幕間Ⅰ 親睦のパジャマパーティー

幕間Ⅰ ①イメージトレーニングは完璧なんですよ?

 逃げたいと思いました。自分に降り注がれる視線と、胃にのしかかるケーキから。


 私、仰木叶愛がケーキを食べるのは、年に数回あるかないかでした。社長令嬢という肩書きはありますが、所詮はしがないスポーツ用品店の娘です。株式会社ではない自営業。家族の誕生日を祝うときでなければ、ケーキ屋に入ることはありません。贈答品の評価が昔から名高いパティスリー福光は、なおさら敷居が高く感じさせました。


 一粒三百円相当のチョコレートが惜しみなく詰め込まれたアソートメントは、お中元やお歳暮でもらえたら最高でした。そんな洋菓子店のケーキをただで食べさせてもらえる機会に、私は理性を失いました。全部食べきれたら女子野球部の活動を援助するという申し出も、冷静さを削いでいったのでした。


 用具や遠征にかかる費用を思えば、パトロンがいるに越したことはありません。大会に出なくとも、日々の練習でアンダーシャツやスパイクは消耗します。土にまみれるソックスもしかり。月一のご褒美としてパティスリー福光のケーキも提供されれば、文句のつけどころは皆無です。


 最後に付け加えた要望は、私が無類のスイーツ好きだからとお思いでしょうか。ご安心ください。ちゃんと野球に関係していますよ。


 朝早くから練習が始まる野球部員にとって、ささやかな楽しみがなければやっていけません。小腹を満たす用に許された食料は、サラダチキン、バナナ、ゆで卵、白米のおにぎりなど。体作りに必要な栄養素を、効率よく得られる品目でした。


 部活帰りのアイスクリームがどれほど甘く感じられることか、分かっていただけたでしょう。甘味を頬張るときは、ホームランや守備でいい動きができたときには味わえない喜びが得られます。毎日食べたいなんて贅沢は言いません。たまに摂取できたらよいのです。ストレス発散やモチベーションアップのためにも、スイーツの供給は重要な役割を占めるはずだと主張します。


 ましてや私のプレーは、より糖分の恩恵を受けやすいものになっていました。バッターの思考を読んだ上で、ピッチャーに投げさせる球を考えるのが、キャッチャーというポジションなのですから。頭を使っただけの糖分は、適度に取っておくべきでしょう。頬やお腹周りの脂肪には、変えてなるものですか。


 胃袋の試練を意気揚々と受ける前は、自分に振る舞われたケーキが宝石のように輝いて見えました。フォークの立てる場所を決めきれないミルフィーユ、オレンジピールを敷き詰めたパウンドケーキ。永遠に眺めていたいとさえ思えた輝きがいつしか失われてしまったのは、 慣れ親しんだホームではなく敵地ビジターに赴いていることが影響していました。


 負けたくないと思っていても、頑丈なはずの気迫をもろくさせる空気がビジター球場に漂っているものです。ベンチで見守るチームメイトの鼓舞や、両手を握りしめるファンの祈りは届きますが、相手の声援になぎ倒されてしまいます。


 今の私も、否定的な声に押し潰されかけていました。


 口では大きな夢を語れても、庶民はどうせ音を上げてしまうのですわね。聖ヒルデガルド学園では女子野球部の創設を喜んでくれる人はいないのですから、早く転学なさった方がよろしいですわ。


 福光先輩と取り巻きの声を聞きながら食べるうちに、私はケーキを咀嚼することがつらくなっていたのでした。


 もしかして、パトロンになってくださるというのは、女子野球部創設をあきらめさせるための策略だったのですか? 根気強く説明を続けていれば、分かってもらえると信じていた私の心は揺らぎました。どことなく体も重く感じます。


 簡単に跳ね返せない重圧は、最終回表ツーアウト走者なしで打席に立たなければいけないときの心境と似ているかもしれません。自分がヒットを打たなければ負ける状況では、バットを握る手に力が入ります。ここが待機場所ネクストバッターズサークルだったなら、私は素振りで力みを抜いて、ピッチャーとの対決に臨んでいたはずです。

 しかし、私の目の前に広がるのはマウンドではなく、一向に減らないケーキスタンドでした。


 どうして私は、相手にとって有利なフィールドで勝負を受けちゃったのかしら。無限に食べられると自負しているのは、白米と肉だけなのに。


 美味しかったはずのケーキから、甘みを感じられません。クリームのついた唇を舐めていたうちに、なぜだかしょっぱくなっていたからです。


 藍奈お姉様が来てくださったら、頑張れるかも。


 限界寸前の私の胸に、淡い期待が湧いてきました。

 こころや衣紗に嘘を伝えた自分なんかの願いを、神様が聞き入れてくれるはずがありません。頭では分かっているのです。それでも、藍奈お姉様なら見つけ出せるような気がしたのでした。


 初めてお会いしたときから、藍奈お姉様は私の憧れでした。寮の電球は白く冷たい印象を受けるのに、藍奈お姉様のおられる場所は、暖色ライトが灯っているような心地になるのでした。物心ついたときから持っているピヨ蔵のぬいぐるみに、何度も藍奈お姉様のすばらしさを聞いてもらいました。お姉様が部屋を留守にしているとき、こっそりと。


 ピヨ蔵、聞いて聞いて。藍奈お姉様ったら、寝ているとき以外はほとんど休まれずに勉強しているのよ。三十分もじっと座っていられない私と比べるのはおこがましいけど、本当に立派な方だと思わない?


 うつむいたときに勇気を奮い立たせてくれる女神様の声を、私は思い出しました。これからのあなたの行動が肝心なのですから、しっかり食べなくてはいけませんわよと。藍奈お姉様がおっしゃっていたのは、朝食であってケーキではありません。それでも私は食べ続けたいと闘志を燃やしました。


 悲鳴を上げる体を無視し、口を開きましたが、もう一欠片だって飲み込めません。ツーアウトの赤いランプが消えて、試合終了が宣告されることを受け入れようとしました。


 そのときです。私に微笑みかける女神様が舞い降りてくれたのは。


「ご歓談中のところ、申し訳ございません。叶愛さんのご学友の方が探していましたの。叶愛さん、違う場所を教えたら相手の方が困ってしまいますわよ? 温室と職員室は、方向性が全く違いますもの。連絡はきちんと行ってくださいませ」


 砂時計の砂が落ちきる前に駆けつけてくださった藍奈お姉様は、私を苦しめていたもの全てを吹き飛ばしました。温室に降り注ぐ光が、天使の羽のように見えます。


「叶愛さんのことを応援してくれる人がいるのです。このような妨害で夢をあきらめさせることは、わたくしが承知しませんわよ」

「叶愛さんにつきまとうのは金輪際ないと、今ここで誓ってくださいませ」


 藍奈お姉様の言葉を反芻するだけでも、胸の高鳴りは激しくなります。


 恐れ多くて、いつも名前をお呼びすることをためらう妹に、藍奈お姉様はこともなげに言われました。「わたくしと叶愛さんは姉妹ですから、これくらい普通です」と。


 勇気のある妹ができて誇らしくなったと聞いたときも、喜びを抑えきれませんでした。その喜びが大きければ大きいほど、一人きりでいるときの気分の浮き沈みも比例します。


 藍奈お姉様から質問してくださっても、短い相槌しか打てずに話を終わらせてしまいます。話し相手にもなれない私を妹として接してくれる優しさは、芽の出ない選手を辛抱強く起用し続ける監督のようでした。私を信頼してくださるご恩に、何としてでも応えなければ。大好きだと言ってもらえるうちに。


 だからこそ私は、お姉様に言わなければいけない言葉を、早く伝えたいのです。

 寮のベッドの上に座る私は、パジャマの袖を握りました。


「あっ。あいにゃ、おねーさまっ! じょ、じょじょじょし、やきゅーぶ、に、ははは、いって、いただけません……か?」


 いたたまれない沈黙に耐えかねて、枕に顔をうずめます。

 捕りやすい打球を取り損ねたときと同様、透明人間になってしまいたいです。


「イメージトレーニングは完璧なんですよ? なのに、どうしてなのでしょう? なぜお姉様を目の前にしていなくて、大惨事を引き起こすのですか!」


 藍奈お姉様は、借りていた参考書を返しに出かけたため不在です。だからこそ秘密の練習ができるのですが、すでに勇気はしぼんでいました。


 藍奈お姉様、女子野球部に入っていただけませんか?


「……って感じで、言いたいんです! でも、いつも理想とは全然違って、悲しくなります。心の中だと、余裕でいけちゃうのになぁ!」


 もどかしいです。

 もどかしすぎます。

 大好きな藍奈お姉様と、大好きな野球がしたい。そう言いたいのに、思っていることの半分も伝えられていません。一日のほとんどを、同じ空間で過ごさせていただいていながら。

 肝心なところで動くことのできない、自分のばかばかばか!


 声にならない悲鳴を上げた私は、枕を抱えながら転がりました。


「お姉様のお顔のせいです。見つめないでください。私のこと」


 解決しないといけない問題は、もう一つありました。楽しみにしていた女子野球部念願の初活動日に、忌まわしい事件が起きたのでした。


 本音が許されるのなら、活動なんて大きな声では言えません。私以外の部員は、キャッチボールですら、ろくにできなかったのです。


 ボールを投げるだけ投げて、落ちたボールを拾う。つまり、互いにボールを投げ合うこともままならないのでした。想定をはるかに越えた初心者ぶりに、私は焦って守備練習を提案してしまいました。しかし、この日一番の失敗は、練習の後にしでかしたのでした。



 ⚾️⚾︎⚾︎



「WBCはご存じですか?」


 練習終わりの第三アリーナの更衣室で、私は部員達に尋ねました。


 WBCの正式名称は、ワールド・ベースボール・クラシック。

 日本を含めた二十の国と地域が参加する、世界野球ソフトボール連盟公認の世界一決定戦です。


 プロ野球チーム十二球団から選抜されたドリームチームの活躍となれば、家族一丸で応援していたはずです。オリンピックのように注目度の高い話題はメディアが大きく取り上げますし、海外の代表選手との感動秘話も耳にしているかもしれません。WBCを見ていても、見たことがなくても、名場面集の上映会をすればよいだけのことです。質問しておきながら、返事はどちらに転んでも構いませんでした。


「名前だけは聞いたことがあるのです」


 セーラー服のブラウスから顔を出したこころに、香お姉様は目尻を下げました。


「申し訳ありませんわ。勉強不足ゆえ、どのような意味か存じ上げませんの。教えていただけるかしら?」


 はいはーいと、元気な声が上がります。


「聞いたことあるっすよ! 十一ヵ国の参加によって設立されたんすよね。確か一九六三年に」


 挙手をして答えてくれた衣紗に、私は首をかしげました。WBCの第一回大会は二〇〇六年の開催です。四十年余りの差は、どこで生まれたのでしょう。


 衣紗の説明はなおも続きます。


「WBCには、独自のルールがいくつかあるんすよねぇー。バッティングの負傷で試合が続けられなくなったら、四回終了に引き分けじゃなかったっすか? あっ……引き分けになるルールがありましたよね?」


 衣紗、無理してお嬢様言葉を使わなくていいと思いますよ。私みたいに普通の敬語を話しておけば、十分それらしく見えますから。下手に意識しすぎると、外部生が背伸びして見苦しいだなんて陰口を叩かれるかもしれないです。あまりにもガサツな言い方のままでも、内部生から目をつけられてしまうので加減が難しいですけどね。


 私はそう指摘しようとしましたが、口には出しませんでした。それよりも、気になったことがあったからです。


「WBCはタイブレーク制が適用されていますから、引き分けにはなりませんよ?」

「えぇーっ? 王座がどうとか言っていたのは、違うんすか?」


 王座と聞いて最初に思い浮かんだものは、ピンクゴールドのティアラをつけた藍奈お姉様でした。赤いマントをはためかせる度に、裾についた白貂の毛皮が波打ちます。高貴な装いのお姉様も素敵です。


「それはボクシングなのです。たぶん」


 こころに同意を求められましたが、野球しか興味のない私には肯定できません。困惑していると、意外なところから助け舟がやってきました。


「仰木さんの言っていた略称は、World Baseball Classic。遊井さんが思い浮かんだWBCは、World Boxing Council。つまり世界ボクシング評議会のこと。大会と組織の名前。些細な行き違いがあっただけ」


 莉央が長文で話すことに、開いた口が塞がりません。クラスでの自己紹介は名前だけで終わらせていたため、十秒以上も声を聞けたのは新鮮でした。


「それで話がこじれたんすね。叶愛、申し訳ないっす。野球とは全然関係ないことを言って。私が陸上以外に興味なかったの、バレちゃったっすね」


 両手を合わせる衣紗に、鏡に映る自分を見ている気分になりました。自分がプレーする競技にのめり込みすぎて、一般常識に目を向ける視野がなかったのでしょうね。


「莉央、英語の発音が滑らかなのです。スポーツは興味があるのです?」

「大きすぎる声援は苦手」


 莉央の志望動機は謎でした。こころと衣紗に入部届を書いてもらっているときに、莉央から紙をもらいたいと話しかけてきたのでした。


 入部の決め手を訊いても答えてくれなかった莉央が、自然と呟いた言葉は貴重です。ただ、人柄を知れて嬉しく思えたのは一瞬でした。


 よりにもよって苦手なものはそれですか?

 ブラスバンドやチアリーディングも加えた応援が、高校野球の魅力でしょう? チームや選手名をメガホンで叩きながら鼓舞する瞬間は、莉央にとって雑音でしかないのですか?

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