第2話 この学園に必要あるとお思い? 

 おかしいですわ。叶愛さんから、一向に藍奈お姉様と呼んでもらえないのですが!


 ただのお姉様呼びから、進歩する兆しがありません!


 世が平安時代ならば、床を三日間ともにすれば結婚できていたのですよね。叶愛さんと同じ部屋になって、もう五日も経つのですけれど、何の進展も起きません。一昨日の入学式も、昨日の学力テストも、お姉様として色々と教えて差し上げましたのに。好感度を上げるために優しくしたつもりはありませんが、一度くらい藍奈お姉様と呼んでちょうだいな!


 妹と仲よくなる秘訣を真珠美お姉様に伺おうか、何度も悩みました。しかし、これはわたくしと叶愛さんの問題です。しばらくの間は粘るべきですわよね。


 知らず知らずのうちにできた壁。


 叶愛さんの好きなものを愛してあげられないことが、伝わっているのでしょうか。でしたら、わたくしは野球を好きにならないといけませんわね。天地がひっくり返っても、まっぴらごめんですけど!


 わたくしが悶々としながら身支度を整えていると、隣の布団がもぞもぞと動きました。そろそろ起こそうと思っていたところでしたので、ちょうどよい頃合いです。


「叶愛さん、起きてくださいませ」


 そっと布団をめくると、叶愛さんは部屋の明るさに目をこすりました。寒さが残る春の朝、布団から出るのは心の準備が必要なようです。体を起こしながらも布団は剥がれませんでした。


「にゅーん」


 可愛らしいあくびですこと。


 わたくしが笑いを堪えていると、叶愛さんは布団から出て伸びをしました。胸元に白薔薇の刺繡が施されたラベンダー色のワンピースは、太ももまでめくれます。女の子同士とはいえ、いささか無防備すぎやしませんか。


 いいえ、この部屋に安心しきっているという点では、姉妹の距離感として適切なのでしょう。柔らかな弾力に吸い込まれるように、太ももの手触りを確かめたくなります。

 断っておきますが、赤ちゃんのぷにぷにな頬を触りたくなる感情と同じです。害意は欠片もありませんわ。


「ごきげんよう、叶愛さん。よく眠れまして?」


 叶愛さんは目を伏せました。あどけない笑顔が見られると思ったのですけれど。枕が合わなかったのかしら。でしたら、すぐに別のものと取り替えましょう。お世話になった真珠美お姉様のように、落ち着ける空間を作ってあげたいものです。


「まだ緊張が抜けなくて。全然眠れませんでした。せっかくお姉様が、寝る前にミルクを注いでくださったのに。お手間を取らせてしまって、申し訳ありません」

「気にしないでくださいませ。ホットミルクなんて、いつでも作って差し上げますわ。本日はクラブ紹介がありますわね。どのクラブに入るか決めていらして? 特に決めていないのであれば、テニス部やチェス部はいかがかしら?」


 テニス部は何度も全国大会優勝を成し遂げていますし、学園一の部員数を誇っています。真珠美お姉様が選挙で勝利した要因は、テニス部のサポートあってのことでした。叶愛さんがテニス部に入部すれば、人脈を広げるよい機会になるでしょう。


 チェス部に入っていただけたなら、わたくし自ら指南してあげられます。どの一年生よりも、強く育ててみせますわ。寮に帰っても、つきっきりの個人レッスンをしますとも。特に深い意味はありません。聖母マリア様に誓って!


 いずれにしても損をしない提案に、叶愛さんは首を振ります。半乾きになっていたのか、後ろ髪が大きくうなっていました。ドライヤーで乾かしてあげようと申し出たのですが、昨夜は学力テストにお疲れのご様子ですぐに寝てしまっていたのですよね。起こさずじまいで放置したことが仇となったようです。せめてもの償いとして、後で寝癖を直す手伝いをしなくては。


「いえ。私が入りたい部活はこの学園にないんです」


 悲しげに話すところでしょうに、叶愛さんの瞳は炎のように燃えていました。入寮時に持ってきていたピヨ蔵のぬいぐるみを抱きしめます。


「だから作るんです。女子野球部を!」


 優雅な朝に似つかわしくない叫び声が響きます。近隣の部屋から苦情が来ないか、肝を冷やしました。それでも、わたくしは微笑みを浮かべる余裕がありました。


 新しいクラブの設立は校則を確認なさってねと助言をして、叶愛さんの身なりを整えてあげました。セーラー服のリボンのひだも、左右対称になるように気を配りました。二人きりのときは、優しいお姉様のイメージを崩したくなかったのです。


 しかし、二年生の教室に着いたとき、わたくしの我慢の糸が切れてしまいました。


 足を組むハイウエストのスラックスが、横髪を耳にかけたことが発端です。


 少年と間違われやすい彼女は、去年に引き続いて同じクラスの主計有喜良あきら。有喜良のショートヘアと叶愛さんのボブは似て非なる髪型です。しかし、前髪の分け目が叶愛さんを想起させました。お門違いもはなはだしいですけれど、叶愛さんの前で隠せていた愚痴は止まってくれませんでした。


 爽やか王子の包容力、恐るまじですわ。属性は違いますが、真珠美お姉様と同じ血を受け継いでいるようです。言わなくてよいことを口走ってしまいます。


「有喜良。聞いてくださいませ。わたくしの妹が、女子野球部を作るなんて言ったのですわ。信じられませんわよね。神聖な学園に泥を塗るつもりですのよ? プロ野球が好きなのは、個人の自由ですけれど。それを学園に持ち込むのは、いかがなものかと思いますわ」

「まずは落ち着こうか。きみに怒った顔は似合わない。僕らの時間に水を刺さないでおくれよ。藍奈……」


 眉を下げて言いよどむ有喜良に、情けはかけませんでした。誰とも話していなかったのですから、有喜良の都合が悪いはずありません。


「伝統のあるテニスやチェスの、何がいけないのでしょうか? 令嬢たるもの、清く賢く、強くあるべきですけど。野球はよくありませんわ。長時間の練習で日焼けもしますし、あれほど伝統と規則にうるさいスポーツはほかに例を見ませんもの。入部したてはキャッチボールだけ。三年生が引退してからバットが持てるような、縦社会の権化たる部活ですのよ。この学園に必要あるとお思い? いいえ、ないに決まっていますわ」


 まくしたてて一息つくわたくしを、有喜良は否定も肯定もしませんでした。


「本音を言えなかったとき、僕に泣きつく癖はあいかわらずだね。僕だけに見せてくれる一面は愛おしい。ただ、古都羽ことはといるときだけは遠慮してほしいな」


 有喜良は後ろの席に視線を向けました。お団子に結い上げた少女の髪は、ほつれ一つありません。みき古都羽の表情も、動揺がまるで見えませんでした。


 さすが主計家に仕えるメイド長の娘です。幼少期からの教育が行き届いているようですね。有喜良は昔から古都羽を一方的に好いていましたが、彼女の心が傾くことはありませんでした。長年の片思いが実るまで、無駄なあがきをするのは結構なことですけど。わたくしをないがしろにして、二人きりの世界を作らないでくださいまし。


 わたくしは口元を扇子で隠しました。


「あら。あなたの男嫌いを直して差し上げたのは、どなただったでしょうか? いけませんわね。ご恩を忘れてしまっては」

「松蔭寺様、それ以上は主計家の侮辱と捉えますよ?」


 古都羽のヘアピンが剣先のようにきらめきます。


 お団子にしている髪は、招かれざる客に簪を向ける花魁を彷彿とさせました。わたくしが有喜良をからかうのは許容できても、主計家の名を貶める話と分かれば口を挟まずにはいられないようです。ようやく古都羽の沸点が分かってきたというのに、なかなか手ごわい相手です。皮肉の一つくらい、笑って受け流しなさいな。あなたとも、中学生からの付き合いでしょうに。


「他愛のない世間話ですわよ。古都羽、安心してちょうだい」


 主計グループは、わたくしの父が経営する松蔭寺百貨店の重要な取引先です。有喜良の愛玩犬としてしっぽを振るつもりはありませんが、噛みつきすぎてしまえば親子ともども処分されかねません。今一度、気を引きしめなくては。


 睨む番犬の視線をかわすと、有喜良はのんびりとした口調で言いました。


「藍奈の顔は忙しないね。一週間前は、どんな妹ができるのか楽しみにしていたというのに」

「どなたかと見間違えているのでなくて? わたくしは、ちっとも浮かれてなどいませんでしたよ。あなたと違って一人っ子ですから、妹の接し方に間違いがあってはいけないとは考えていましたけれど」

「お優しいですね。松蔭寺様は」

「あぁ。姉にそこまで考えてもらえていたと知ったら、仰木さんは喜ぶだろうな」


 囁き合う主従にわたくしの頬は赤くなりました。


「生暖かい目で見ないでくださいませ。なんだか熱くなってきましたわ」

「すまない。おわびになるかは分からないが、きみの知りたそうな情報を教えてあげよう。前に藍奈が薦めてくれたシリーズ、おととい新刊が出ていたよ。きみの分も買っておこうと思ったのだけど、重複しては困るだろう? 遠慮しておいた」


 新刊の出るペースが四年に一度になっていたシリーズです。それを早くおっしゃいと、文句が飛び出しそうになりました。


「まぁ、やっと入荷したのですね。今日の放課後に買いに行きますわ。教えてくださり、ありがとうございます」


 本はいつだって、会話を明るくしてくれます。高校から私立のお嬢様学校に通うようになったときも、本屋の素晴らしさだけは胸を張って語れたのでした。売れ筋の本だけでなく、長く読み継いでほしい本も揃えた空間は、人との出会いの場でもありました。


 学校が終わってすぐ、わたくしは行きつけの本屋へ行きました。聖ヒルデガルド学園から近く、輸入雑貨の品揃えが多い本屋です。黄色いレンガと木枠の窓の佇まいは、ロンドンへ繋がっているような気分を味わえます。外出中のお姉様方にえしゃくしつつ、目的の本を探しました。


「部員集めに役立ちそうな本はどこ? 哲学? それとも心理学?」


 わたくしの前に飛び出してきたのは、白うさぎではありませんでした。青色のリボンをたなびかせた叶愛さんです。小走りで店内を駆けるなんて、はしたないですわよ。


 ごきげんようと挨拶をする前に、叶愛さんはわたくしの腕を掴んで飛び跳ねます。


「お姉様! 顧問をしてくださる先生は見つかりましたよ! あとは部員の確保だけです!」

「ここは本屋ですのよ。お話は寮で聞いてあげますから、お静かに願いますわ」


 しいっと人差し指を立てても、叶愛さんはわたくしの手を離しません。


 あぁ、店内の視線が体中に刺さっていくのを感じますわ。ただでさえ聖ヒルデガルド学園の制服は羨望の的。ほかの高校生よりも品位が求められますのに。


 親愛なる真珠美お姉様。わたくしはこれほどまで話を聞かない妹ではありませんでしたわ。周りの方から注目されるのは、一体どんな罰なのでしょうか。


 わたくしを姉と慕う気持ちは分かりますが、叶愛さんとは会ってから日が浅いのです。ルームメイトとして仲よくしたいのはやまやまですけど、いささか距離が近すぎるのではありませんか。わたくしは物理的な距離を近づけるのではなく、心を通じ合いたいのです。


 叶愛さんがあんまりにも強く振るものですから、わたくしの腕はちぎれてしまいそうです。すでに指の感覚がなくなっていました。

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