第5話 笑わせるよ

 さすがに野球の簡単なルールくらいは分かりますわ。攻撃側と守備側に分かれた二つのチームが、それぞれ九回の攻防を繰り広げる団体戦です。先攻は表、後攻は裏と呼ばれています。九回裏で決着がつかなければ、延長戦に突入するのでした。攻守交代のタイミングは守備側がアウトを三つ取るまでですから、相手の攻撃が長引けば長引くほど試合終了は遠のきます。時間制限がないスポーツゆえ、試合が四時間を超えることもありますわね。


 くっくと笑い声が聞こえ、わたくしは我に返りました。


「松陰寺さんの顔は饒舌だねぇ。見ていて飽きないよ」


 や。

 やらかしましたわっ! よりによって、神指先生に弱みを握られるようなことをしでかすなんて。またチェスをするときにからかわれて、わたくしの思考が妨害されるのでしょうね。


 長らく考え込んでいたことに気づき、羞恥心が立ち上がってきました。今すぐ職員室を出てしまいたいです。頭を抱えかけた手をすんでのところで抑えました。


 落ち着きなさい、松陰寺藍奈。神指先生と話す前に、頭の中の情報を整理してよかったではありませんか。あれ以上説明してしまったら、知識をひけらかすことになりますもの。神指先生への指摘は、最小限に留めておきましょう。


「先生。いくら野球の知識が浅い方だとしても、その認識はざっくりとしすぎだと思いますわ。九人ではなく十一人で行うスポーツだと、誤解されているかもしれませんけれど」

「サッカーのルールの方が分かりやすいからねぇ。インサイドやオフサイドが理解できなくても、ボールの行方を見ておきさえすればいい。野球はどのプレーでアウトになるのか、いつ走塁できるのか、初心者の頭を悩ませることが多すぎる」


 わたくしの頬は引きつりました。


 このチェス部顧問、野球の知識がそこそこありそうな物言いですわね。下手にあいづちを打って怪しまれないよう、適度にあしらわなければいけませんわ。


「野球部創設に反対している人の共通点は、部の雰囲気が聖ヒルデガルドに似合わないと主張していることだねぇ。反対している理由は『野球部は全員丸刈りにするべし』という古い習慣が影響しているのかい? それとも、プロ野球ファンのいきすぎた行動かなぁ。確かに、投げたボールがバッターに当ててしまったピッチャーを大声で糾弾したりSNSで誹謗中傷したりするような人も、中には存在するよねぇ。走塁のときにこけて骨折しろとか、交通事故に遭ってしまえとか」

「そうですわね。わたくし達が女子野球部に反対する理由は、神指先生がおっしゃった二つともだと思います」


 わたくしは短く答えました。


 女子は丸刈りを強制されなくていいよなと陰口を叩かれたことは、今でも鮮明に思い出せます。加えてプレーに関係のない悪口を言うのは、人でなしだと思いますわ。品がありません。


 野球部内での暴力沙汰を筆頭に、野蛮な風潮は校風の乱れに繋がりますもの。叶愛さんがほかのスポーツを選んでいたら、すぐに仲間が加わっていたはずです。


 かわいそうな方ですわ。根づいた悪いイメージを払拭するには、時間も労力もかかります。一人で不慣れな戦場に飛び込むのですから、不特定多数の強い反発に心を病みかねません。


 今朝の朝食では明るく振る舞っていた叶愛さんでしたが、いつ転退学するか時間の問題です。叶愛さんの未来のためにも、無謀な夢はあきらめてもらわなければ困ります。


 神指先生は肩をすくめました。


「と言っても、誹謗中傷をするファンはごく少数だけどねぇ。敵だろうが味方だろうが、怪我の手当をする選手にエールを送るファンは大半を占めている。相手チームがいなければ、試合が成り立たないものねぇ。倒せだの、あと一人なんて声援を送るより、悲しい思いをする人が少ない言葉が送られることを願いたいなぁ」

「同感ですわ。ですが、聖ヒルデガルド学園に女子野球部ができるのは、話が別です! 野球部を作るメリットがありませんもの!」


 ようやく野球から離れられたと思いました。一年ちょっとで地雷からやってくるなんて、あんまりですわ。わたくしが忘れようと努力した傷を、叶愛さんは笑顔で痛めつけているのですよ。ひどい妹と罵声を浴びせたい気持ちを、ずっと喉元でせき止めているというのに。我慢しているわたくしを、褒めてほしいくらいです。


 野球部に反対する理由を話す勇気がないわたくしも、神指先生の目には手のつけられない嵐として映っているのでしょうね。


「きみら在校生は、野球を持ち込んだだけでこの学園が乱れると思っているのかい?」


 少なくとも、わたくしの心の平穏は乱れます。そのように答える前に、神指先生の狐のような目がさらに細まりました。


「笑わせるよ。いつだって聖ヒルデガルド学園は、異なる文化を取り込むことで発展してきたんだ。そう簡単に三百五十年の基盤は崩れない」


 なぜ自信を持って言いきれるのですか。眉をひそめるわたくしに、神指先生は微笑みました。


「かつてコロンブスは新大陸を発見し、スペイン人による植民地化が進むこととなった。新大陸へ下り立ったのは侵略者と、元住人らにとって未知のウイルスである天然痘だった。輝かしい彼の功績の裏には、負の歴史もある。しかしながら、それはそれ。これはこれだ。新たな一歩が毒になるのなら、薬になるものを与えればいい。聖ヒルデガルドに吹く変革の風を、温かく見守っていこうじゃないか。何も難しいことはない。折られる花があれば、動けばいい話だ。そのために教師やお姉様がいる。どうか仰木さんの気が済むまで、手出ししないでやってくれ」


 淡々と話す神指先生の声色は、話を早く切りあげたいときの兆候です。そろそろ空腹に耐えきれなくなったのでしょう。何だかんだ言って、無気力な先生も叶愛さんのことを大切に思っているのですね。ならば、姉としてわたくしができることは。


「分かりましたわ」


 わたくしは断腸の思いで頷きました。


 野球は嫌いです。男子よりも遅い球速も。セーフになるはずのプレーが、女子の脚力ではアウトになることも。そして一番許せないのは、埋められない体格の違いを男子に比べられることでした。


 あのような悔しい思いをする生徒を、増やすべきではないと分かっています。それでも見てみたいと思ってしまったのです。かつて、わたくしが夢見た理想の環境を。男子に混じっても楽しく野球ができるチームが、叶愛さんなら作れるかもしれないと感じさせられたのでした。図らずも手に取ってしまった一枚のビラに。


「わたくしの都合は脇に置いて、叶愛さんのやりたいことを見守るしかありませんわね! それが姉としての務めなのでしょう」

「その意気だよ。元……」


 神指先生が言いかけた言葉は、勢いよく開いたドアの音にかき消されました。


 ノックもなしに開けるなんて、無礼にも程があります。おまけに激しい音を立てて、淑女としての教育がなっていませんわね。高校から入学された方といえども、受験を決めた日から最低限のマナーを完璧にしていただかなければ困りますわよ。


 制服のリボンに目を向けると、叶愛さんと同じ色でした。緩やかにたなびくハーフアップは、生まれながらの気品の高さを示しているかのようです。ノックをしなかったことは、よほどの緊急事態なのでしょう。


「神指先生はおられるのです? 一年二組の火角ひずみこころと申します。仰木さんが職員室に伺っていると聞いたのですが、こちらにいますか?」


 火角こころと言えば、文具の大手企業であるヒカドの社長令嬢です。今年の入学者名簿を見たときに、よい繋がりを持ちたいと感じた一人でした。


 彼女も野球部反対を唱える生徒でしょうか。神指先生は記録が伸びたことで、うんざりとした表情になりました。


「火角さん、ごきげんよう。あいにく仰木さんは来ていないよ」

「そんなはずはないのです。神指先生からの呼び出しがあったと言ってから、もう十分も経ったのです」


 火角さんは心配性ですわね。たかが十分ではありませんか。確かに、職員室に最も近い教室は一年二組でしたが。


 叶愛さんと一度も遭遇していないことに、胸騒ぎがしました。去年わたくしが真珠美お姉様の妹になったときも、上級生から呼び出しを受けました。お姉様が駆けつけてくださったのでトラウマになりませんでしたが、叶愛さんの無事が気がかりです。


「嘘の呼び出し? 上級生からだったのでしょうか?」

「松陰寺さん、やり方が古すぎやしないかい? 屋上、中庭、人気のない教室あたりは定番かもしれないが」


 古典的な嫌がらせですわね。ですが、聖ヒルデガルド流の嫌がらせは、そのようなものではありません。わたくしは一年生のころから身に染みています。


「叶愛さんに対する、クラスのご様子はどうですの? 距離を取っている方は多いのですか?」


 わたくしの質問に、こころは首を振りました。


「そんなことないのです。だって、仰木さんは……叶愛は、聖ヒルデガルド学園創立以来の大革命を成し遂げようとしているのです」


 過大評価ですわ。叶愛さんにいくつフィルターをかけているのですか。姉としては心酔するほど愛されて嬉しい限りですけれど。

 

「おそらく温室でしょう。神指先生、参りますわよ」

「まだ演習問題の印刷が終わっていない。なにより自分は空腹だ。先に栄養補給させてくれ。帰ってきたときに休み時間が残り五分だった場合、弁当を食べきれないからねぇ」

「五分もあるのでしょう?」

「元運動部の胃袋はこれだから困るなぁ! そんな短い時間では、食べきれやしないよ。二人は先に行きなさい。自分は後で合流する」


 普通に五分で食べきれますのに。白米三合くらい。


 腑に落ちないわたくしは、こころとともに温室へ向かいました。


「たいしたことないのですね。仰木叶愛さんの意思は。元気な小鳥にしては、音を上げるのが早すぎませんこと? もう少し楽しませてくれると思ったのですが、これでは興冷めしてしまいますわ」


 中から聞こえてきた声に、こころの足が止まりました。悪意のこもった言葉ばかりで、怖気づいたのでしょう。


「温室で何が起きているのです?」


 震える手をさする様子は、既視感があります。去年のわたくしも、こころのように俯いていました。同じ声の主に目をつけられ、どのようにすれば追われなくなるのか悩まされたからです。

 一つの道しか残されていなかったわたくしと違い、こころは選ぶことができます。上級生に従う道を、強制したくありません。


「火角さん。その目で確かめる覚悟はできていますか? 外で待っていただいてもよいのですよ?」

「叶愛が怖い思いをしているかもしれないのに、私だけ安全なところで待っているのは嫌なのです」


 行きますと声を絞りながら、顔を上げる様子に、目頭が熱くなります。叶愛さんは、よい学友に恵まれたのですね。わたくしは意気に心打たれ、先に入りました。

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