第14話 私のお姉様は最高です!

 はやる気持ちを抑えながら、ネクストバッターズサークルへ向かいます。膝を曲げた前傾姿勢をしたときに、爪先を越えないようにと心の中で忠告が聞こえました。


 力強いスイングは、股関節と骨盤の動きやすさが関係しています。棒立ちではハムストリングもうまく機能しません。腕を自由に振るために、正しい構えは重要でした。


 わたくしの体は覚えていたのですわね。軸足に体重を乗せることも。振ったときに支点を移動させた前足が、地面に固定されることも。


 何度も忘れようとしたくせに、叩き込んだ姿勢はわたくしの中に残ってくれたのですね。それならば、空を薙ぎ払う感触も思い出せるかしら。


 一振り。二振り。素振りを繰り返す度に、わたくしの目に熱いものがこぼれようとしました。チェックメイトの形を覚えて神指先生に再戦を申し込むときとは、比べ物にならないほど興奮したのです。


 野球を始めたら、あの子に会えるかな。


 幼かった叶愛さんとの出会いがきっかけで、野球に興味が持てた日。あの日に感じた胸の高鳴りと同じでした。


「五回の表、聖ヒルデガルド学園の攻撃は、六番、ピッチャー、幹さん。六番、ピッチャー、幹さん」


 アナウンスも兼任していた有喜良が、わたくしにウインクします。


「聖ヒルデガルド学園、選手の交代をお知らせします。ピッチャー、幹さんに代わりまして、松陰寺さんが入ります。バッター、松陰寺さん」


 本来なら背番号まで伝えるべきなのですが、ユニフォームができていないために背番号も割り振られていないのでした。一度きりの代打に、背番号など不要ですけれど。


 打席に立ったわたくしを、有喜良が歓迎しました。


「おかえり。待っていたよ、勝利のランナー」

「学習能力のない方ですわね。その名で呼ばないでくださる? かなりの負けず嫌いだった若気のいたりを、いやがうえにも思い出してしまうでしょう?」

「僕にとっては、あのころの藍奈こそジャンヌダルクだ。グラウンドに帰還した気高き勇姿を、可愛い妹達に見せつけてやってくれ。恥じることはない。自己主張がある程度強くなければ、アスリートとしてやっていけないのだからね」

「ジャンヌダルクだなんて恐れ多いですわ。叶愛さんたっての希望で立っているだけすもの。しかしながら、凡退する気はありませんわ! 後続へ託してみせますわよ!」


 ベンチから見ていた豪速球は、思っていたよりもボールの縫い目を視認できました。芯を捉えた初球がスタンドへ伸びていきます。


「行ったね」


 わたくしが確信したと同時に、有喜良が感嘆の息を漏らしました。


「お姉様、さすがです!」

「とど……く?」

「行くんじゃないっすか?」

「ファウルではなさそうなのです?」

「ホームラン来ましたわー! 素敵ですわ! 藍奈さん!」


 一塁からホームまで一周する間、ベンチではしゃぐ部員達に微笑みました。


 反撃の狼煙ですわよ。宣言通り、わたくしの仕事は果たしましたわ。点差はまだ十点差。気を引きしめてもらわなければ困りますが、ようやく笑顔が戻ってよかったですわ。


 ホームベースを踏んだわたくしに、叶愛さんが駆け寄ります。ハイタッチしてくださると思ったのですが、気づいたときには体が浮き上がっていました。わたくしより身長の低い叶愛さんに抱き上げられるのは、恥ずかしいですわ。体をそらせる叶愛さんの唇が、目前に迫ります。


 愛しい人に抱き上げられた新婦も、今のわたくしのような満たされた気持ちを覚えるのでしょうか。


 キャッチャーが誰かを抱え上げるとすれば優勝直後、マウンドにいるピッチャーです。わたくしはマウンドに立てませんから、古都羽より先に叶愛さんとできて嬉しいですわ。


「ホームインの興奮を、こんなにも早く味わわせてくださるなんて! 私のお姉様は最高です! お姉様が灯してくださった勝利への道、私も希望を繋ぎますよ! ベンチでご覧くださいね!」


 打席に向かう叶愛さんと別れ、わたくしはベンチに戻りました。ハイタッチで出迎えてくれた部員達でしたが、莉央だけ遠慮がちに指先を合わせます。


 わたくしのホームランでは不服なのでしょうか。満塁ホームランの四点と比べれば、破壊力に欠けてしまうかもしれませんわ。先頭打者ホームランでは一点しか取れませんものね。ただし、絶望的な状況で放たれた一発は、チームによい連鎖を生むのですわ。大切なのは打点ではなく、打線です。それを教えて差し上げませ、叶愛さん。


 わたくしが打席を見たときには、叶愛さんの姿がありませんでした。三塁で大きく手を振っています。


 ハイタッチに気を取られて、叶愛さんの打席を全く見ていませんでしたわ。ご覧くださいと頼まれましたのに。叶愛さんがどのように出塁したのか、誰か教えていただけませんこと?


「叶愛ちゃん、すごいっす! 一打席目がツーベースヒット、二打席目がヒット、今の三打席目でスリーベースヒットですよ! サイクリングヒットも夢じゃないっすね!」


 思わぬ自転車が登場し、わたくしのツボを襲いました。


「遊井さん、それを言うならサイクルヒットですわ」


 吹き出しそうになるのを堪え、先輩らしく教えてあげました。


「教えてくださって、ありがとうございます!」


 衣紗はヘルメットを持って敬礼しました。素直に礼を言える方には、天が味方してくれるはずですわ。ご武運をお祈りいたします。


 際どいボールを見極めた香が四球を選び、ノーアウト一塁三塁になりました。外野フライを打てば、捕球と同時に叶愛さんが三塁から走れます。ヒットを狙いすぎて三振に倒れてしまうよりは、確実に追加点がほしいところですわ。


 二度の空振りの後、衣紗が打ったのはセカンドゴロでした。三塁ランナーを見たセカンドは、二塁のカバーについたショートへボールを送ります。ホームに送球しないことで一点は失いますが、うまくいけばアウト二つを取ることができるからです。足の速くない香は簡単に打ち取れると、誰もが思っていました。


「うふふふふ。長手の足は常に進化していますのよ。美しい光景を瞳に焼きつけましたから、燃料は申し分ありませんの」


 加速した香の足は、ショートのグラブをかいくぐります。その間に衣紗が一塁を駆け抜けました。叶愛さんは、とうの昔にホームへ静観しています。オールセーフの九点差は大きいですわ。


「セーフですわよね? 二塁塁審ドローンさん?」


 緑色に点滅したランプを見て、香は「やりましたわよー!」と飛び跳ねました。ピッチャーが三盗阻止のために牽制しますから、調子に乗って塁を離れるんじゃありませんのよ。


 ヒットでなければランナーを進められない訳ではないのが、野球の奥深いところです。ゴロも進塁打になりうるのですわ。


 次の打者も、いまだにヒットのない莉央でした。叶愛さんが塁上にいたときはありましたが、今度はランナーが二人います。香の足をそこまで警戒していないのか、守備は衣紗の進む二塁を固めるようです。覚醒したのかもしれない元帰宅部と、数々の賞状授与された元陸上部。どちらを優先するか明白ですわ。


 狙うなら、サードとショートの間ですわね。ヒットエンドランを仕掛けられますわ。低めに飛んだ打球をライナーとして処理されたり、莉央さんが見送りや空振りしたりすると、塁に戻り切れなかったライナーもアウトになってしまいます。ハイリスク・ハイリターンの戦術を、選択するかしら。


 両手を握りしめながら、戦況を見守りました。


 前の打席ではフォームを崩されていた莉央が、粘り強くファウルで逃げ続けます。四球目からは、点が入ったときと同じくらいベンチが盛り上がりました。ファウルする度、ピッチャーの球に慣れていっているようです。莉央の顔は苦しそうに見えませんでした。必ず次の塁にランナーを進めさせるという気迫を感じさせます。


 積み重ねること十一球目。ついに莉央のバットが三遊間にボールを運びました。外野へ抜ける前に、ランナー達はスタートを切っています。全速力でそれぞれの行くべき場所へたどり着こうとしました。


「衣紗! 香お姉様を抜かさないように気をつけてください! 追い越してしまったらアウトになりますよ!」


 叶愛さんが心配になるほど、衣紗は三塁を回った香の背にぴったりとついていました。レフトからサードに渡ったボールは、キャッチャーに向かって放たれます。


 香の足がホームベースに触れるよりも先に、ボールはミットに収まりました。タッチしようとしたキャッチャーをかわし、香は懸命に走ります。再度忍び寄る手は空を切り、三点目が入りました。


「香さん、見直しましたわ!」


 わたくしは拍手を送ります。隙あらば体育を怠けようとした香さんは、どこにもいませんでした。


 またしてもノーアウト一塁三塁のチャンスを作れました。コールドゲーム阻止まで残り二点。難しい数字ではなくなっています。肩の力を抜いてくださいね、火角さん。


 一塁から帰る莉央に、わたくしは首をかしげます。まさか牽制アウトになったのではなくて? 女子野球部に味方してくれていた流れが、搔き消えてしまわなければよいのですけれど。まだ三塁ランナーは生きていますから、大切にホームへ進塁させたいところです。


 初球からバットを振ったこころは、しまったと肩を落としました。高く上がりすぎたフライはネット裏に入らず、サードに捕られてしまいます。内野安打になれなかったのは残念ですが、初球から振ろうという心構えは素敵ですわよ。


 アウトカウントが一つ増えて、ツーアウト。打席に進んだのはわたくしでした。本来は九人の打順を、六人で回しているのです。打者一巡が早すぎますわ。


 一塁から戻ってきたこころは、わたくしの耳元で言いました。


「松陰寺お姉様、もう一度だけ奇跡を見たいのです」

「あら。奇跡を起こしたのは、わたくしではありませんわよ。チーム一丸となって打線を繋げた皆様ですもの。火角さんが守ってくださったランナー、大切にいたしますわ」


 ツーボールワンストライクのカウントで、センター前へ弾き返しました。衣紗は悠々とホームインします。二塁まで走ろうとしたわたくしは、セカンドに投げられるボールを見て断念しました。


 一塁へ駆け抜けたコースが、大きく膨らみすぎていたのです。まだまだ本調子ではない証拠なのでしょう。ウォーミングアップを念入りにしておくべきでしたわ。得点圏の二塁に行けたら、次のバッターのヒットで一点返せたはずです。わたくしは、バッターボックスに立った叶愛さんに向かって拳を出しました。


 脚力には自信がありますの。叶愛さんがヒットを打つ前に、盗塁してみせますわ。


 叶愛さんが描いた放物線は、鉄壁の守備を超えていきました。ライトの手がすぐに届かない、フェンスに当たって落ちました。ベンチが大きく沸いたのは、言うまでもありません。


「素晴らしいね。藍奈の足は」

「松蔭寺様、一点は確実に入れてくださいませ!」

「藍奈さん、さすがですわ。期待通りですわよ!」

「タイムリーヒットになるのです?」

「そうっすよ! 走れ、走れ! ホームまで帰ってこれるっす!」

「Keep it up!」


 わたくしはスタートを切っていたため、すでに三塁を踏んでいました。このままホームへ向かいます。一塁から飛ばしていた足は、ホーム間近でもつれました。地面に倒れ、キャッチャーへ送球するライトが見えます。やはり経験者だった肩書きは、何の価値もないのですわ。


 わたくしが立ち上がれないでいたときでした。二塁から凛とした声が響いたのです。


「頑張ってください! 藍奈お姉様!」


 いけない妹ですわ。あれほど下の名前で呼んでくださらなかったのに。みじめな場面で、余計にみじめな思いをせずにはいられません。室内練習場で雨が降ることはありえませんのに、土を濡らしてしまいますわ。


「わたくしは叶愛さんの姉ですわ。必ずタイムリースリーベースにしてみせます!」


 紅白戦とはいえ、聖ヒルデガルド女子野球部の初戦をコールドゲームで終わらせたくありません。わたくしは再び走り出しました。スライディングで砂ぼこりが巻き上がる中、ホームベースに右手を伸ばしたのです。


 運命の判定やいかに。

 固唾をのんで見守る中、有喜良は手を地面に下げました。


「アウトオォ!」


 どこに目をつけていますの?

 不満を審判にぶつけては、退場になりかねません。わたくしは大きく息を吐きました。


「際どいタイミングをちゃんと見抜けたのですか、有喜良!」


 ベンチで身を乗り出していた部員達も、セーフではないでしょうかと非難します。


「リクエスト、する?」

「当然っすよ、莉央ちゃん! 今のは点が入る場面っすから! ビデオ判定できるんなら、申し立てしたいっす!」

「了解」


 莉央さんはタブレットを開き、キャッチャーをしていたロボットの目線カメラを見せました。ミットをかわした体に、魔の手が忍び寄っていました。香が悲鳴を飲み込みます。


「惜しいですわ。藍奈さんの咄嗟の状況判断は適格でした。ただ、最初からスライディングしなかった分、ロスが生じてしまいましたわね」


 わたくしが、アウト? 


 ホームに膝をついたまま、呆然としました。有喜良の判断ミスではなかったのですね。


 あと二点ほしいときに、三塁を回る必要があったのでしょうか。そもそも叶愛さんや皆様は、わたくしを買いかぶりすぎですわ。ホームランを打ったときに、すべての運を使い果たしていたのです。しかしながら、本当に悪いのは――。


「納得いきませんわ」


 わたくしは怒気をこぼしました。


「プロ野球選手のデータを搭載したロボットを相手チー厶にしている時点で、フェアじゃありませんわ。部員も九人揃っていません。この試合は無効ですわ。タケナカ製ロボットの素晴らしさは、どなたの身にも沁みたでしょう?」

「松陰寺百貨店の、ご令嬢からのお墨つき」


 莉央の顔が珍しく華やいだのは置いておいて、重要な話を進めました。


「守備はまともになってきたとは言え、基礎体力の足りない部員がほとんどです。紅白戦は中止ですわ。これから全員でバッティング練習をした方が、よほど有意義な時間になりますもの! 叶愛さん、戻って来てくださる? あなたのペアは姉であるわたくしですわよ」

「お姉様、それって……」


 立ち上がったわたくしは、叶愛さんの両手を握りました。


「女子野球部に、経験者は二人しかいないでしょう? 叶愛さんだけでは頼りないですから、わたくしがやむを得ず力をお貸しするのです。正式な書類は、後ほど提出いたしますわ」

「お姉様! 私も、女子野球部も大歓迎です!」

「叶愛さんったら、首に力をかけないでくださいませ」

「喜んでいるくせに。ツンデレお姉様」


 ロボットの言葉に、わたくしはそっぽを向きました。


 この胸の高鳴りは使命感であって、わくわくしているという子どもじみた感情ではありません。紅白戦中止を言い渡したのは、ロボット相手に大敗を喫することを古都羽が許せるはずなかったからです。スクラップになるまで殴りかからんとする光景など、目に入れたくなかっただけですわ。


 それ以上の理由は、存在しませんわ! わたくしの走塁ミスをなかったことにするために、無効を申し立てた訳ではありませんわよ! 断じて!




《第2章 完》

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