幕間Ⅰ ④もっと仲よくなりたいです

 寮生活には、いくつか規則があります。


 ペット不可。アルバイトをしてはいけない。寮の共有スペースは清潔に保つこと。家具家電を破損した場合、寮長に報告せよ。外泊は届出を一週間前に出し、寮長の許可を得なければならない。二十二時以降の寮室訪問を禁止する等。


 どれも始末書を書けば許される行為ではあるものの、三回を超えたら部活に出られなくなります。アウト三つで人生が終了するのは、野球だけでいいでしょうに。


 再び部活への参加が認められるためには、担任・副担・顧問以外の先生からの印鑑が必要でした。提出物を職員室に運ぶ代わりに押してもらえるかどうかは、頼んだ先生の裁量にかかっています。厳しい先生を引き当ててしまったが最後、永遠に酷使されてしまいます。入寮時に卒業生の失敗談をうかがったときから、注意しようと固く誓っていました。


 私達一年生が揃っていないふりをしたのは、とっくに寮室訪問の時間を過ぎていたからでした。入寮してから一ヵ月も経っていないのに、初めてのアウトが宣告されてしまいます。このような事態を避けるため、スマートフォンの画面に表示された時刻を、早めに確認しておくべきでした。


「はしゃぎすぎた」

「うっかりしていたのです。いつもなら腕時計をつけているのです。お風呂の後に、外したままにしなければよかったのです……」

「こころちゃんのせいじゃないっす」

「そうですよ。私が時間を気にしておけばよかったんです」


 部屋に戻らなければいけない時間を逆算して会話に興じることは、淑女にとって必要な素養です。

 お開きにするタイミングは、ずっと前にありました。皆様に藍奈お姉様の贈り物を相談することは、別日に回せたはずです。私は不幸を呼び込んでしまった口をふさぎました。


 身を寄せ合う私達に、香お姉様は大丈夫ですわと笑いました。持つべきものは、どんなときでも冷静な判断のできるお姉様ですね。すぐにドアを開けなかったのは、四人分の靴を動かしたからでしょう。華麗な証拠隠滅の手腕、尊敬いたします。


「お待たせいたしましたわ」


 焦りを感じさせない香お姉様に、ノックをした人は不機嫌そうな声を出しました。


「香さん、わたくしの妹を拐かさないでくださいませ。そこまでして肌触りのよい抱き枕をお求めなのですか? でしたら、松蔭寺百貨店が全力で最高品質の寝具をご用意させますわ」


 藍奈お姉様がお迎えに来てくださったのですか? 始末書も顧みずに?

 この瞬間、WBCで活躍したどの選手よりも、お姉様のすごさがトップに立ちました。香お姉様は鈴のような音を上げます。


「あらあらあらあら。藍奈さん、挨拶をお忘れですわよ。ひとまず部屋に入ってくださいまし。廊下で私の風評被害を流さないでいただけると、大変ありがたいですわ。誰が聞き耳を立てているか、分かったものではありませんもの。ちゃんと叶愛の置き手紙に目を通していただいたのですわね。それなのに必死になってしまって、本当に愛らしい方」

「部屋に帰って驚きましたわ。叶愛さんは、また危ない目にあったのではないかしら。もしかしたら、あの手紙は脅されて書いたものではなくって? そのような考えばかりが思考を支配して、生きた心地がしませんでしたわ」


 達筆ではないことがバレて恥ずかしいです。両親からは、戦国時代の武将が書いた花押のようだねと言われていました。力がうまく入らずに歪んでしまった字と誤解を生み、面目ありません。


 部屋に招き入れられた藍奈お姉様は、私の名を呼びました。


「叶愛さん、おられるのでしょう? いらしたら、返事をしてちょうだいな。早くわたくし達の部屋に帰りますわよ。寮室訪問の三十分前に、あなたを見つけられてよかったですわ。消灯時間を破った女子野球部全員が活動停止になるなんて、ちっとも洒落になりませんもの。わたくしを記録係に任命したからには、部長としての責任を持ってくださらなければ困りますわ」


 寮監の息のかかった手先とは、考えられませんでした。私はカーテンから出て、藍奈お姉様に駆け寄りました。


「はい! お姉様!」


 藍奈お姉様に差し出された手を握り、くるくると回りたくなります。しかし、以前本屋で注意されていたので、回ることは踏みとどまりました。藍奈お姉様、同じ失敗をしない私は偉いでしょう? 賢い妹だって褒めていいんですよ。

 上機嫌の私の目が、文字盤を捉えます。


「あれ? お姉様、寮室訪問の三十分前とおっしゃいましたか? あの時計は消灯十五分前ですよ」


 数秒ほど固まった藍奈お姉様は、香お姉様に向き合いました。


「香さん、妹達に説明していないのかしら? ルームメイトの体内時計を調節するために、この部屋の時計は早めていたのではなくって?」

「えぇ。藍奈さんには伝えていましたわね。もしかして、皆様は始末書を書くことに焦って、隠れてしまわれたのですか? 申し訳ありません。騙すつもりはなかったのですわ。特に話すほどのことでもないと、判断した私の落ち度です」

「もー! 香お姉様ったら!」


 カーテンに隠れていた三人と私の膝は、力が抜けました。杞憂になって、本当によかったです。パジャマパーティー第二弾を開催するときは、アラームを仕込んでおくべきですね。


「ドッキリはやめてほしいっす。仕掛け人には、なってみたいっすけど」

「同感なのです。寿命が縮まったのです」

「でも、楽しかった。衣紗と、こころとも、仲よくなれた」


 莉央の呟きに、一年生全員で抱きつきました。寡黙な莉央が、歯をかすかに見せて笑ったからです。口角をほとんど使わずに話す彼女の笑みは、私達に気を許し始めている証でしょう。


「香さん、片づけはこれくらいで許してもらえないかしら? その代わりに、ほかの部員を部屋に送り届けますわ」

「見とれているうちに、神業を披露しないでくださいまし。まぁ、よいでしょう。お願いいたしますわ」


 部員をそれぞれの部屋に帰した後で、私と藍奈お姉様は階段を下りました。たった五分に満たない時間ですが、お姉様と二人きりで夜の散歩をすることはロマンチックに思えます。


 中庭を通り過ぎるとき、何か青白いものが目に入りました。叫び声を上げようとした私の口を、藍奈お姉様がふさぎます。両手は夜風で冷えていましたが、柔らかな感触をもっと感じたくなりました。私が自分の手でふさいだときには、後悔以外の感情は湧かなかったはずです。藍奈お姉様の手だから、これほどまでに温かさを離したくなくなるのでしょうね。


 私が不安に思っていると感じたのか、藍奈お姉さまは頭を撫でてくださいました。大声を出しそうになった私は、いけない妹です。学習能力がなさすぎやしませんか。褒めてほしいと願った罰が当たったに違いありません。


「くせ者。出ていらっしゃい。そこにいるのはお見通しですのよ」


 藍奈お姉様は、中庭で遭遇してしまった何かに話しかけました。茂みから現れたのは、古都羽お姉様のシニヨンでした。


「くせ者ではありません、松蔭寺様。私は食堂の料理に使うハーブを摘んでいただけでございます。満月の夜に摘んだ材料でハーブティーを作れば、朝摘みとは違う効用を得られるのですよ」


 不服そうな古都羽お姉様に、私はほっと息をつきました。オバケだと思ったことがバレませんように。


「お手伝いいたしましょうか?」


 二人のお姉様は瞬きをしました。私の申し出はおかしいのでしょうか。


「仰木様。せっかくのお心遣いですが、必要ありません。これは私の仕事ですから。有喜良お嬢様と同じ部屋にしていただいている以上、学園にご奉仕する義務があります」

「顔を上げてください。私はただ……古都羽お姉様が部活で差し入れをしてくださいましたから、お礼がしたかったんです」


 練習の休憩に、紙コップの緑茶を振る舞っていただきました。しかも全員にです。大容量の水筒を用意していた古都羽お姉様は、マネージャーにほしい人材です。


「有喜良お嬢様が見学されましたから、迷惑料をお支払いしただけです。他意はございません」


 古都羽お姉様は女子野球部に反対しない、数少ないお姉様の一人です。冷たくされるのは悲しくなります。向けられる視線に、私の心臓は跳ね上がりました。まるで、バッターの打つ気をくじくような鋭さがあります。マウンドで見下ろされたら、ヒットを打つには低すぎるボールにも手を出してしまいそうです。


 私は直感を信じて言いました。


「古都羽お姉様と、もっと仲よくなりたいです。古都羽お姉様がピッチャーをしてくださったら、今以上に距離が縮まると思うのですけど」

「叶愛さん、何をおっしゃっているのですか? 古都羽の投球を見てもいないのに、スカウトなどありえませんわ」

「構いません、松陰寺様。仰木様が無茶なお願いをしても、有喜良お嬢様には遠く及びません。あまりの可愛さに癒されてしまいました。仰木様、あいにくですが、私にお役目が務まるとは思えません。勧誘は、ほかの方に当たられることを推奨いたします」


 不満そうに見えるのは、女房役というキャッチャーの呼び名が原因ですか? それとも、有喜良お姉様のことが気になるのでしょうか。黙った後のお顔が怖いです。


 肩を震わせた私は、ガウンの裾を引っ張ります。藍奈お姉様は忍び笑いを漏らしました。


「古都羽にも苦手なことがあったなんて、存じ上げませんでしたわ。ピッチャーの役目すら十分にこなせないなんて、おかしくて涙が出てしまいそうですわ。万能メイドと名乗れませんわね。おこがましいのではなくって?」

「楽しみに待っていてくださいませ。仰木様と松陰寺様の、ご期待以上の仕上がりになっているかと」


 再び茂みに隠れる前に見えた古都羽お姉様の口元は、香お姉様と違う含み笑いをたたえていました。


「私は煽りすぎたのでしょうか?」


 触れてはいけないスイッチを、起動させてしまった気がします。

 藍奈お姉様は、不安を漏らした私の手を包みました。散歩の続きをしましょうと、満月の下で誘われたのでした。




《幕間Ⅰ 完》

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