第4話 目を閉じてくださいませ

「『経験者も初心者も大歓迎! 女子野球部で汗を流しましょう!』ですか。よくある宣伝文句ですわね。部員が香さんしかいませんから、練習日や休日についての情報は、今のところ未確定といったところでしょうか。どの部活に入ろうか悩んでいる方にとっては、一番書いてほしい情報だと思いますけど」


 わたくしは靴の跡がついたビラを拾い上げます。手書きでしたためられた紹介文には、生徒会の印が押されていました。責任者の名前は、真珠美お姉様になっています。配布の許可が下りた時刻は、退校時間の二十分前でした。


 昨日、わたくしと本屋で会った後に、急いで作ったのでしょうね。それを踏みにじるだなんて、血も涙もありませんの。恥を知りなさい。


 大空をバックに描かれたのは、腕を大きく振るピッチャーのイラストでした。全力で一球を投じる真剣な瞬間だからこそ、カメラ映えする表情は中々できない場面です。しかし、彼女の鋭くも美しい目に、目をそらさずにはいられませんでした。


 わたくしはビラをそっと胸ポケットにしまい、叶愛さんに歩み寄ります。


「叶愛さん、目を閉じてくださいませ。まつげが落ちていますわ」


 ハンカチで目元を拭うと、叶愛さんの口は申し訳なさそうにゆがみました。


「お姉様、ハンカチを貸してください。洗ってお返しいたします」

「まつげを取っただけですわ。ハンカチがいつ汚れるというのかしら。ファンデーションは校則違反ですわよ?」


 気遣ったつもりだったのですが、叶愛さんの余計に涙ぐむ瞳を見て焦ります。何としても話題をそらさなくては。


「こんなところで話していては遅刻しますわ。朝食にいたしますわよ。大勢の生徒の前で堂々と話したのですから、昨日よりもお腹が空いているのではなくて? これからのあなたの行動が肝心なのですから、しっかり食べなくてはいけませんわよ」

「堂々となんて話せていません。ピヨ蔵がいないと足の震えが止まらないんです。私ったら小さな子どもみたいですよね。今だって、お姉様がそばに来てくださらなければ、私は……」


 わたくしは叶愛さんの背を撫でました。しゅっと鼻をすする音が、かすかに耳を捉えます。


 あなたの不安は、全てわたくしが受け止めますわ。野球を好意的に感じたつもりは微塵もありませんが、叶愛さんが悲しむ姿は見たくないのです。矛盾していることは分かっていますけれど。妹の可愛らしさは判断力を乱すようですわね。咳払いをして、姉としての威厳を取り戻しましょう。


「叶愛さん。先ほどの演説では、最後まで自分の言いたいことを話せましたか?」

「はい。一応は。でも、途中から皆様の目が怖くなって、消えてしまいたくなりました」


 当たり前です。高校からの編入生が伝統を変えることを、好ましく思う内部生は少なくありません。それも、仰木家なんて知名度の低い人間から。行動に移すのが時期尚早なのですわ。


 わたくしは小言ではなく賞賛を口にしました。


「それなら胸を張りなさい。あなたの話に感動した人も、今の気弱な姿を見たくないと思いますわ」

「感動してくださった方はいたでしょうか?」

「もちろんですわ。少なくとも、わたくしの心には響きました。あなたのような勇気のある妹ができて、誇らしくなりましたもの」


 お姉様と呼んでわたくしの胸に飛び込んでくる叶愛さんは、妹というより感情豊かなポメラニアンを彷彿とさせました。


 わたくしの横で、香が両手を合わせます。叶愛さんはキスこそしませんでしたが、わたくしに頬をすり寄せるハグをして食堂へ駆けていったのです。妹とハグをしたのが初めてだったからでしょう。わたくしは頬が熱くなりました。親愛を示すスキンシップは、これほどまでに息が止まりかけるものだったなんて、古今東西の書物には記述されていませんでした。


「ごちそうさまでした」


 呆然としていたわたくしの体が、香の声に反応します。ビラが減っていなくても、香は落ち込んでいないようでした。それどころか上機嫌でいるのです。


「香さん。あなた、まだ何も召し上がっていませんわよね?」


 訝しげに尋ねたわたくしに、香はうっとりと両目を閉じていました。


「涙ぐむヒロインが優しく抱かれる時代は、もう古かったのですわ。ヒロイン自ら抱きしめにいく光景は、テンプレートに慣れきった私には眩しすぎます。尊さに身を焦がすあまり、塵と化してしまうところでした。このようなときめきは、一食分の栄養と同じですわ。藍奈さんがいるからこそ、自然に表れた素顔に違いありませんわね。ですから、藍奈さん。女子野球部の入部届に、さっさとサインなさったらいかが?」


 目の前に差し出されたのは、入部届を挟んだバインダーとペンでした。


 用意周到さはよいことです。けれども、誰が頷くものですか。わたくしはきっぱりと言いました。


「それとこれとは話は別ですわよ。野球部は練習時間や対外試合が多いクラブでしょう? わたくしはチェス部と掛け持ちするつもりはありませんわ。週に一度の活動以外は、寮で勉強しておりますの。わたくしは有喜良と違い、六時間の自主学習がなければ好成績を保つことができませんから」

「藍奈さんったら、絵に書いたような委員長タイプなのですね。息抜きも大切ですわよ? 可愛い子を見るだけで、一日の疲れがゼロになります」

「そのようなリフレッシュの方法が効くのは、香さんだけではございませんの? わたくし達も早く行きますわよ」


 香との話を切り上げて食堂に入ると、モーセのように道が拓かれていきます。


 叶愛さんは――そして叶愛さんに関わるわたくし達は、学園で浮いた存在になってしまったようでした。



 ⚾️⚾︎⚾︎



 厄介な妹を任されたものね。心中お察ししますわ。そのような言葉がひっきりなしに耳に入ってくる半日になりました。


 紅茶部や手芸部のように静かな時間を送りたいクラブにとって、窓ガラスを割りかねない女子野球部の新設は阻止したいはずです。わたくしも、金属バットの甲高い音を聞きながらチェスをする気にはなれません。女子野球部の活動場所が学内でなければ、許容できそう方は増えそうですけれど。敵に塩を送る真似はしないつもりです。甘やかしてばかりでは、成長の見込みがありませんもの。


 昼休みになった瞬間、ボブと丸メガネが特徴的な顧問を取っ捕まえに行きました。叶愛さんの行動を、学園がどの程度許容しているかどうかの確認です。


 気が急くあまり職員室のドアを叩き割らないように、細心の注意を払いました。


「失礼いたします。二年四組の松蔭寺藍奈です。神指先生に用事があるのですけれど、いらっしゃいますか?」

「留守にしているよ。昼休みが終わるまで戻らないんじゃあないかな」


 はいそうですかと、出直すことはいたしませんでした。いないと返事をした人こそが、わたくしのチェス部顧問だったのですから。


「神指先生。戻られておいでではありませんか。居留守を使わないでくださいませ。先生が担任をしておられる、仰木叶愛さんに関わる用件なのですよ」

「分かっていないねぇ、松蔭寺さんは。女子野球部の苦情はこれで十八件目。休憩時間の度に呼び出され、辟易としているところなんだ。次の授業準備があるから、話すなら手短に頼むよぉ。はぁ。なぜ揃いも揃って担任のもとへ直行するんだい? 確かに、今の自分はチェス部兼女子野球部顧問(仮)だが、どこから情報が漏れたのかなぁ」


 ほかに新しい部活の顧問をできそうな方が、いないからでしょうに。消去法ですわ、消去法。


 手招きする神指先生の背中を追い、わたくしは職員室に入りました。


 手短にと言われたからには、世間話は省略いたします。わたくしは単刀直入に訊きました。


「野球部創設の件ですが、校長の許可はありますの?」

「もちろんだとも。昨日、仰木さんを校長に会わせている。生徒の自主性を重んじるということで、校長は創設について容認されたよぉ。もともと新しいものがお好きな方だしねぇ。一応言っておくが、生徒会にも仰木さんの活動を制限する権限はない。ただ、全校生徒の評判が悪ければ、何らかの行動を起こすだろうなぁ」


 叶愛さんにあきらめさせるのが先か、生徒会の介入より前に自然消滅するのか。女子野球部ができてほしくないと思っているのに、胸がちくりと痛むのはなぜでしょうか。


「松蔭寺さん。ずっと気になっていたのだけど、どうして自分を睨んでいるんだい?」


 神指先生が見せた手鏡には、恐い目をしたわたくしがいました。眉間にしわを寄せているつもりはなかったのですが、嫌悪感は無意識に出ていたようですね。あいまいな返事をしたばかりに、神指先生のからかいの種になるのだけは避けたいですわ。いたしかたないですが、本音を少しだけお話ししましょう。


「その間伸びした語尾が気に入らないのです。神指先生が聖ヒルデガルドの卒業生だなんて、未だに信じられません」

「こればかりはどうしようもないなぁ。大学のご友人方に影響されてねぇ。慣れ親しんだお嬢様言葉が、すっかり使えなくなってしまった。この学園に在籍していたころは、松蔭寺さんみたいに長い髪を二つに結ったり、口元を隠しながら笑ったりしていたんだよぉ。今や信じてくれないだろうけどねぇ。どうか見過ごしてくれないかい?」


 それだけの理由で許せるはずありませんわ。至近距離で話しながら息を止めたくなる気持ちを、理解してもらえないのですから。


「残念ながら、ご愛用されている煙草の臭いも好きではありません。せめて花のような芳しい香りの銘柄はないのでしょうか? 臭いがわたくしの服に染みつきそうですわ。まさかとは思いますが、学園内で吸っていませんわよね?」

「今は禁煙中さ。口寂しいのをアメでごまかしているんだよねぇ。松蔭寺さんは、ハッカは好きかい?」


 胸ポケットに手を伸ばそうとした神指先生を、手で制止しました。


「結構ですわ。わたくしがいただいてしまっては、神指先生の禁煙に支障が出てしまいますもの」

「そこは、好意を受け取ってくれないかい? アメを食べてリフレッシュしようよぉ。自分を訪ねてくる人に勧めても、誰一人受け取ってくれなかったのだよねぇ。担任としての監督責任を唱えられ、まさに嵐の襲来だった。野球について理解した上で押しかけているのか、怪しいものだねぇ。投手はボールを投げる人、打者はボールを打つ人くらいにしか認識していないだろう。そんな状態で頭ごなしに反対されても、自分は納得できないねぇ。誰に何と言われようと、仰木さんの味方をするよ」


 神指先生のメガネが強い光を帯びました。まるで、わたくしも同類だとおっしゃりたいかのようです。

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