打ち上げろ! 聖ヒルデガルド学園女子野球部
羽間慧
第1章 野球がしたい妹
第1話 藍奈お姉様と呼んで
子どものころは、本屋に並ぶ表紙が宝石みたいに見えました。
店員がガラスケースから出してくれた指輪をそっとはめるように、本棚から慎重に引っ張ります。手になじんでいないクリーム色の断面に、左手を添えました。
スーパーで買い物をする母が戻ってくるまで、猶予はありました。買ってもらう一冊を選ぶため、たくさんの本を熱心に読み始めます。気になる本の内容をひととおり頭の中に入れたころ、挿絵のいっぱいある本を立ち読みしていた男の子に目が留まりました。
ふわふわとした巻き毛が、ひょこひょこと野球帽から出ています。
Tシャツには、プロ野球球団である東京ピヨピヨズのマスコットキャラクターが描かれていました。丸々としたひよこのピヨ蔵に、焼き鳥を持たせていいものなのか、真剣に考えこんでしまいます。いけない、言おうとしたことを忘れるところでしたわ。
「絵がある本もいいけど、こっちの棚の本も面白いのがいっぱいあるよ」
自分が指差した方向を、男の子はつまらなそうに見ました。
「文字ばっかりじゃ、つまんない」
思わずクスッと笑います。以前の自分も、同じことを言っていました。中学年向けの話を勧められても、読む気が起きませんでした。表紙がきれいな本をいくつも紹介されて、思わずページをめくったのでした。
「漫画は好き? だったら、伝記の漫画はどうかな? 小さな文字がたくさんあるかもしれないけど、すぐに慣れると思うよ」
マリーアントワネットやモーツァルトを勧めようとした手は、違う本を掴みました。二人とも人々にもてはやされた時期はありましたが、さみしい最期を送ることになりました。読んでよかったと思ってもらえるような本を選んだ方がいいでしょう。
「最初のところだけでも読んでみて」
「この量だったら読めそう」
漫画に惹かれて読み始めた男の子を、母親らしき人が呼びます。
「お母さん、買ってほしい本があるんだ!」
「正岡子規? ようやく文学の魅力を分かってくれたのね!」
正岡子規を選んだ理由は、短歌に興味を持ってもらいたいからではありませんでした。サイン入り帽子を被った男の子にこそ、読ませたいと思ったのです。
「うん! あのお姉ちゃんのおかげだよ!」
ありがとうとバイバイの意味を込めて、男の子は手を振りました。自分も笑顔で手を振り返します。
じゃあね。また会うことがあったら、お互いの好きな物語について語り合おうね。
⚾️⚾️⚾︎
懐かしい夢を見ていました。かつて本屋で会った野球帽の君との会話を。薄れてしまった記憶と同じように、夢でも彼の顔がぼんやりとしていたのは残念でした。彼とすれ違ったとしても、今のわたくしが呼び止めることはできないでしょう。理由は二つ。一つ目は、わたくしが通っている学園ならではの制約です。この制約が破棄されない限り、出会う可能性はかなり低くなっています。そして、二つ目は――
「今は何時ですの?」
机から勢いよく顔を上げると、日はすっかり傾いています。肩にかかったブランケットから、
一昨日で三学期が終わり、入寮する新一年生のために少しずつ片付けをしていました。途中で寝てしまうなんて、真珠美お姉様に知られたら何と言われることでしょうか。
部屋の隅に立てかけていたはずのダンボールは、教科書が詰められていました。わたくしのものではない証拠に、名前欄には達筆な字で
「生徒会から戻られていたのですか?」
「
真珠美お姉様は、うたた寝していたことを咎めませんでした。その分、引越しの準備を手伝えなかったことが悔やまれます。しばらく会えなくなるのですから。
ここ、聖ヒルデガルド学園は、全寮制の女子中学高等学校です。高校から入ってきたわたくしにとって、寮生活は憧れでした。寮は中学と高校で棟が分かれ、部屋は寮監に決められています。一年生と二年生は姉妹という扱いで二人部屋に割り振られ、受験生の三年生は一人部屋を与えられていました。
真珠美お姉様は三年生用の部屋へ移動してしまうので、今日が同じ部屋にいられる最後の日になります。お世話していただいた恩を全て返しきれていませんのに。わたくしは何と無礼なことをしでかしてしまったのでしょう。わたくしから手伝いを申し出ておいて。
細い指がわたくしの頬を撫でました。
「藍奈を甘やかしたいと思ったのは、私のわがままでしかないわ。あなたに悲しそうな顔をさせるつもりはなかったのよ。もう残りの荷物を入れてしまったから、運ぶのを手伝ってくれる?」
「もちろんです。ぜひお手伝いさせてください!」
真珠美お姉様に、わたくしは笑い返しました。
ダンボールを二つ持ち上げ、真珠美お姉様の新しい部屋へ運びます。
「藍奈のおかげで何往復もせずに済むわ。助かるけど、無理していないわよね?」
「はい。これくらい余裕です」
テニス部の真珠美お姉様より、チェス部のわたくしが量も重さも多い箱を持っていることで、不安がらせてしまったようです。
力こぶはありませんが、虚弱体質とまではいきませんの。嘘ではないことを示すためにダンボールを上下に振ってしまっては、中身に傷がつきかねません。わたくしは歯がゆく思いつつも、力説することはしませんでした。
「いやぁぁぁぁああ!」
廊下から響く叫び声に、危うく両耳を押さえかけたからです。ついでに言えば手を離すまいと、真珠美お姉様には見せられない顔をしてしまいました。振り返ってもらわれたら困る場面で、声をかける愚行をする訳にいきません。
「あなたがいないと眠れませんわ。今日から一人きりだなんて耐えられません」
「淋しいのはお姉様だけではないのですよ。私だと思って、この抱き枕を使ってくださいませ」
「ありがとう。でも、最後にもう一度だけ、ぎゅっとしていいかしら」
「お姉様が満足されるまで、とことん付き合いますよ」
泣きじゃくる姉妹の姿に、今生の別れかと錯覚してしまいます。さすがに真珠美お姉様は、ここまで大げさな引き留め方をしませんよね。安心する自分がいる中で、もの足りないと感じてしまう自分がいます。
「着いてしまったわね」
真珠美お姉様の言葉に、我に返りました。いつの間にか、ご自分の持たれていた箱を部屋に入れていたようです。わたくしは慌てて荷物を置きました。
「藍奈に紅茶をごちそうするには、時間が足りないかもしれないわ。入寮手続きを終えた新一年生達が来るころだもの。あなたの妹を外で待たせてしまっては駄目。すぐに帰ってあげなさい」
廊下で擦れ違った姉妹を反面教師にしなさいと、間接的に諭されている気がします。
「かしこまりました。真珠美お姉様の仰せのままに」
両膝を軽く曲げ、スカートの裾をそっと持ち上げます。ほかのお姉様方にカーテシーをしたことはあっても、真珠美お姉様に見せるのは初めてでした。今までで一番美しい所作を意識して、真珠美お姉様に別れを告げました。
「藍奈、一年間ありがとう。髪を結ってあげたり、あなたにお菓子を作ったりするのは、幸せな時間だったわ」
ぐっ。
胸が、胸が痛みますわ。
恋人に振られたかのようなセリフは、追いやったはずの淋しさを連れ戻してきました。真珠美お姉様が開けてくださったドアを、罪悪感にさいなまれながら通ります。
「わたくしの方こそ、たくさんの幸せをいただけて感謝いたします。ごきげんよう、真珠美お姉様」
「ごきげんよう、藍奈」
わたくしに手を振りかけた真珠美お姉様は、耳元に近づきました。
「いつでも会いに来て」
いけませんわ。足に力が入らなくなるような、蠱惑的な声を出されては。見送りに来ていた妹達が、一斉に色めきました。
「真珠美会長、お美しいご尊顔で大胆な誘い文句を!」
「キスされるのかと思いましたわ」
出ましたわね。羨ま死の亡骸がごろごろと。
真珠美は静かになさってねと口元に人差し指を当てましたが、逆効果のように思えます。
わたくしの妹は、どうか心臓に悪い方ではありませんように。真珠美お姉様のおかげで、過剰なときめきの耐性はつきましたけれど、できることなら穏やかな一年を過ごさせてほしいです。
部屋に戻ってしばらくすると、遠慮がちなノックの音が聞こえました。ドアを開けて最初に目にしたものは、癖のある肩まで伸びた髪。真新しいリボンは、今年の三年生が使っていた青色です。
少女はキャリーケースを横に置き、ぎこちなくスカートをつまみます。入寮前に練習してきたのでしょうから、体勢を崩して転ぶようなことはありませんでした。少女が少しだけ羨ましく思えます。真珠美お姉様にした最初のカーテシーはぐらついてしまい、豊満な胸にダイブしたのですから。
「ごきげんよう、お姉様。これから同じ部屋を使わせていただく、
「ごきげんよう。わたくしは
部屋に招き入れながら、わたくしは頬を震わせました。
何だか、雨に濡れた子犬を保護する気分ですわ。荷物を置く場所が分からずに固まる様子は、いじらしく思えますもの。
「こちらのスペースを使ってくださる? えぇっと。仰木何さんかしら?」
「
「叶愛さんね。わたくしのことは藍奈お姉様と呼んでもらいたいわ」
わたくしに呼び捨てはハードルが高すぎました。真珠美お姉様に「真珠美と呼んでちょうだいな」と頼まれたときも、盛大に噛んで布団へ逃げ込んだのです。年下の相手になったところで、緊張が消えることはありませんでした。気兼ねなく呼び捨てできるのは、腐れ縁の友人くらいのもの。
叶愛さんを呼び捨てにできないのは、それだけではありません。野球帽の君と会わない、二つ目の理由が深く関わっていました。
おおぎかなめという名前は、キャッチャーを意味する「扇の
そうとも知らない叶愛さんは、体育会系の返事をしました。
「もちろんです、お姉様っ!」
わたくしの空耳でしょうか。大事なところがミュートになっていますわよ。
うまくやっていけるか一抹の不安を感じさせながら、叶愛さんとの共同生活が幕を開けたのでした。
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