第9話 お待ちなさいなっ!

 わたくしは後ろを振り返り、賑やかな行進を見下ろしました。新入部員三人は叶愛さんと同じクラスメイトで、いつも一緒に行動をしているとのことでした。叶愛さんがいなくても話に華を咲かせるくらいには、互いに良好な関係のようです。そのうちの一人はすでに面識があり、朝にお菓子をいただいたばかりでした。


「大きな建物が見えるっすよ! わわわっ! 見えましたよ!」


 丁寧な口調に言い直したのは、癖のないボブを揺らした少女でした。恥ずかしそうに前髪で目元を隠す少女の頭には、白いリボンが巻かれています。元陸上部の遊井ゆういと言えば、知る人ぞ知る有名人でした。部活を引退して体型が大きく変わったようには見えませんけど、息はやや切らしていました。スポーツ推薦枠で聖ヒルデガルドに入学した訳ではなさそうですわね。


衣紗いさがとても嬉しそうで、私まで同じくらい嬉しくなるのです。ようやく休憩に入れるのです?」


 万歳をしたのは、こころでした。お菓子作りが趣味とうかがった時点で予測していましたけど、運動は苦手な部類に入りそうです。衣紗よりも荒い息を吐いていました。


 その後ろでは、竹中たけなか莉央りおが斜め上を見上げています。編み込みを施したショートカットは、叶愛さんや衣紗と違って覇気を感じられません。中学寮に宇宙人がいるという噂は聞いていましたけれど、まさか莉央だったなんて。随分と個性の強い部員が集まりましたわね。


 冷や汗を流すわたくしに対し、香は鼻歌を歌いそうなほど上機嫌でした。


「元気っ娘の照れ顔、おっとり系ハーフアップ、いかにも文化部に入りそうなポーカーフェイス。いやはや、けしからんですなぁ。最新のカメラで勇姿を記録しておかなければ、全私が泣きますぞ?」


 全米ではなく全私だなんて。普段に増して、香さんの使う表現は独特ですわね。日本語にそのような表現はありませんわよ。おしとやかに見せていた仮面は、どこへ放り投げてしまいましたの。妹達の前で猫を被るのは、早々にあきらめたのでしょうか。


 わたくしは肩をすくめます。


「スケールの小さい悩みですこと。香さんの中の人が百を超えていたとしても、対処法は一つしかないでしょうに。ご安心なさって」

「ぬふふ。どうせ美少女の写真を渡しておけば、長手の奴は大人しくしておく。おおかた、そのような算段なのでしょう? しかしながら藍奈さん、お忘れですか? 私の強いこだわりを。ちょっとやそっとの美少女では、腹の虫が鎮まってくれないのですよ」


 忘れもしません。去年、好きなアイドルや女優の話で盛り上がっていたとき、教室の後ろから怨念にも似た視線を感じたことを。可愛さの基準が緩すぎることが許せず、心の中だけで抗議していたと話しておいででした。香は寝ている間、美しすぎる誰々を呪い殺していないといいのですが。


 わたくしの懸念は、先に着いていた叶愛さんが吹き飛ばしました。


「皆様! お待ちしておりましたよ! グラブとボールは、人数分ご用意させていただきました。息を整えたら準備体操をしましょう」


 足元に置かれた大きなバッグを見て、わたくしは顔色を変えました。


「叶愛さん、その大荷物を抱えて坂を登ったのですか?」

「さすがに全部は運べないですよ。神指先生が車で送ってくださいました」


 どうして担任している子だけ優遇するのでしょうか。いいえ、叶愛さん以外の四組勢は徒歩で来ていますから、神指先生の贔屓がいよいよ加速している気がいたします。


 車で送るべきなのは、部外者のわたくしというのに。記録係に体力があると判断したのはなぜですか。今すぐ問い詰めなければ。


「神指先生はどちらに?」

「『自分がいると緊張してしまうといけない。二時間後に迎えに来るよ』とおっしゃっていました」


 顧問として仕事する気はありますの?


 指導者のいない部活が、強くなるとは思えません。女子野球部と名乗るより、野球同好会と改めるべきですわ。


 信じられませんと叫びかけたとき、わたくしはある可能性に思い当たりました。


 まさか、部員に練習メニューや課題について考えさせることで、個人の戦力強化を図ろうとしているのですか。監督からの指示を忠実にこなすのではなく、各々が考えてプレーできるチームを作るおつもりなの?


 怠惰教師の印象が変わりそうです。


「今日の主な活動はキャッチボールです。初めてグラブに触る人もいると思うので、焦らずにやりましょうね」

「了解っす! じゃなくて! 了解であります! 叶愛ちゃん」


 衣紗の敬語は、お嬢様というよりどこかの軍隊のようです。彼女の言葉遣いを矯正させたいと意気込むわたくしの首に、鋭利なものが当たりました。どなたでしょうか、場合によってはただではすませませんわよ。


 鋭利なものの正体は、有喜良を紫外線から守っていた日傘でした。


「松陰寺様、失礼いたしました。有喜良お嬢様の背に合わせていた手が、限界を超えてしまったのでしょう。鍛錬の至らぬ私を、お好きなように罰してくださいませ」


 罰してほしいと頼みつつも、古都羽の目は笑っていませんでした。わたくしにそのような嗜虐趣味はありませんわよ。


「罰するなんて、とんでもありませんわ。それよりも、古都羽。あなたに聞きたいことがあるのよ。十五分で着けるなんて言ったのは、噓だったのですか?」

「噓ではございません。体力に個人差があることを、計算に入れていませんでした。特に、こころ様はスタミナが多くないようです。準備運動の前で、すでにお疲れのご様子ですし。今日の練習メニューを最後までこなせるかどうか、心配でございます」


 古都羽の見立て通り、二分と経たないうちに、こころの息は上がっていました。


「五分だけ休ませてほしいのです。まだ体育の授業がないので、春休み明けの体が追いついて来ないのです」

 

 こころが虚弱体質と決めつけるのは、時期尚早ですわよね。軽いキャッチボールなら、中学の体育と大差ないはずです。


 わたくしは、休憩が終わったこころの投げるボールを見つめました。


「テニスボールとは感触が違うのです。莉央、準備はいいのです?」

「問題ない」

「とりゃー! なのです!」


 ふわりと投げられたボールは、予想よりも高く飛び、莉央の背を越えていきました。莉央は石のように固まり、グラブでボールを掴むことを忘れているようです。叶愛さんとキャッチボールをしていた衣紗は、莉央に助言しました。


「莉央ちゃん、ぼうっとしてたら危ないっす。ボールが後ろに落ちそうだと思ったら、早く動いて捕ってくれないと。常に打球や味方の投げたボールの方向を見て、先回りするっす」

「……ボール、避けては駄目?」

「莉央、まさか守備の意味すら分かっていないのです?」


 莉央が女子野球部に入ろうと思ったきっかけを、無性に知りたくなりました。まさか、球技の向き合い方すら怪しい人が入ってくるなんて。


 叶愛さんは、野球が何の競技か莉央に説明したのですか。野球部のない学園に即戦力が集まる訳がないと思っていましたけど。


 あまりにもひどい現状に頭が痛みます。見たくなかった塁上を眺めるだけで、コーチの怒号が思い出されるというのに。


「体が温まってきたところで、内野の守備練に移りますよ。百聞は一見にしかずと言います。実際の雰囲気を掴んで、送球に慣れていきましょう!」


 お待ちなさいなっ! 準備運動が終わったからといって、練習にすぐ入るべきではありませんわ。せめて体力テストが先です!


 わたくしの声は届きません。叶愛さんはベースを指していました。


 ダイヤモンドの下側のうち、一番鋭いところがホームベース。ホームから見て斜め右の頂点が一塁ファーストベース、その斜め左が三塁サードベース二塁セカンドベースとホームに直線を引いた中央がマウンドと、言いながら解説していました。もちろん、野球のルールが一番分かっていない莉央に対してです。


 叶愛さんの指示する守備位置は、次の通りでした。


 ファースト香。

 セカンド莉央。

 ショート衣紗。

 サードこころ。

 キャッチャー叶愛。


 ショートは、セカンドとサードの間を守るポジションです。見るからに俊敏性の高そうな衣紗が、適任かもしれません。


 盗塁したランナーを刺すために、キャッチャーが香達にボールを送るというシチュエーションを作るようです。キャッチボールのときより投げる距離が遠くなっているだけで、難易度はイージーモードのまま。叶愛さんの脳内ではそのような計算だったのでしょう。しかし、キャッチボールで思わぬ誤算が起きたように、守備練習が平穏に終わることはなかったのです。開始して間もなく、叶愛さんの悲鳴が上がります。


「衣紗! 捕るなら捕ると言ってください! 莉央と交錯したら危ないですよ!」


 ショートが捕れなかったボールを、衣紗がフォローしようとしたところまではよかったのです。しかし、危うく頭が当たりそうになりました。


「ごめんなさいっす。あ、すみませんっした!」

「石に期待しないでほしい」

「やっと莉央さんがしゃべってくれたと思ったら、やる気がなさすぎではなくて? おおおお待ちなさいなっ! 叶愛さん、こちらのレベルにあった球を投げてくださいませ! あまりにも遠い距離まで投げられては、私が外野まで走らないといけなくなってしまいますわ」


 香さん、野球とはそういうスポーツですわ。しかし、極力動きたがらないあなたにとっては、大変な競技になるかもしれませんわね。授業で卓球をしたとき、隙あらば読書されていましたもの。ジャージの前ポケットが広いからって、文庫本を入れる方はあなたくらいですわよ。体育を怠けたい人はいるでしょうが、実際に本を読む人は稀だと思いますわ。


 香は駆け出しながら、心に火がついたようでした。


「頑張って捕りにいきますわよ!」

「香お姉様! お話ししながらでも足が早いのです! ひゃうう! ボール来ないでぇ!」


 叶愛さんは何を聞き誤ったのか、別の球を香に投げました。


 第二のボールが登場するなんて、ぐちゃぐちゃにも程がありますわ。叶愛さんの投球は手加減しているのでしょうが、よちよち歩きのひよこちゃん達には荷が重すぎます。


 活動報告のメモを取っていたわたくしは、思わず叫んでいました。


「まずはグラブにボールを当てることから始めなさいな! 今はまだ、捕球できなくて結構ですから!」

「いつにもまして熱いな。勝利のランナー」

「有喜良、その名で呼ばないでくださる? 忘れかけていたのですよ。わたくしの名前をもじった、忌まわしい呼び方を」


 有喜良の頬をつつくと、外野から戻ってきた香が膝をついていました。


「去年は、内部生の華と外部生首席の組み合わせに萌えましたのに。生徒会長の姉と妹に愛される溺愛ものが、現実になりそうですわね。眼福のあまり、全身の力が抜けますわ」


 一塁、盗塁アウトならぬ尊死アウト……って、香は守備についていたのですよね。負傷交代と表現した方がよろしいのかしら。


 女子野球部の記念すべき初日は、ぐだぐだで先が思いやられました。



《第1章 完》

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