第3話 姉としてふさわしいのは

 叶愛さんは、わたくしの注意がいまだに聞こえていないようでした。女子野球部のことしか見えていないのでしょう。


 一度決めたものは、とことんまっすぐ。叶愛さんの全力で向き合うところは嫌いではないのですけど。ほんの少しの間だけ、動きを止めてもらえないかしら。いいえ、ここは叶愛さんに気づかせるために無言でいるべき?


「お姉様のご助言のおかげで、部活設立の手続きがかなり進みました。担任の神指こうざし先生が野球部の顧問を兼任してくれた上に、空き部屋を教えてもらったんです。後は部員五人の条件を達成するだけ。私の夢がまた一つ近づきました」


 校則を確認しろとは言いましたが、そこまで感謝される筋合いはありませんわ。わたくしは、女子野球部創設をあきらめてほしいと願っているのですよ。そのような相手に笑顔を向けるのは間違っていますわ。


 それにしても、わたくしのチェス部顧問、自分のクラスの生徒に甘すぎやしませんこと? 去年、わたくしが数学の質問に伺えば、教科書参照としか言わなかったくせに。格式高い学園に女子野球部を作りたいと相談されたら、教師として怒るところでしょうが。学園外に出てまで喫煙するヘビースモーカーの考えることは、よく分かりませんわ。


 二重の意味で溜息がこぼれます。


「叶愛さん、いい加減になさい。あなたの声は、ここでは大きすぎます。ここは本屋です。静かに本を探す人の迷惑になっているのだと、自覚しなさいませ。早く外に出て、頭を冷やすべきですわ」


 わたくしは低い声で叶愛さんに囁きます。ほかのお客様の邪魔にならないよう、厳かにたしなめたつもりでした。叶愛さんの唇が、小さな逆三角形を作ります。


「すみません。お姉様と校外で会えたのが嬉しくて、つい……」


 予想外の言葉に、怒りがとろけかけます。姉として正しい方へ導かなければならないというのに、甘やかしたくなります。これが妹の恐ろしさなのですね。


「心は熱く、頭は冷静であれ。キャッチャーは冷静に判断しなければいけないのに、私はまだまだ未熟ですね。視野が狭くなっていました。申し訳ありません、お姉様」


 叶愛さんはわたくしの自由を奪っていた手を離し、深く頭を下げました。ぴょこんと跳ねていた叶愛さんの毛先まで、垂れ下がっているように見えます。


 素直なところは嬉しいですが、これはこれで問題のある光景になっている気がします。傍から見れば、後輩をいじめている図と見なされるのではないかしら。子どもが親に言いつけてしまったら大変です。わたくしは咳払いをしました。


「わたくしは目当ての本がありますの。叶愛さんも本探しに戻ったらどうかしら。あちらの棚に対人関係についての本がありましたわ。部員集めの参考になるのでは?」

「はい! ありがとうございます。お姉様」


 落ち込んだり笑顔になったり、感情の起伏が大きい方ですね。こちらの調子が狂ってしまいます。


 気を取り直したわたくしは、推理小説の棚へ歩き出しました。


 殺人事件なんて物騒なと眉をひそめるお姉様方もおられますが、わたくしからすれば真横の恋愛小説こそ読むのがはばかられます。相手役のイケメンが有喜良の顔に変わってしまうのですから、ときめくことができないのです。顔面偏差値よし、全国模試一位、高身長、クールビューティーな付き人もいるだなんて、有喜良は属性を欲張りすぎていると思います。せめて学年首席だけでも、わたくしに譲ってくれたらよいものを。


 小花や淡い光の装丁が埋め尽くす領域で、どす黒い空気をまとう人がいました。着ているものはわたくしと同じ制服です。緋色のリボンは、二年生が身につけるものでした。洋装よりも十二単が似合うロングヘアは、既視感があります。


「あらあらあらあら。表紙とストーリーは申し分ありませんのに。ヒロインちゃんのキス顔が全然可愛くないのは、どういう了見なのでしょう。下唇の厚みさえ完璧ならば、布教用と併せて在庫分も買わせていただいたのですよ。神絵師を名乗るのなら、撫で回したくなる輪郭を描きやがれ。研鑽積めや、この底辺が」


 最初は上機嫌に見えたからこそ、後半の低い声には肝が冷えました。元クラスメイトの暴言を、誰が好き好んで聞きたいものでしょうか。物腰の柔らかい方と思っていたのですから、見てはいけないものと遭遇してしまった気がします。


「ごきげんよう。長手ながてさん。素敵な本と巡り会えたのかしら」


 舌打ちをする寸前の彼女に、わたくしはようやく香に気づいたという体を演じました。


 香は本を戻し、うふふふふと頬に手を当てます。先程の態度と違いすぎて、怖いですわ。


「ごきげんよう、藍奈さん。残念ながら、収穫はありませんでしたわ。見目麗しい妹ができてしまうと、求める理想がどうしても高くなっていくのでしょうね」


 まるで香のお姉様が、そこまで綺麗ではなかったというような言い方ですわよ。誤解される言い方はおよしなさいな。


 注意しようとしましたが、香はわたくしの入る合間をくれませんでした。有喜良に話を聞いてもらった、朝のわたくしのように。


「いくら表紙に惹かれても、挿絵の質が落ちては購買意欲を落としてしまいます。低レベルの挿絵をつけるくらいなら、読者の想像の翼を信じてもらいたいですわ。私の話はこれぐらいにして……藍奈さんったら、まだ私のことを香と呼んでくれないのですか? これからは会う機会が増えるでしょうから、距離が遠いのは嫌だわ」


 長手病院と長い付き合いになるほど、大病を患う予定はありませんわ。松蔭寺家のかかりつけ医は、すでにいますもの。本音を言えば距離を置きたい人なのですが、主治医を引き抜かれては困りますし、素直に要求を呑むことにいたしましょう。


「では香さん。会う機会が増えるということは、今年こそ委員会に入るのですか? 去年は静観されていましたけれど、学園に奉仕する意欲が芽生えましたのね」

「いいえ。本日の放課後に、藍奈さんのルームメイトからお誘いを受けましたの。ゆっくり考えておくと答えましたが、もう結論は出ましたわ。女子野球部に入ることにします。野球なら、密着することが少ないスポーツですもの。私の顔が少しばかり見るに堪えないものになったとしても、問題ないでしょう。内野で守備をしていたらランナーに顔を見られますから、叶愛さんに外野手希望と言っておかなくては」


 要するに、二次元のヒロインで満足できないから三次元の可愛い子を見守りたくなったというのですね。


 そのうち聖ヒルデガルド学園付属幼稚園で誘拐犯として捕まらないか、心配になります。同級生としてインタビューに応じたわたくしは「あんな物静かな人が、こんなことをするはずないですわ」と泣き崩れるはず……いいえ、香ならやりかねません。叶愛さんと、野球部創設に必要な残り三人の貞操が心配ですわ。わたくしが香を見張っておかなければ。


 それにしても、香が叶愛さんのことを下の名前で言うだなんて。


 気に入りませんわ。一度はルームメイトとおっしゃったではありませんか。同じ部活の先輩になるからって、すぐにお姉さんぶるのはやめていただけないかしら。


 叶愛さんも叶愛さんです。どうして香を勧誘する前に、わたくしを説き伏せなかったのです。時間の無駄と思われたのなら、悲しいですわ。とはいえ、誘われても丁重にお断りしたでしょうが。



 ⚾️⚾︎⚾︎



 翌朝、わたくしが起きると部屋に叶愛さんの姿がありませんでした。


 香ったら、もう手を出したのですか。


 わたくしは制服に袖を通し、髪をとく時間もそこそこに廊下を飛び出しました。


 香の部屋に行くと、彼女のルームメイトが眠い目をこすりながら開けてくれました。右目を覆う前髪を、払ってあげたい衝動に駆られます。しかし、陶器人形のような肌は壊れてしまいそうで、触れることをためらってしまうのでした。


「香お姉様なら、今日は早く起きるとおっしゃっていました。部活がどうとかで」

「分かりました。朝早くに押しかけてしまって、ごめんなさいね。ですが、もう支度をして朝食を取る時間ですわ。寝直してはいけませんわよ」


 人の妹の世話を焼きすぎてはいけないと思いつつも、自然と言葉が出てしまいました。


 それにひきかえ叶愛さんときたら。早く登校するのなら、事前に教えておきなさい。かどわかされたと本気で心配するでしょう。


 食堂へ行くと、いつもより入口に人盛りができていました。ビュッフェの準備はできていると思うのですが、まだ扉が空いていません。


 近くにいた有喜良を見つけ、入れない理由を聞きました。


「トラブルでもあったのですか?」

「仰木さんは藍奈に言っていなかったんだな。香にビラを持たせているところを見ると、これから部員集めの宣伝をするらしい。校内放送や全校集会より、集中して聞いてくれる人は多いだろう」

「なっ?」


 なんて卑怯な手でしょうか。判断力が低下した空腹時を狙うなんて。聖ヒルデガルド学園の生徒達は、「朝三暮四」の猿と違うのですよ。


 踏み台に乗った叶愛さんの両手は、薄汚れた鳥を包み込んでいました。彼女の私物のぬいぐるみです。真ん丸なフォルムを撫でながら、叶愛さんは強ばった唇を動かしました。


「皆様、初めまして。一年生の仰木叶愛と申します。私はこの学園に、新しい部活を作ろうと考えています。その名も女子野球部! 野球と言えば男子のイメージを抱く方は多いでしょう。女子が男子と同じ舞台に立つのは、吹奏楽やチアガール以外だと難しいと、お思いではないでしょうか。そのような認識を私は変えたいと思い、聖ヒルデガルド学園を進学先に選びました。少しでも女子野球部に興味を持たれた方は、ビラを受け取ってください!」


 叶愛さんが言い終わると同時に、食堂の扉が開かれました。香の配るビラは、一瞥されることがありません。無関心ではなく、静かな怒りです。学園に不要という意思が示されていました。香とすれ違いざまに肩をぶつける生徒もいます。


「おや、また振られてしまったね。人のビラを床に落とすとは、気性の荒いレディーもいるものだね。仰木さんが傷つかなければよいのだけど」


 有喜良の言葉に、わたくしは拳を握りしめます。


 台から降りた叶愛は、ぬいぐるみの頬を摘んでいました。ひよこにしては太りすぎた顔は、泣き笑いのように見えます。


「空振り三振しても、振り逃げで一塁まで走ることはできますわ! 望みがないなら、可能性を作ればよいだけです。紙が床に散乱したままでは、学園の景観を損ねますの。わたくし、お暇させていただきますわ」


 ぬいぐるみの騎士は頼りなさすぎますわ。わたくしは踏みつけられるビラを拾うべく、妹に駆け寄りました。


 ですから、有喜良と古都羽の囁きは、わたくしの耳に全然入ってこなかったのです。


「藍奈ったら、素直になればいいだろうに」

「松蔭寺様自ら、部員第三号になりたいとおっしゃるとお思いで?」

「あの負けず嫌いが言う訳がないな」

「分かりきったことをおっしゃらないでください。私達は席を多く取らなければいけないのですから、時間の無駄になることはやめていただきたい」


 二人きりなのに、過分な席が必要だろうか。有喜良が首を傾げていると、お嬢様方とピヨ蔵様の分ですよと笑顔が返ったのでした。

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