第3章 グラウンドを駆ける姉妹達

第15話 謀りましたのね?

 松蔭寺藍奈の負けられない戦いは、廊下を出る前から始まっていたのですわ。職員室まで、負けられない相手と肩を並べた回数は二度。いずれも勝敗はついておりません。今回の勝負こそ、三度目の正直にいたしますわよ。叶愛さんにいただいた深紅のリボンが、わたくしに勝利をもたらしてくださいますように。


「藍奈。そんなに早く歩いてしまっては、スカートがめくれてしまうよ」


 話しながら歩く有喜良の横髪が、口元にかかることはありませんでした。髪の毛を食す無様な姿など、やすやすと晒してはいただけないのですね。ただの廊下がパリコレクションのランウェイに見えますわ。有喜良のウォーキングに、すれ違う方は感嘆をこぼさずにはいられません。わたくしのことは背景に写り込んだオブジェクト、あるいは視界に入っていると認識すらしていただけていないのかもしれませんわ。有喜良の隣を羨む声も、わたくしに嫉妬する声も聞こえませんもの。


「あなたの方こそ、スラックスでは早歩きが悪目立ちなさっていませんこと?」

「ありがとう。僕の脚が長いことを、褒めてもらえて嬉しいなぁ」

「読解力が乏しくなくって?」

「読解力ならあるさ。二月模試の結果を、後で証拠として提出しよう」

「お気持ちだけいただきますわ」


 嫌味の通じない有喜良に、わたくしは頭を抱えたくなりました。今や一刻を争うときです。無駄な動作によって速度を落としたくありませんわ。遅れてついてきたはずの古都羽の足音は、すぐ近くに迫っています。主従の息の合った妨害に翻弄されてなるものですか。


「また昨日のように、足がもつれてしまわないか心配だよ」

「走りながらお話しをする元気が残っていましたのね。昨日はボールカウントを叫び続けていましたのに」

「演劇をしていたときの発声練習のおかげかな」

「演劇部を引退した後は、勉強に支障が出るからという理由で部活はされないおつもりでしたわよね。どのような心変わりがあったのですか?」

「古都羽の次に女子野球部に入るのは、僕ではなければと思ってね」

「七番目の部員になるのは、わたくしですわ。あなたには負けられません」


 鍵盤をかき鳴らすように、最後の階段を軽やかに駆け下ります。職員室の前に滑り込んだタイミングは、ほぼ同時でした。


「神指先生はおられますか? 女子野球部の入部届をもらいたいのですが!」


 有喜良と寸分違わず叫んだわたくしに、神指先生は苦笑しました。


「朝はすまなかったねぇ。模試の過去問を解いているうちに、家を出なければいけない時間になってしまったもので。勤務時間には間に合ったが、息切れで対話はままならなかった」

「居留守を使わないでくださいまし!」


 以前も申し上げましたわよね。


 わたくしの忠告が無下にされた上に、三度も同じ場所へ赴くことになろうとは。諸葛孔明ほどの天才軍師になっていただかなければ、わたくしの顔に青筋が立つのも時間の問題ですわよ。


 わたくしの胸中の半分さえ、理解してくださる様子は見せてもらえませんでした。


「松蔭寺さんは、昼休みも自分を訪ねてくれていたのだろう? 質問に答えるうちに、昼休みを半分以上も消化してしまってねぇ。そのまま次の教室に行ったんだ。自分にとっても有意義な質問が来るのは久方ぶりで、ついつい議論に夢中になってしまったなぁ。三年生の理系クラスは、着眼点が素晴らしい。文系クラスも見習いたまえよ。松陰寺さん、幹さん」


 有喜良が見えていないかのような振る舞いに、わたくしは眉をひそめました。麗人の幽霊を、学校の怪談に加えないでいただけないかしら。背筋だけでなく体全体が寒くなりますわ。


 当の本人は朗らかに笑っていました。


「薄々は感じていましたが、神指先生は僕のことが好きではないのでしょう?」

「有喜良さんは自己肯定感がいつも低いねぇ。年上がタイプだったぬいちゃんを夢中にさせるほど、きみは魅力的だ。憧れることはあっても、ひがむことはしないよぉ。年下に盾突く年上は、見苦しいだけだもの」


 有喜良を慰めた言葉は、ブーメランとして神指先生に刺さっているようでした。親しい間柄の縫目先生を、つまらない思いで束縛しようとしていたのですか。ご友人がほかの人と仲睦まじくしている様子を、温かく見守っておやりなさいな。先生のそのような感情は、知りたくありませんでしたわ。


「松陰寺さんと有喜良さんのどちらがアウトだったのか、きちんと判定するべきかなぁ。一応、女子野球部顧問だものねぇ。参考までに聞かせてもらいたいが、幹さんは聞き取れたかな?」

「松陰寺様がアウトです。紙一重でございましたが」


 有喜良を甘やかすなんて、熱でもあるのではなくって? 普段であれば、義理でもわたくしを立ててくださいますのに。


 迷いなく答えた古都羽に、わたくしはすぐさま要求いたしました。


「神指先生、リクエストを求めますわ!」

「職員室には機密情報が多い。情報漏洩を防ぐために、カメラは備えつけられていないんだよ」


 莉央はリクエストに応じてくれましたのに。わたくしは圧倒的不利な戦場で戦っていましたのね。公平さに欠ける気はいたしますが、今は譲ってあげますわ。まだ神指先生から入部届をいただいていませんもの。提出は、わたくしの方が早いに決まっていますわ。記入するべき項目は、頭の中で下書きしていますの。


 神指先生から貸していただいたペンを握り、入部届の空欄を埋めていきました。


「このボールペン、薄すぎやしませんこと? 替え芯の交換を怠らないでいただきたいわ」


 わたくしが書き直している間、有喜良は神指先生に提出していました。不備による返却はありませんでした。


「すまないね、藍奈。早く、そして美しく書くことは、幼少期から叩き込まれているんだ」

「お嬢様の必死さには少々引きます」


 ふふふ。所詮は自己満足だということが、見破られましたわね。それに比べ、わたくしの愛はきちんと受け取ってもらえますわ。紅白戦の翌日に入部することで、叶愛さんは約束を守ってくれた姉が誇らしくなるに違いありません。藍奈お姉様は最高ですと、褒めちぎってもらえますわね。


 やっとの思いで書けた入部届を手にしたとき、わたくしの心に疑念が浮かびました。


 藍奈お姉様と呼んでもらえたのは、一度きりだった気がいたしますわ。部屋でも食堂でも、お姉様としか呼んでいませんでした。入部届を出したくらいで、叶愛さんはわたくしの好感度を上げてくださるでしょうか。


「神指先生、もう一枚いただきたい書類がありますの」

「チェス部の退部届かい? 女子野球部の活動に絞るんだね」

「えぇ。女子野球部と掛け持ちする選択肢は、最初からありませんでしたわ」


 チェス部は、野球を忘れるために逃げ込んだ安息の地でした。わたくしの手で廃部にすることに、何度も逡巡しましたわ。


「これも保護者印はなくていいよ」

「書けましたわ。チェス部の生徒会予算は、女子野球部の資金の足しになりますわね」


 書類を受け取った神指先生は、信じられないことをおっしゃいました。


「支給される予定だった費用を、ほかの部に讓渡するなんてできないよ。生徒会や諸先生方の承認など、クリアしないといけないハードルが高すぎる。現実的ではないねぇ」


 神指先生ご自身がおっしゃいましたのよ。わたくしの判断によっては、チェス部が約束されている予算十万円を女子野球部に回すことができると。


「わたくしを謀りましたのね?」


 一度提出した書類は、取り戻そうと思えば取り返せます。神指先生の手から奪還し、破り捨てさえすればよいのですから。しかし、わたくしの言動を見ていた方の数が多すぎました。


 黙り込んだまま唇を震わせるわたくしに、神指先生は口角を上げました。


「誤解させたなら悪いねぇ。煙草をやめた弊害かなぁ? 禁断症状で頭が回らなくなってくる時間があるんだよねぇ」


 そのような先生は、この学園に不必要ですわ。専門の医療機関を受診なさいな。香のところを紹介いたしますわよ。


「もう一つ、きみら女子野球部部員に伝え忘れていたのを思い出したよ。他校との対外試合の約束を取りつけたんだ。安心したまえ。相手も女子野球部だ。監督に紅白戦を隠れて観てもらっていたんだよねぇ。顧問グッジョブ」

「ご自分で褒めるところですか。僕の拙い審判が聞かれたなんて信じられませんよ!」

「わたくしの抗議の前に、お帰りいただいていますわよね?」

「いいや。あんなにわら……藁をも掴む勢いで訴えた名シーン、見せない訳がないだろう?」

「人あらざる所業ですこと!」


 わたくしにとっては、矜持のかかった場面でしたのよ!


「おぉ。連体形の活用が理解できている生徒も、ちゃあんといるじゃないか。ぬいちゃんの前の学校は、教えたことが全然積み重ならないって言っていたんだよねぇ。名詞つまり体言が連なるから連体形。そんな簡単な覚え方すら記憶してもらえないらしい。ぬいちゃんの愚痴のせいで、数学教師なのに古文の知識を覚えてしまったよ」


 軽々とあしらわれる己の無力さに打ちひしがれていると、真珠美お姉様が現れました。


「神指先生はおられますか? 忘れ物を届けに参りました」

「あぁ。その万年筆! どこで落としてしまったのかと思っていたが、議論したときの教卓横の机だったのか。この万年筆は特注でね。紛失させたら最後、同じものは二度と手に入らない」

「縫目先生からの誕生日プレゼントとお聞きしています。傷一つなく戻ったことは僥倖ですね」


 神指先生の手に万年筆を載せた真珠美お姉様は、わたくしと目を合わせました。


「有喜良! 藍奈! 一目見て元気をもらえたわ。もちろん、古都羽にもね」

「もったいないお言葉でございます。真珠美様」


 古都羽はいつになく機嫌がよさそうでした。風邪を引いていないか本気で疑ってしまいますわ。


「有喜良は女子野球部に入るのですね。白いユニフォームや野球部のジャンバーを有喜良が着たら、どれほど似合うのか。想像するだけでは退屈でしたの。実際に着ている姿を、全校応援で見せびらかしたいですわ」


 忘れかけていましたわ。真珠美お姉様は、実妹が大・大・大好きな方でしたわね。


 神指先生、まさか真珠美お姉様と有喜良を引き合せるために時間稼ぎをされたのでしょうか? 万年筆を忘れてきたことも、うっかりではない可能性が高まってきましたわ。

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