幕間Ⅱ 主従の思惑

幕間Ⅱ ①姉妹の橋渡し

 入学して間もない新一年生が、聖ヒルデガルド学園に女子野球部を作ろうとしている。そのような信じがたい話を藍奈から聞いたとき、僕は意外だと感じた。藍奈が不満に思う理由を理解できなかったからだ。


 神聖な学園に泥を塗るつもりですのよ?


 ユニフォームが泥だらけになるほど三盗してきた人に、似つかわしくない発言だ。再びグラウンドで汗を流したり、体が悲鳴を上げてもバッティング練習に打ち込んだりすることを、心待ちにしていたはずだった。


 週二回の体育の時間では、物足りなさそうに見えていたのだけど。お嬢様言葉が板についた藍奈は、闘志を失ってしまったようだ。中学最後の試合は、あんなにも悔しがっていたというのに。すっかり学園に染まってしまって、お兄さんは悲しいよ。


 泣きまねをしようと思ったのは一瞬だった。野球部の恨みを並び立てる藍奈に、気が変わった。転がしようによっては、藍奈は自分から沼へ落ちていくだろう。日焼けの問題は、この学園の誇る設備が解決してくれる。創設したばかりの部に、忌まわしい伝統はない。僕のジャンヌダルクを、僕の手で復活させよう。


 藍奈の性格上、一度決めた考えはほとんど曲げない。他者から親身に話を聞かされたとしても、当たり障りのない言葉で受け流す。真珠美姉さんに対しては例外だった。姉さんの前で猫を被るくらいなら、似た顔の僕にも優しくしてもらいたいものだ。強情さも含めて好きだけどね。


 僕が野球に興味を示せば、あなたには向いていませんと一蹴されるまで。あくまでも叶愛のサポートを促して、じわじわと外堀を埋めていこうとした。


「おや、また振られてしまったね。人のビラを床に落とすとは、気性の荒いレディーもいるものだね。仰木さんが傷つかなければよいのだけど」


 叶愛が食堂で女子野球部のビラを配ったとき、僕は藍奈を焚きつけた。傍観者でいてもいいのかと。


 効果はてきめんだった。最初の反論が振り逃げのたとえになるのは、僕の見込み通りだ。あえて言葉を選んだからね。


 陰ながら姉妹の橋渡しをしていた僕は、しばらく経って叶愛と言葉を交わした。


「ごきげんよう。どなたを待っているのかな」


 廊下で待っていた叶愛は、至近距離で僕に見つめられて赤面した。


「ま、まだっ! お姉様にお会いする、心の準備がっ!」


 内部生はここまで動揺しない。相手につけ込まれる隙を与えない。聖ヒルデガルド学園で平穏に過ごせるのか心配になる。女子野球部創立で大部分の生徒を敵に回しているから、静かな学園生活とは無縁かもしれないが。


「藍奈の妹だね? おや、僕のことは記憶にないかな。前に一度、食堂で席をともにしているのだが」

「申し訳ありません。すぐに名前と顔が一致しなくて……」


 ビラを受け取ってもらえないことで落ち込んでいたのだから、あのときの苦い記憶とともに封印してしまっても当然だ。僕は、気にしないでくれたまえと笑みを浮かべる。


「覚えていなくても無理はないさ。改めて自己紹介させてもいいだろうか。僕は主計有喜良だ。藍奈とは、中学生のときからの友人でね。僕とも仲よくしてもらえると嬉しいよ」

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」


 ぎこちない礼が目につく。叶愛に突っかかる内部生の少なさが、不思議なくらいだ。

 いや、入学当初の藍奈がきちんとしすぎていたからこそ、見劣りしているように感じるのか。敬語は使えているのだから、満点にしておかなきゃね。


「用事があるのは藍奈だったよね。心の準備が必要なほど、藍奈は怖いのかい?」

「怖くなんてありません。お姉様はいつもお優しくて、私の自慢の姉ですから」


 前言撤回させてもらおうか。藍奈の強情さが崩れるのは、今や真珠美姉さんだけではないらしい。


「では、教室に入ろうとしないのはなぜかな? 終礼後だということは、知っているんだろう? 僕達の教室から出ていく生徒を見かけたはずだもの」


 叶愛は周りを見回し、背伸びをして僕の耳に囁いた。


「なるほど。僕も同意見だ。きみは自信を持つべきだよ。藍奈に記録係をお願いしたらいいじゃないか。妹と過ごす時間が増えて、喜ぶと思うよ。きみが言いづらいのなら、僕からそれとなく口添えしようか?」

「お気持ちは大変ありがたいのですが、神指先生から……その」


 言いよどむ様子から確信した。有喜良くんは人たらしだから信用するなとでも、吹き込まれたのかもしれない。


 神に誓って、よからぬことはしていない。数学の授業中にいくつもの手紙を回し、先生が指名する前にヒントを送っていただけだ。答えをそのまま流している訳ではないのだから、先生が重んじる「自力で考える時間」は残している。僕を頼りきりにしてテストの点が下がってしまっては、本末転倒だ。


「神指先生は、どのようにおっしゃっていたのかな?」

「藍奈お姉様に女子野球部の支援をしていただけるのは、私の交渉次第だと」


 藍奈お姉様、ね。


 お姉様としか呼んでくれないと、藍奈から不満を聞かされていた。事前情報が古いのか、藍奈の前だけお姉様としか呼べないのか。いずれにしても興味深いなぁ、藍奈の妹は。


「僕に話してくれた内容を、そのまま藍奈に伝えてやりなよ。藍奈が渋ったら、僕が助け舟を出してあげる」


 天は僕らの行動を見てくださる。野球に愛されるべき乙女を追放し続けるべきではないことも、分かっていただけると思う。


 僕の目論見は証明された。記録係として同行した藍奈は、部員達の初心者ぶりに冷静さを欠いた。


「見ていられませんわ。叶愛さんは、スカウトの才能がないのではなくって? あのような状態から育成できるのかしら」


 口ではそう言いつつも、視線はそらさなかった。彼女達にとって最も必要な練習メニューを、部外者でありながら組み立てているのではあるまいか。


 野球が無意識で気になっていることを、藍奈に指摘すれば怒るだろうな。「わたくしが羨ましく思っているように見えて?」と。


「まずはグラブにボールを当てることから始めなさいな! 今はまだ、捕球できなくて結構ですから!」


 野手としての血がうずいているらしいね。グラウンドに立つのも時間の問題だ。


「いつにもまして熱いな。勝利のランナー」

「有喜良、その名で呼ばないでくださる? 忘れかけていたのですよ。わたくしの名前をもじった、忌まわしい呼び方を」


 思い出せたのなら本望だ。土の香りが懐かしくなる塩梅かな。天然芝ではないが、外野の土を踏みしめたくならないか?

 

 藍奈をすぐに攻略することは難しかった。未練があったのなら、女子野球部の話を聞いた時点で心が動いていただろう。


 我慢強く待った僕を、天は導いてくださった。聖ヒルデガルド学園第三アリーナにて、掘り出し物と巡り合わせてくれたのだ。


「まさに近未来だな。ドローンが飛び交い、二足歩行ロボットが何十体も闊歩している光景は」


 タケナカの技術は聞いていたが、予想を上回っていた。特筆すべきは莉央個人の試作機であり、店頭には並んでいない希少品ということだ。記者が入り込んでいないからこそ、気兼ねなく技術を披露できるのかもしれない。


 中学でも莉央と接触したいと思っていたが、神出鬼没で居場所は突き止められなかった。

 学友を作らず、話し相手は機械のみ。変わり者という噂だった。天才を適切に評価してもらえないのは嘆かわしい。


「趣味で作ってきたものが、ビジネスで活かせないか模索中」

「民への還元を考えているのだね。大変よいことだ。実用化を応援しているよ」


 拍手を送ると、わずかに翳りが見えた。


「応援されるのは嫌かな?」

「熱狂する観衆を見るのは、好きではない。個人やチームを応援していたはずの観衆は、国際的な大会になれば『日本頑張れ』と応援しているのと同じ異常さを持つ。熱狂は愛国心を煽るから嫌い。莉央が作ったロボットは、本当に人の役に立つのかどうか」

「きみは、ロボットが心から好きなんだね」

「工学の知識は、死人を作るためのものではない」


 ありふれた言葉を口にしたのは、思慮が足りなかったようだ。莉央のスイッチを押したことを、僕は実感させられていく。


「優れたものを作った結果、誰かの命を奪うような使い方は望んでいない。住友金属は航空廠の要請により、超々ジェラルミンを生み出した。その性能は零戦で遺憾なく発揮されたが、栄光は長くは持たなかった。莉央の作るロボットで、未来ある若者を破滅させるのだけは許せない。おばあちゃんおじいちゃん、食堂のスタッフさんの日常も守る」


 明日世界が滅ぶのなら、莉央の残したい人類に僕は入っていないな。なりたいものも、大学で何を学びたいかも決まっていない。


「叶愛は甲子園に行きたがっている。あそこまで夢中になれるのは謎だった。聖地に棲みついた魔物が、莉央達を食べようとするのに」


 急な話題展開も、莉央が宇宙人と呼ばれる原因の一つだった。戸惑いはしたが、僕は間を開けなかった。


「実際に食べられたことがあるような言い方だね」


 莉央は青い顔のまま頷いた。


「取引先の会長の孫の、元チームメイトの弟だった人が監督として率いるご縁で、家族と観戦した」

「袖振り合うも他生の縁とはいうけれど、数奇な巡り合わせだ。楽しいと思えた瞬間はなかったのかい?」

「人に酔った。勝利を願う圧に、莉央は潰された。胃の中でかき混ぜられている感覚に近い」


 捕食されたことがないから、想像しにくいな。胃の中がかき混ぜられている不快感は、なんとなくイメージできる。


「女子野球部のみんなとなら、魔物とお友達になれるかもしれない。WBCの映像を、みんなと一緒に見て思った。割れんばかりの声援に怯えるのは、考えすぎかもしれないと学習した。一人だと逃げたくなる劣勢を跳ね返してくれるのは、チームメイトからの激励。莉央の作ったロボットで、サポートできることは力になりたい。まずは人手不足の解消から」


 部員と審判をロボットで賄おうとすることは、莉央にしかできない芸当だ。僕は微笑んだ後に駄目元で頼み込む。


「球審は僕にさせてくれないだろうか?」

「審判の経験者、珍しい」

「経験は皆無だよ。だが、冷やかすつもりはない。ちゃんと知識はある。今日は、球審をやってみたい気分なんだ」


 観客席で眺めるのは、遠すぎる。自分に隠れて練習していた古都羽の勇姿は、一球たりとも見逃したくなかった。球審になれば、藍奈を表舞台へ引っ張り上げる力も得られるだろう。権威に惹かれて申し出た僕に、莉央は快諾した。


「任せる。主計お姉様なら安心」

「嬉しいことを言ってくれるね」


 ベンチへ走り出した莉央を見て、僕は息をつく。


「よりによって、その名前か」


 莉央には悪気がないのだと、自分に言い聞かせる。


 主計お姉様の呼び名は、真珠美姉さんのものだった。僕が名字で呼ばれるとすれば、主計の妹君だ。お姉様と呼ばれたことは一度もない。叶愛に有喜良お姉様と呼ばれたときは、うっかり表情筋が緩んでしまった。


 真珠美と有喜良。


 輝く美しさに恵まれている名前がどちらなのかは、一目瞭然だ。艶やかで丸い海の宝石に、形を持たない感情が勝てるはずはないのだから。主計お姉様と慕いたくなるのは、真珠美姉さんに軍配が上がる。現に姉妹二人で並んだときの黄色い声は、真珠美姉さんの方が何倍も多かった。附属幼稚園のときからずっと。


 僕がひねくれた性格にならなかったのは、単に真珠美姉さんを喜ばせることが好きだったからだ。それが思い出せる一番古い記憶は、真珠美姉さんの五歳の誕生日だった。


「ますみおねえちゃま。シロツメクサで、かんむりをつくりました。うけとってくださいますか?」


 庭で本を読んでいた真珠美姉さんに、僕はひざまずいて花冠を差し出した。そのときに、両親や使用人達から王子様みたいと褒められたのだった。


 じぶんはキラキラして、かっこいい? えほんにでてくるようなおうじさまなら、じぶんにもなれる?


 美しい姉に太刀打ちできないことは、幼心にも察するようになっていた。お人形さんと言われるのは、いつだって真珠美姉さんの方。ヴァイオリンの発表会も、同じデザインのドレスを着た僕以上に目立っていた。


 僕は真珠美姉さんの引き立て役なんかじゃない。影と同化して見えなくなっていた。親戚が本邸に集う度、嫌というほど突きつけられた。

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