幕間Ⅰ ➁悪い子になっちゃいます
打席に立つとき、チャンスのとき、得点したとき。励ましや喜びの声で選手を後押しするのが、応援席の醍醐味です。高校サッカーの応援では、太鼓のリズムに合わせて「もっ! もりっ! もりあ! 盛り上がりが足りない!」と繰り返すコールが流行り、拡散されていました。花型スポーツを無言で見守ることになってしまったら、楽しみの半分が抜け落ちる不満が上がりそうです。
拍子抜けと同時に感じた不満を自覚したときには、はじけ飛んでいました。
「大きすぎる声援が苦手ってことは、スポーツ全般が苦手ってことですよね? 声援があるから、選手のプレーは輝けるんです。そんなに苦手なら、今すぐ辞めちゃっていいですよ。これからずっと、声出しとか試合とか、莉央にとって嫌なことをたくさんしていかなきゃいけないんです。もっと自分のことを、第一に考えてあげてください!」
勧誘がしつこくて断れなかったのなら、本格的な練習が始まる前に退部してくれて構いません。本気で野球をプレーしたい人の迷惑です。
私を見上げる莉央は、か細い声を途切れさせながら答えました。
「きょ……み、あるの、は本当」
莉央の白い顔が、より生気の抜けたものに見えました。同級生から宇宙人と言われていても、言葉をうまく選べなくて傷つく様子は普通の子と変わりません。いいえ、もしかしたら普通の子よりも深く傷ついているかもしれません。
私はすぐに、言いすぎてごめんと詫びるべきでした。しかし、先に動いたのは別の人物だったのです。
「おお、ぎ、さん。ごめん……な、さい。無神経なこと言って、ごめんなさい」
どうして莉央が謝るのですか。
喉元まで出かかっていたはずの謝罪が、刺さってしまって抜けません。唇を噛んでばかりの私に、莉央は視線をそらしました。莉央の握りしめたプリーツスカートの裾は、ひび割れた関係を象徴しているかのようです。
いたたまれない空気を晴らしたのは、こころでした。莉央の手を包み込み、幼子に言い聞かせる口調で話しました。
「深呼吸はできるのです? 大きく吸って、吐いてほしいのです。莉央は、重く受け止めすぎなのです。きつい言い方に聞こえたのかもしれないのですが、叶愛はそこまで怒っていないのです。大好きな野球を、無理に好いてほしくないだけなのです。莉央も、大好きなものを、好きなふりされたら嫌でしょう?」
頷く莉央を見たこころは、私にウインクしました。友達が作ってくれた、せっかくの和解の機会です。無下にする訳にはいきません。
でも、何から言えばいいのか迷っているうちに、莉央は姿を消してしまったのでした。
⚾️⚾︎⚾︎
私は枕を強く抱きしめました。
「感情的になりすぎました。あんな風にまくし立ててしまって。遊びで来る人と一緒に部活したくないと、ストレートに言っているものじゃないですか」
仮の部活として活動を始めた女子野球部は、土日の練習ができません。月曜の教室で謝るまで、二日も時間がかかるのは長すぎます。寮に帰ってから莉央の部屋を訪ねようと三往復しましたが、ノックをする勇気はしぼむばかり。謝ったときに莉央の反応がないことをイメージして、次の行動ができなくなりました。
「明日になったら言いづらくなるのは、分かっているんですよ。寝る前、最後の突撃です。莉緒の部屋に行くのですよ、叶愛」
起きたくないと体がベッドに張りついていたとき、ノックが聞こえました。藍奈お姉様ではないはずです。部屋の鍵を持って、出て行かれましたもの。
莉央だったらどうしようと思いましたが、予想は外れました。
「ごきげんよう、叶愛さん」
「香お姉様、よいところに来てくださいました!」
重く感じていた悩みが、不思議なくらい軽くなっていきます。
「更衣室でのやりとりが気になって、湯浴みの後に寄らせていただいたのですわ。逃してはいけない通知を流してしまわなかったのなら、日頃の行いのおかげでしょうか」
逃してはいけない通知。虫の知らせのことを、おっしゃりたいのかしら。香お姉様の使われる言葉は聞きなれないものが多くて、ついていくのが大変です。私も野球用語を使うときは、注意しないといけませんね。気をつけようと思っていても無意識に出る分は、とがめないでくださいませ。
「ずっと後悔していたんです。謝りたいのに謝れなくて。一人でいると、自分のことが許せないんです。私のもやもやのために、莉央に謝ろうとしているんじゃないかって」
私は香お姉様の手を取りました。
「あらあらあら。いけませんわよ、藍奈さんの目の前で私を薪にしてしまっては」
「お姉様は部屋にいないので大丈夫ですよ」
「そういう問題ではないのですけれど」
「香お姉様は、カーディガンと同じ素材のニットワンピースをセットアップとして着こなしておられるのですね。ロイヤルブルーがとてもよく似合っています」
「叶愛さん。それ以上、私の精神を燃やしにかかってはいけないわ」
燃やすつもりはさらさらないです。私はまた、やらかしてしまったのでしょうか。
「叶愛さんも、素敵なお召し物ですこと。水玉だと思っていましたが、いくつかハートマークも混じっているのね。せっかく可愛いルームウェアをお召しになっているのですから、これから私の部屋に女子野球部員で集まりませんこと? 私は唯一の二年生ですから、皆さんのことを知るには部活以外ないのです。チームメイトとして親睦を深めましょう?」
パジャマパーティーのお誘いは嬉しいです。ただ、莉央と余計にぎくしゃくするのではないか心配になります。
「叶愛さん。教室で見せる顔が全てではないのですわ。内部生と外部生では、過ごした時間も濃さも違いますもの。分からないことが多いのは当然です。莉央さんは感情を表に出すのがいささか苦手な方ですから、ぶつかることもあるでしょう。こんなことを言っては不謹慎かもしれませんが、早いうちにぶつかってよかったと私は思っていますわ」
「そう……ですよね」
コミュニケーションがうまくいかないと、捕球の声かけもうまくいきません。打席を待つときのベンチの雰囲気も、険悪になる可能性がありました。莉央がどうしたら無理なく部活に参加できるか、全員で改善策を見つけるべきですよね。
「香お姉様、ご提案ありがとうございます。私は皆様の部屋に回るので、香お姉様は飲み物の準備をお願いできますか?」
「もちろんですわ。水を差すようで申し訳ありませんが、黙って部屋を出てしまっては、藍奈さんが心配しますわ。外出することを書き置きしてくださいまし」
私は部屋に戻り、便箋を取りました。
藍奈お姉様。私、悪い子になっちゃいます。留守番もできなくてごめんなさい。心の中で謝り、手短に書きました。
「これで大丈夫だと思います。香お姉様、質問があるのですが」
遠慮なくおっしゃいと返事があり、私は胸を撫で下ろしました。
「薪にするって、どういう意味でしょう? 教えてくださいませんか?」
「んんっ! 分からなくても死にはしませんわ」
うふふふふと袖を振る香お姉様は、私の疑問に答えてくれませんでした。年上の余裕が眩しいです。
「叶愛さん、言い忘れていたことがありましたわ。叶愛さん以外の部員には、すでにお声がけしておりましたの。莉央さんも私の部屋にいますの。逃げてはいけないわ。覚悟なさって?」
図りましたね、香お姉様。最初から私の言質を取ることが目的だったのですか。心の準備がまだできていないのですけど。
私は香お姉様に連行されていきました。
⚾️⚾︎⚾︎
香お姉様の部屋に入ると、芝居がかった声でルームメイトを紹介されました。
「民草よ、ひれ伏しなさい。桜さんの美しさは、この世の全てをかき集めても足りませんもの。透き通る肌に、美しい御髪、紅をつけたような唇。まるで実写版白雪姫のようでしょう?」
「はい。寝ているところも同じですね」
ルームメイトは、一度横になると起きない体質のようでした。香お姉様がどれほど高笑いをしても、衣紗と莉央が至近距離で覗き込んでも微動だにしません。何だか衣紗と莉央の二人が、ガラスの棺越しに見つめる小人に見えてきました。
「おかえりなさい、香お姉様。桜の寝息が聞こえないの、心配っだったんす!」
「脈はあるはず」
「二人ともお行儀が悪いのです。寝ている人の顔をジロジロ見てはいけないのです。変な夢を見せたら悪いのです」
こころは、二人の袖を引っ張りました。小花柄のナイトドレスは、細やかなレースで裾や袖口を飾り立てています。
「それは分かってるっす! でも、あんまりにも本物の人形みたいなんすよ? 起きて笑いを堪えているか、確かめたくなるっす。あっ、確かめたくなってしまいます」
「衣紗は丁寧語が苦手なのです? いつも自分の語尾を気にしているのです。自信がなさそうに見えるから、気にしすぎるのはやめた方がいいのです」
「やっぱり、悪目立ちするっすよねぇ。一応、言葉遣いを直そうとしているっす。でも、どうもうまくいかないんすよ。こころみたいな話し方が憧れるのに、男ばかりの家庭で育った弊害なんすかね。女子野球部で、少しは可愛さを身につけられたらいいんすけど」
「肩の力を入れなくても、衣紗は可愛いのです。ギンガムチェックのワンピースも着こなしているのです」
こころのふっくらした頬は、見た人を自然に笑わせる効き目があるようでした。置き場を失った衣紗の手が、スクエアネックの胸元に収まります。
「叶愛さん、ティーカップを運ぶのを手伝ってくださいまし」
キッチンからトレーが顔を出し、私は受け取りました。部屋で一番大きな棚を指差した香お姉様は、にこやかに笑いました。
「そこの棚には食べ物の類も、面白そうなものもありませんわ。あるのは、紙の束ですもの。開けないでいただけると助かりますわ。お互いのためにも」
扉で中身が見えなくなっている棚は、文庫本を収納しているようです。
私の実家の部屋は、壁中を東京ピヨピヨズの選手のサインで飾っていました。まさに趣味全開の楽園です。昔から友人を部屋に招くのは憧れていましたが、お宝グッズをぺたぺた触られたくないジレンマに悩まされ、叶っていません。見せたくないものがあっても快く部屋に招いてくれた香お姉様は、なんと大きな器をお持ちなのでしょう。
感動しながらローテーブルにカップを並べます。私と莉央の間を衣紗が入る形で座りました。
「皆様、お待たせいたしました。ローズヒップティーとはちみつが苦手な方はおられますか? おられましたら、別の紅茶をご用意いたしますよ」
福光先輩から紅茶をいただいたときも思いましたが、カフェオレ派の私は茶葉に詳しくないのです。美味しければそれでよし。
「特にご希望がないようで、安心いたしました。本日は初めての部活ですもの。皆様の疲労が回復することを願って、効果のあるブレンドを選んだのですよ」
濃い紅色に、黄金のはちみつが追加されます。第一回女子野球部親睦会、もといパジャマパーティーの始まりでした。持参したお菓子をつまみながら、部活以外のことも語らうのです。香お姉様は包装紙を外しながら私に訊きました。
「叶愛さんは、カステラを召し上がりますか?」
例のお茶会の出来事を、気遣ってくれているのですね。私がスイーツ嫌いになったか、確認してくださったのでしょう。
「もう平気です。食べられますよ。こころ、その丸いドーナツみたいなものは何ですか?」
「生おからとチーズで作ったスコーンなのです。今日の練習に持っていこうと思って作ったのですが、私のお姉様に食べられて作り直して来たのです。マカロンは死守できて、本当によかったのです」
「マカロンも作れるのですか? こころはお菓子作りの名人ですね。プロテインバーの代わりになるスイーツも作れますか?」
「ブラウニーの配合を研究してみるのです」
私は咀嚼する莉央の頬を見つめました。今度こそ伝えなくては。
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