背中に傷を負っていたことは、のちに古都羽の母から聞いた。階段からつまずいて尻もちをしたなんて、笑い話よねと。
古都羽が秘密にしてくれたと知り、身の丈に合わないキャラは捨ててしまおうと思った。しかし、使い続けた王子様キャラは定着してしまったらしく、別のものに変えることは難しかった。むしろ無意識に磨きがかかる。中学での寮生活はルームメイトを五人連続で惚れさせてしまい、二年からは個室を余儀なくされた。古都羽が高校で入ってくるまで長かった。
それから間もなくして、オープンスクールの手伝いで案内を任された。中庭を通りかかったとき、一年生が数名の男子に囲まれているのを見つけた。家族での来校にかこつけて、連絡先の交換を迫っているようだ。
「お嬢さん、お困りかな?」
「助けてください。有喜良お兄様」
僕の背中に隠れた子は、すっかり怯えていた。僕は胸に手を当てて一礼する。
「本校にお越しくださり、ありがとうございます。一般公開が限られている女の園は、格別な景色でございましょう。花に見とれるあまり、力ずくで手折られてしまわれるのは、紳士がするべき振る舞いなのでしょうか?」
「知るかよ。こっちは貴重な経験したくて来てんだ。邪魔すんな」
「お前だって羨ましいんだろ? ここじゃ恋愛できねーもんな」
「しゃしゃり出て来んな。
反論されると思っていなかった僕は、爪が食い込むまで握りしめた。品定めされる視線が不快だった。
「信じられませんわ。今どき、あのような呼び方をする時代遅れがいるのですね。ここをナンパする場所だと思っているのだから、当たり前の価値観だと言うの? 全くもって嘆かわしいわ」
聖ヒルデガルド生ではないブレザーが、横髪を耳にかける。僕に突っかかってきた男子達は一目散に逃げていく。
「わたくし、こちらの高校を受験したいと考えていますの。あなたが内部進学されるのなら、ご学友になれるかもしれませんわね。わたくしは松蔭寺藍奈と申します。あなたのお名前は?」
「有喜良。主計有喜良だ」
中学の校舎に迷い込んでいた藍奈を、高校の方へ誘導した。
「藍奈は野球部に入っているんだね。でも、この学園にはないよ?」
「存じておりますわ。高校で野球を続けるつもりはありませんの」
「なぜ?」
「球速が百四十を超えるピッチャーは、女子でいませんもの。尊敬や畏怖を込めて『化け物』と呼ばれる鉄腕は、男子でなければ対戦できませんわ」
「きみの試合を観に行ってもいいかな?」
「スタメンに使われませんわよ。練習なら構いませんけれど」
藍奈の言葉通り、最後の試合でも使われなかった。スタンドでメガホンを握る藍奈は、観客にしかなれなかった。
かつてグラウンドで涙を流させなかった彼女は、走塁ミスなんてらしくないことをした。おまけに、子どもみたいに癇癪を起こして。スポーツマンシップに欠ける行為だ。
絶対に生還したかったんだね。妹の笑顔と、女子野球部の未来のために。熱く燃え上がる藍奈の闘志に、僕はほくそ笑む。密かに根回ししたかいがあったというものだ。
⚾︎⚾︎⚾︎
藍奈の野球復帰から一夜明け、僕は古都羽を探していた。朝食前にどこへ行ってしまったのだろう。早起きした日だけランニングをする僕が、言えたことではないのだけれど心配になる。
トレーニングルームに入ると、腹筋をしながらタブレットを見る古都羽がいた。
「なるほど。手のひらでボールを握りしめるのではないのですね。使う指は親指、人差し指、中指の三本だけ。ボールの縫い目に指をかけて球筋を安定させる、と。感覚だけで投げていたから打たれたのでしょう。次こそは最小失点で切り抜けます」
エアーで投球フォームを作る。
「自主練習かい? 昨日登板したばかりじゃないか。投げすぎて肩を壊さないでくれよ」
古都羽は、振りかぶろうとした腕を途中で戻した。マウンドでそれをしたら、反則行為のボークになるからやめなよ。
「ご足労をおかけいたしました。間もなく朝食のお時間ですよね。すぐに着替えて参ります」
「急いでいないよ。だから僕に、もう少し練習を見せてくれないか。古都羽を探すのは楽しかったけれど、ボールを投げる姿はもっと興味深いよ」
「ではお言葉に甘えて。新しい球種を覚えようとしていたのですが、思うようにいかずに四苦八苦しておりました」
タブレットで表示していた動画を巻き戻し、僕に見せてくれた。
「振りかぶったときのボールの位置が違うんじゃないかな。失敬」
古都羽の後ろに立ち、フォームを直した。
「いけません、お嬢様。そんなとこ、くすぐったいです」
鼻息が当たらないよう、呼吸を止めたのに? 理不尽だ。
「戯れがすぎました。お嬢様のご指南は素晴らしいですね。動画を一度見ただけで分かったのですか?」
「そうだけど?」
「お嬢様の天才ぶりにはいつも驚かされます。審判ができたことも」
「それも動画で見た」
「初耳です。私としたことが、まだまだリサーチ不足のようですね」
「買い被りすぎだよ」
僕にも苦手なものがある。
古都羽のボールを、キャッチャーとして取ることはできなかった。叶愛とポジションが被るから志望しない訳ではない。単純に、膝を深く曲げる姿勢がつらいだけだ。叶愛は痛くないと話していたけれど。
「お嬢様も野球をしてみませんか?」
「藍奈が困るだろう。初心者をたくさん抱えて、僕の面倒まで見きれないよ」
「私の投球を正面から見られていると緊張します。もしお嬢様が野球に興味おありでしたら、サードにチャレンジしていただけませんか? 火角様はサードではなく、ファーストの守備に変更された方がよいと思っております」
「ファーストの香は、どのポジションに代えるつもりなのかな?」
「ライトかセンターでしょうか」
「ファーストは身長や手足の長い人の方がいい。香はファーストが適役だ。こころはライト、莉央はセンターに配置したらどうだろう?」
「内野を守る人数が減りますね。やはりお嬢様の助けが必要です」
叶愛でさえ強引な勧誘をしなかった。付き合いの長い古都羽だからこそ、情に訴えるのが上手だ。
「古都羽。審判の言うことは絶対なんだろう?」
「左様でございます。ですが、ときに抗議することもございます」
無言で見つめる古都羽に、僕は根負けした。
「お願いには弱いんだ」
最初は付き添いのつもりだったのに。背中を押してあげるつもりが、僕もミイラになってしまったな。
《幕間Ⅱ 完》
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