第8話 浮気ですか。浮気ですのね
叶愛さんが部屋に帰ったのは、十八時過ぎでした。終礼の後に、神指先生から昼休みの聞き取り調査を受けたのだと推測できます。女子野球部の勧誘がうまくいかなかったにしては、今朝より気分が落ち込みすぎていませんもの。昼の嫌な体験を思い出したことで、生クリームの胸やけが復活したのでしょう。
課題をしていたわたくしはシャープペンシルを机に置き、叶愛さんに微笑みかけました。
「叶愛さん、お帰りなさい」
「ただいま戻りました。お姉様、お話してもよろしいですか?」
「もちろんよ」
わたくしは叶愛さんに椅子を勧め、自分の座っていた椅子を少し叶愛さんに近づけました。叶愛さんの話を聞き漏らすことのないように。
「本当なら昼休みのときにお礼を言うべきだったのですが、移動教室で頭がいっぱいになっていました。お姉様をほったらかしにして、ひどい妹ですよね……」
一旦区切った叶愛さんの目は、うるんでいました。
「お姉様に、雑な対応をされたと感じさせてしまったら。いいえ。たとえ優しいお姉様が特に感じなかったとしても、失礼な態度を取ってしまい、大変申し訳ありませんでした。お姉様が来てくださって、とても嬉しかったのに。その嬉しさが、お姉様に伝わっていないのは苦しいです」
「福光嬢とは面識がありましたの?」
しばらく小首をかしげた叶愛さんは、遅れて何度か頷きました。それも、肯定ではなく否定の意味で。
名前と顔がすぐに一致しない程度の仲で、のこのこと同行してしまうとは。叶愛さんは度の過ぎたお人好しですのね。わたくしなら何か理由をつけてお断りしますのに。学内であろうと、誘拐されないように言い聞かせておくべきでしたわ。
その後悔は、叶愛さんの説明を聞くうちに深まっていきました。
「いいえ。お会いしたのは今日が初めてです。二時間目の移動教室のときに、知らない上級生から呼び止められたんです。昼休みになったら、温室に一人で来なさいと。『姉の松陰寺さんを頼ったら、どれほど恐ろしい目に遭うか知らないわよ』とも言われました。質問はしたのですが、笑われるばかりで何も分からなくて」
とことん根性が歪んでいますのね。わたくしを脅しに使うなど百年早いですわ。ましてや叶愛さんをあざ笑うかのように沈黙を貫くとは。一週間の日直と掃除だけでは、制裁として甘すぎるのではないかしら。
部屋に一人きりでいたなら、わたくしの人相は悪くなってしまったかもしれません。叶愛さんの手前ゆえ、眉間にしわが寄らないように気を遣っているのですから。渇いた笑みを腹の奥にとどめます。
「叶愛さんはわたくしの身を案じてくださったのでしょう? あなたが謝る必要はありませんわ」
悪いのは、叶愛さんに嫌がらせをした不届き者ですもの。思い出すだけでも、はらわたが煮えくり返りますわ。
きっぱりと言い切ったわたくしは、叶愛さんの顔色が晴れないことに気づきます。わたくしの怒っている相手が叶愛さんだと、誤解させてしまったかしら。
「叶愛さん。これから話す言葉をしっかり聞いていてくださる?」
「はい」
叶愛さんをまっすぐ見つめ、素直な気持ちを口にしました。
「わたくしを想ってくれた妹が大好きよ」
思い返せば、叶愛さんに好意を直接伝えたのは初めてのことでした。くすぐったそうに頬を緩めている様子は、喜びを感じている証拠のように感じられます。念願の藍奈お姉様呼びも遠くないかしら。「私も藍奈お姉様のことをお慕いしています。大好きです」と、いつか聞かせてくださいませ。
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翌日の目覚めは、藍奈お姉様と呼ばれて起こされたいと期待しました。しかし、願望ははかなく散り、そう簡単に距離を縮めさせてくれない神様に文句を言いたくなったのでした。
「松蔭寺お姉様」
自分の教室に入ろうとしたわたくしを、こころが呼び止めました。後ろ手で持っていた水玉の紙袋は、誰かの誕生日なのかラッピングが施されています。
「昨日はありがとうございました。私は震えていて何もできませんでしたが、松蔭寺お姉様のおかげで叶愛を救えました」
こころは紙袋を私に差し出しました。
「寮のキッチンで作ったのです。お口に合うとよいのです」
開けていいかしらと訊いて中身を確認しました。クリアケースに並んでいたのは、マカロンの詰め合わせでした。いつまでも眺めたくなるフォルムは、手作りとは思えない出来映えです。
「火角さんはお菓子作りが得意なのですか? マカロンは作るのが難しいとうかがいましたが、こちらは店頭に並んでいるような一品ですわ」
「小さいころからの趣味なのです。左からフランボワーズ、ピスタチオ、キャラメル、ショコラの順番なのです」
一つ口に入れたら最後、箱は空になりました。こころの手作りがまた食べたいと言いたくなる満足感は、彼女にも伝わったでしょうか。
「喜んでくださって嬉しいのです。松蔭寺お姉様。また、ほう……」
「ほう?」
こころの頬は赤くなりました。
「忘れてくださると嬉しいのです!」
わたくしが返事をする前に、こころは走り去っていました。
「そう言われましても困りますわね。あのような可憐な顔を見てしまっては、忘れることなんてできませんわ」
溜息をついたわたくしに、非難を浴びせる人がいました。
「浮気ですか。浮気ですのね」
「香さん、ごきげんよう。開口一番、ひどい言いがかりですわよ。心外ですわ。わたくしは、叶愛さんのご学友に手出しをしません。わたくしは有喜良のように、キラキラ王子様スマイルでたぶらかしませんわ。それより、足音を消さないでくださいまし。心臓に悪いですわ」
「父の病院でよければ、いつでも紹介できますのよ。藍奈さんには特別対応で検査および入院していただけるよう、手はずを整えておきますわ。私の話についてきてくださる、数少ない方ですもの」
やや早口で話す傾向があること、一度に多くの情報を詰め込んでしまうことを、自覚しておられるのですね。今のところは香の話を聞いて苦痛に思うことはありませんから、安心なさってください。守備範囲の広い香の好みを、全て共感して差し上げるとはお約束できませんけれど。
隣のクラスの窓が開き、わたくしは騒がしくしてしまったのではと焦りました。しかし、向けられたのは尊敬のまなざしでした。
「聞きましたわよ、松蔭寺さん。福光様のお茶会でのご様子を」
「主計生徒会長との美しいやりとりも素敵でしたが、姉としての藍奈さんも違った魅力がありますのね」
香の布教が瞬く間に広まったのかと思いましたが、噂の出どころは違うようです。わたくしの脳裏に、真珠美お姉様が浮かびました。なるほど、これがお姉様の制裁ですのね。悪目立ちした食堂での演説を帳消しできれば、叶愛さんの支援者は増えるでしょう。姉としての監督責任を問われていたわたくしも、名誉を回復させる機会に恵まれました。
理想の姉妹として称えられることはありがたいですが、昨日の今日では手のひらを返された気分になります。複雑な思いを抱えながら教室に入ると、有喜良が楽しげに話しかけてきました。
「藍奈、ごきげんよう。肩の荷が下りたとでも言いたげだね」
「ごきげんよう。そうね。あなたに愚痴を聞いてもらったときよりは、楽になりましたわ」
「ふうん。部長としての覚悟ができたのかい?」
まだ寝ぼけていますのね。古都羽は主を起こすこともできないメイドのようです。職務怠慢も甚だしいですわ。
「わたくしが女子野球部の部長になんて、なるはずがありませんわ」
「どうして? 藍奈なら、仰木さんを引っ張ってあげられるだろう?」
「新しく作る部活なのですから、発案者の叶愛さんが部長となるのが当然ではなくって?」
わたくしは近くて遠い場所で応援したいだけですの。
その思いは、一日も持ちませんでした。
鞄に教科書を詰めていると、有喜良が叶愛さんを連れてきました。
「廊下で待っていたようだから、エスコートさせてもらったよ」
「ありがとうございました。有喜良お姉様」
有喜良お姉様ですって?
わたくしの聞き間違いかと思いきや、有喜良はこれ以上ないほど悦に入っていました。
お姉様というよりは、有喜良お兄様の方が呼ばれやすいですものね。特別待遇で古都羽と同室になっていることも、お姉様呼びの嬉しさを引き上げているようです。なお、特別待遇というのは、有喜良が無理に主張を通させたからではありません。中学で寮生活をするときも、有喜良に惚れる生徒の多さが懸念されたと聞きます。本人に口説くつもりがなくても、同じ部屋で見つめられれば恋と錯覚してしまうのです。そうした事情もあり、わたくしは、有喜良と喜びを共有することができませんでした。一番の事情は。
わたくしを藍奈お姉様と呼んでくれないのに、なぜ有喜良のことは名前で言うのですか!
「お嬢様の名を」
古都羽も彼女なりに複雑な思いを抱えていたようでした。血走った目で短く呟きました。
有喜良が二人分の熱視線に気づくのは、いくばくか時間を費やしました。わたくし達の心を乱した叶愛さんは、弾んだ声を上げました。
「女子野球部に、朗報です! 私以外の一年生の入部希望者が、三人も入ることになりました。昨日の宣伝で興味を持ってくれたみたいです。おかげで、昼休みに部の立ち上げが認められました」
「おめでとう。あなたの夢が叶いましたわね」
「ただ……新たな問題が一つ出てきたんです。女子野球部の立ち上げは、あくまでも仮。生徒会から正式に承認されるためには、いくつか条件があるんです。その一つが、試験運転期間に提出しなければいけない、第三者の公平な記録です」
叶愛さんはカメラを見せました。生徒会に押収された香の私物ではなさそうです。
「その。神指先生は、お姉様に女子野球部の記録を任せたいとのことでした。申し訳ないのですが、私も信頼できる方がお姉様しか思い浮かばず。お姉様の負担にならなければ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
おのれ神指
怒りが込み上げたのは一瞬でした。言いようもない悲しみがわたくしの心に吹き荒れます。
やはり藍奈お姉様と呼んでくださらないのですね。有喜良には下の名前で呼んでいたでしょうに。今度の中間試験で学年一位になったご褒美、という解釈でよろしいのかしら?
活動報告作成なんて、面倒なことこの上ありません。ですが、叶愛さん直々の頼みならば、この藍奈お姉様に任せなさい!
「藍奈。僕も見学に行ってもいいかな? 生徒会長の実妹がいれば、妨害工作に遭う心配はないと思うんだ」
「わたくしはただの記録員でしかないのですよ。叶愛さんにお聞きくださいな。まぁ、あなたが来てくれるのなら、心強いですわね」
使えるコネは、とことん使っておかなければいけませんもの。
「では、第三アリーナでお待ちしています。私は荷物を運ぶために、先に上がっていますね」
叶愛さんが去った後で、わたくしと有喜良は顔を見合わせます。
「第三アリーナなんてあったかな」
「本当に学園の施設なのでしょうか?」
第一アリーナは校舎の隣、第二アリーナは北側の坂の上にありました。校内図に第三アリーナという文字を見た気がしません。解説してくれたのは古都羽でした。
「れっきとした学園の施設です。野球大会の予選会場として、学外の方向けにも使われているのですよ。距離はおよそ徒歩十五分です。お嬢様も松蔭寺様も、体を動かすよい機会になるのではないでしょうか」
香と新入部員を仲間に加え、目的地付近まで歩きました。
寮の移動用リムジンで送らせてもらえばよかったと後悔したのは、それから四十分後のことです。
チェシャ猫を思わせる古都羽の微笑に、少しは警戒しておくべきでした。鍛錬を積んだメイドの脚力と、体育以外で運動しない人が同じであるはずがなかったのですから。
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