第2章 マウンドに立てない姉

第10話 わたくしは屈しませんことよ

 土曜の朝は、叶愛さんとまったり過ごせると思っていました。来週から本格的に始まる授業に向け、部屋で勉強するつもりだと考えておりましたの。叶愛さんと同じ部屋で生活をともにしていくうちに、彼女が勉強好きではないと分かっています。目や肩の疲れに効くマッサージをたしなんでいるわたくしが、手厚くサポートするつもりでしたわ。叶愛さんには、時間をかけて聞き出したいことがありましたから。


 わたくしのいないパジャマパーティーは、心から楽しめたのでしょうかと。


 昨夜の出来事を、わたくしは苦々しく思い出しました。


 真珠美お姉様に貸していただいた参考書を返却しに行った後、部屋はもぬけの殻になっていました。部屋中のドアを開き、隠れられそうな場所を捜索しました。福光嬢のちょっかいが、つい先日にあったばかりです。最悪な事態は容易に想像できました。整えていたはずの叶愛さんのベッドが乱れていたことも、わたくしの妄想を加速させます。


 寝ている妹に耐えきれなくなった香が、人肌を求めて叶愛さんを拉致したに決まっていますわ。ベッドの惨状は、叶愛さんの必死の抵抗が刻まれた証なのだわ。


 香の部屋に行ってみれば、お菓子を食べながら談笑していたご様子。留守番していた犬が暴れ回った跡のようなベッドは、心臓に悪いですわ。部屋に一人で過ごすことが、それほどまでに叶愛さんを苦痛に追い込んでいたとは知りませんでした。


 無事でよかったと胸を撫で下ろしたのは、ほんのひとときでした。腕時計に目を向けて見れば、寮室訪問禁止までのタイムリミットが迫っていたのです。妹が使ったテーブルを片づけ、彼女のご学友を送り届けるミッションを成し遂げました。叶愛さんの不名誉になりそうなことは、わたくしが阻止いたします。叶愛さんと二人きりになったとき、歩きながら部員達とどのようなお話をしていたのか聞こうとしました。


 なぜわたくしをお誘いすることなく、パーティーは密かに催されたのかしら。わたくしの不在を、どなたも疑問に思われなかったのとでも? 所詮は名もない記録係ですものね。入部届を出している方々とは、大きな差がありますわ。紙の書籍と、デジタル版限定特典で違いがあるように。通常盤と初回限定盤のたとえの方が、分かりやすかったかしら。


 そのような不満は、叶愛さんに伝えませんでした。見苦しい姉など、叶愛さんに見せられませんわ。莉央さんと仲直りできた喜びに、水を差すのは品がありませんもの。加えて外で長話をしすぎてしまっては、夜風で叶愛さんの体を冷えさせます。わたくしのせいで風邪を引かせることは、あってはならないことですわ。もちろん、叶愛さんが風邪を引いてしまわれたら、寝る間を惜しんで看病して差し上げますけれど。


 とにかく、事情聴取をするためにも、叶愛さんとの会話は必須でした。わたくしが尋ねようとしたとき、叶愛さんはオバケでも見たかのような表情を浮かべました。遅い時間に外で悲鳴を上げてしまわれたら、寮長や寮監に叱られてしまいます。わたくしは叶愛さんの口を優しくふさぎました。


 わたくしの妹を怖がらせた不届き者は、どちらにおられるのかしら。たっぷりとお礼をして差し上げますわ。


 鎌をかけたわたくしに、不届き者もとい古都羽が機嫌を損ねました。作業を中断させてしまって、ごめんあそばせ。オバケの疑いが晴れましたから、わたくし達は退散いたしますわ。足早に去ろうとしたわたくしに、叶愛さんは足並みを揃えてくださいませんでした。


「古都羽お姉様と、もっと仲よくなりたいです。古都羽お姉様がピッチャーをしてくださったら、今以上に距離が縮まると思うのですけど」


 聞き間違いですわよね。ピッチャーの経験のない古都羽が叶愛さんにプロポーズされるなんて、非現実的ですもの。「私の運命の人はあなたです、古都羽お姉様。私をどうか、あなたの妻にしてください」と、叶愛さんが頼み込む訳がありませんのに! 叶愛さん、パジャマパーティーでいけない薬でも盛られましたの? とろんとした目で古都羽を見つめてしまって。


 あぁ、わたくしは何を見せつけられていますの? あれよあれよとプロポーズの立会い人にさせられて、これ以上は黙っていられませんわ。


 叶愛さん、ピッチャーをスカウトしたいのなら、ほかに適役がいますわよ。運動部の助っ人に引っ張りだこの有喜良なら、九十球以上投げ続けるスタミナはありそうです。キャッチャーの指示通りに投げられるかどうかは、これからの練習次第でしょう。叶愛さんが相方として支えてあげてくださいまし。ですから、わたくしを何かとつけて敵視する古都羽だけは、バッテリーを組まないでいただきたいわ。わたくしの大切な妹の身に、何をしでかすか分かりませんのよ。その点、有喜良なら安心して任せられますわ。


 わたくしの脳裏に、架空の練習風景がよぎりました。


「叶愛、きみのリードはすばらしいね。僕が神経質になりすぎないように、大らかな指示をくれる。投球練習のときも、僕をずっと見ていてくれただろう? 今日の球種も、きみ好みだったかな?」

「はい、有喜良お姉様。早く部活の時間になってほしくて、授業の最中でも落ち着かなかったです。有喜良お姉様のボールを受け止めるのは、私のミットじゃなきゃ嫌です。藍奈お姉様と一緒にいるときより、胸のドキドキが止まりません」

「駄目じゃないか。授業は集中して受けるものだよ。そんなに待ち遠しかったのかい? 僕からのご褒美が」


 キャッチャーマスクを外した叶愛さんのあごに、有喜良の手が添えられます。叶愛さんは有喜良の腰に腕を回し、重ねられる唇に身を委ねようとしていました。


 アウトオオォー! 有喜良とのバッテリーは却下ですわ! 妄想しただけでも、有喜良に心を奪われる叶愛さんは見ていられません! 乙女の顔は、わたくしだけに見せてくださいな!


 仕方ありませんわね。グラウンドでの旦那様の座は、古都羽に譲ってあげますわ。叶愛さんのプライベートのパートナーは、何が起きようとも譲るものですか!


 わたくしは敵にあえて塩を送りました。有喜良の強すぎる顔面に、叶愛さんが溶かされることのないように。思いつく限りの挑発を、負けず嫌いの古都羽へぶつけたのです。わたくしの策略に気づかないはずはないですが、煽りに我を忘れてくださって助かりましたわ。


 わたくしにキャッチャーの素質があれば、まどろっこしいまねをする必要はなかったのでしょうね。マウンドで呪いの声が聞こえるわたくしには、叶愛さんに応援されたとしても狙い通りに投げられません。バッターの体に当ててしまわないか、怖くてボールがすっぽ抜けてしまうのですわ。外野からホームへ送球する方が、性に合っています。


 いいえ、記録係は叶愛さんの愚痴を聞くだけで十分ですわ。プレーしたいとは微塵も思いません。一緒にしたいのは野球以外のことですもの。


 待ち望んだ土曜日は、朝から叶愛さんと過ごせて嬉しいですわ。学校がある日よりも長くいられます。わたくしは一年生のときに使っていたノートを手に取りました。


 我ながら美しい板書ですのよ。叶愛さんにお見せしたいですわ。わたくしが浮き足立っていると、叶愛さんの姿がありませんでした。


「お姉様、午前中は自主トレーニングに行ってきます」


 わたくしの返事もそこそこに、いつの間にか開いていたドアは閉じられていました。


 一緒に汗を流しませんかとおっしゃってもらえたら、わたくしも動きやすい格好に着替えますのに。


 結局、叶愛さんと顔を合わせたのは夕食のときでした。たった一時間しか叶愛さんと勉強できず、布団の中でしょぼくれてしまいます。


 日曜こそ叶愛さんと映画を見に行ったり、買い物を楽しんだりしたいですわ。叶愛さんが土日に練習へ行かないうちに、どこかへ出かけられたらと思ったのではありません。外部生の叶愛さんに街を早く案内しておくのは、姉として当然の責務ですもの。日曜が駄目なら月曜のオフに誘えばいいのですわ。自分を無理矢理にでも納得させます。


 聖ヒルデガルド学園は、全てのクラブに最低二日の休養日を義務づけています。女子野球部のオフは月曜と水曜。水曜は、チェス部唯一の活動日になっていました。藍奈お姉様が兼部されても問題ないでしょうという、叶愛さんからの無言の圧を感じなくもありません。


 外堀を埋めても、わたくしは屈しませんことよ。打席や外野の景色に、惹かれるものがありませんもの。むしろ息苦しさを感じますわ。選手としてグラウンドを駆けたいとは思えません。女子野球部の記録は、事細かく書いて差し上げますとも。叶愛さんとの繋がりが弱くなっている今、限りあるポジションは死に物狂いで守っていかなければなりませんもの。部員でもないのにサポートしてくれる、ありがたいお姉様というポジションを。


 もしも叶愛さんから女子野球部に入ってくださいと頼み込まれてしまったら、今のわたくしは首を横に振ることができるのでしょうか。


 悶々とするわたくしが目覚めたのは、翌日の八時でした。叶愛さんのベッドに、午後まで外出しますと書き置きが残されていました。


「先を越されましたわね」


 弱気になってはいけませんわ、藍奈。叶愛さんと充実した休日を送れないのは残念ですが、図書室へ勉強しに行きますわよ。平常心を取り戻すのです。

 


 ⚾️⚾️⚾︎



 日曜の校内は、ひっそりとしていました。活気があるのは、運動部の練習するアリーナのみ。廊下を歩くわたくしは、図書室に足音を響かせないよう注意を払っていました。


 ドアを開けると、スーツの女性が顔を上げました。

 

「ごきげんよう、松蔭寺さん。女子野球部の様子はどうだい?」


 右手で丸メガネのフレームを持ち上げたのは、チェス部兼女子野球部顧問の神指先生でした。


「ごきげんよう、神指先生。何を読まれていたのですか?」

「『勝鯉しょうりの美酒に酔いたい』というコミックエッセイだ。鯉のファンを始めた著者の日常が綴られている。あぁ。鯉は魚ではなく、プロ野球の方だよ。球団の名前にちなんで勝鯉の表記になっている。ホーム球場で勝利したときに販売されるビールは、勝鯉かちこいの呼び名だけどねぇ」

「正式に女子野球部の顧問になられて、野球の興味が湧いたのですわね」

「なる前から興味はあったよぉ。ぬいちゃんの付き添いで、ビジター球場にはよく行っているからねぇ。一人で三塁側に座るのは、勇気がいるらしい」


 本拠地ではないチームのファンが応援するときは、基本的にビジター席か三塁側の席を取ります。しかし、ホームの観客が 三塁側の席を買うことは禁止されていないため、席が相手チームのファンに囲まれることもあります。地方球場の中には、ビジター席以外ホームの色に染まるくらいです。


「ぬいちゃんは、大人しい方ですのね」

「松蔭寺さんがよく知っている人だよぉ。ちょうどそこにいる」


 司書室のガラス越しにいた人物は、去年も担任だった縫目ぬいめ知可子ちかこ先生でした。


 先生よりも生徒に見える童顔で、老眼の先生にファンデーション禁止と叱責されたこともありました。鼻を中心に広がるほくろがコンプレックスなのでしょう。化粧禁止が不満な生徒を前に、すまなそうな顔で注意していました。


 去年聖ヒルデガルド学園へ赴任する前は、共学で二年間非常勤をされたそうです。女子高ならではの雰囲気にまだ慣れていないのでしょう。リップクリームの貸し借りに目を白黒させる、可愛らしい先生でした。


「縫目先生、野球を見に行かれていたんですの? 休日の趣味は読書と映画鑑賞と、話されていましたのよ」

「嘘じゃないよ。女子野球部の顧問に決まったとき、ぬいちゃんに嫉妬されちゃったんだよねぇ。まっさらな状態から選手を育てていけるの、大変だけど羨ましいってさ。金曜日に迎えに来たときは、ほかの部員がいたから遠慮したのだけど。きみから見た、女子野球部の練習の様子はどうだったのかな?」

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