第12話 遠くから見ているだけで幸せですわ

「お姉様が羨ましいです。私の髪は跳ねやすいので、ゴムでまとめるのも難しいんですよね。ポニーテールもままならなくて、前髪でしかヘアアレンジできないんです」

「そうは見えませんわ。こんなに指通りがいいのに」


 叶愛さんの髪を小指に巻きつけると、嬉しそうに目を細められました。


「いつも似たような髪型しかできないので、髪質だけでもよくしたかったんです。会いたい人と、会えたときのために」

「たゆまぬ自分磨きは素敵ですわ」

「ありがとうございます。以前はスキンケアも興味がなくて、野球の練習前に日焼け止めを塗ることも怠っていたんです。気になる人ができるまでは」


 恋で人は変わります。叶愛さんも、振り向いてもらえるように努力されたのですね。


 わたくしが微笑ましく思っていると、叶愛さんは思い人について話し始めました。


「あの日は練習がなくて、たまたま母の買い物に付き添っていました。途中で服選びに飽きた私は、本屋に行くことを伝えて児童書のコーナーで時間を潰そうとしたんです。好きなシリーズの本を読んでいた私に、女の子が文庫本を勧めてくれました」


 どこかで聞き覚えのある言葉です。


「嫌だと断った私に、彼女は伝記の漫画を紹介してくれたんですよ。最初のところだけでも読んでみてと、嫌な顔一つせずに。挿絵のない本が嫌だった私の意見を受け止めてくれたのは、あの子が初めてでした。学校だと、幼稚な本なんか読んでみっともないって言われてきましたから」


 小さな文字がたくさんあるかもしれないけど、すぐに慣れると思うよ。


 幼いわたくしの声が反響します。男の子だと思っていた野球帽の君は、叶愛さんでしたの?


 いいえ、偶然ですわ。もしかしたら、叶愛さんが勧められたのは伝記ではなく、電気工学についての学習漫画だったのかもしれませんもの。


 わたくしは確証を得るために訊きました。


「その方には、何の本を勧められましたの?」

「正岡子規の伝記です。どうして正岡子規を選んだのか、買ってもらった本を読んで分かりました。柿を食べた人だけじゃなかったんですよ。野球用語をいくつか翻訳して、日本に野球を広めた方だったんです。もし、あの女の子に再会できたら、伝えたいことがあります。野球ができる楽しさに、改めて感謝する機会を与えてくれてありがとうって」

「きっと伝わりますわ」


 わたくしは目線を落としました。


 叶愛さんはあきらめなかったのですね。わたくしは野球を捨てた日から、野球帽の君と会わないことを決断しましたのに。


 人生を変えた本を勧めた人が野球嫌いになった事実は、墓場まで持っていかなければいけませんわね。がっかりした叶愛さんは見たくありません。


 叶愛さんが会いたがっている本人だと、名乗ることはしませんでした。名乗ってしまったが最後、運命的な再会にかこつけて入部届を書かされることは目に見えています。鴨が葱を背負うような不覚は取りませんわよ。


「ほかの部員の皆様にも、野球を好きになってもらいたいですわね。叶愛さんは、野球の指導経験はおありですの?」

「小学生のとき、低学年に教えたことはありますよ。仰木先輩はたとえが独創的だと、たくさん褒めてもらえました」


 それは叶愛さんの教え方が下手なのか、感覚で習得できてしまう天才型なのか分かりかねますわ。


 反応に困ったわたくしは、神指先生からの伝言を思い出しました。


「部費はどうなさるおつもりですの? 神指先生が心配されておいででしたわ」

「相談するの忘れてました。部長をしたことがなかったので、勝手が分からないのですよね。考えることも多くて、何から手をつけていいのか」

「ご自分では手に負えないところは、神指先生に任せたらいかが? 少しくらい頼ってもらえた方が、顧問として嬉しいはずですわ」


 わたくしの数式にけちをつけた意趣返しです。姉として叶愛さんを導いて差し上げたのですから、文句は言わせませんわ。


「練習で持参されたボールやバットは、どうされたのですか? 随分と準備が早かったように思えましたわ」

「あれは、私の家が経営しているスポーツショップの型落ち品です」


 自ら率先して提供されたのですね。こうしてはいられませんわ。


 わたくしはスマートフォンを掴みました。妹のためにひと肌脱ぎましょう。


「今から伝えるものを、用意していただけるかしら。大至急!」


 これで一安心ですわ。火曜日の十五時あたりに届けてもらえるでしょう。松蔭寺百貨店の配送サービスは完璧ですもの。



 ⚾︎⚾︎⚾︎



 週明けの女子野球部の練習にて、わたくしは記録に使う道具のほかにカゴを持参いたしました。


「バドミントンでもするんすか?」


 予想していた反応をする衣紗さんに、拍手を送りたくなりますわ。口元がほろこんでしまいます。


「普通のシャトルより羽が小さめ?」

「正解ですわ、竹中さん。このシャトルは野球専用ですの。今日からキャッチボールと並行して、バッティング練習も行っていただきたいですわ。ピッチャーとのタイミングの取り方を掴めるように。ボールよりも、投げる人に打球が当たるかもしれないという怖さを減らせると思いますわ」


 ボールを投げてもらって打つ練習が難しい部員達に、ふさわしい練習方法ですわ。投げる人が下手では、ボール拾いの量を増やすだけです。シャトルならさほど遠くへ飛びませんから、すぐに拾い集めて練習を再開できますわ。


「叶愛さん、わたくしが投げますから見本をお願いいたします」

「はいっ!」


 まっすぐな軌道を描くシャトルに、叶愛さんのバットがリズミカルに打ち返していきます。金属バットの音は心地よいですわね。


「早くやってみたいっす」

「私も同じなのです」

「オーケストラの音色のように、ずっと聞いていたくなりますわ。最高の音、私も奏でたいですわ」


 部員の反応は上々ですわね。


 わたくしが観客席に移動しようとしたとき、叶愛さんが思いがけないことを言いました。


「では、二つのグループに分けます。キャッチボールのグループと、バッティング練習のグループに。後で入れ替えますから、ご安心ください。先にバッティング練習をするグループは、叶愛のお姉様の指示をよく聞いてくださいね。二週間後に模擬戦の紅白戦をしますので、楽しみに技術を磨いてもらいたいです」


 そのようなこと、わたくしは初耳ですわよ。


 わたくしは不満を飲み込み、部員たちにシャトルを投げ込みました。


 空振り。コン。空振り。空振り。カツン。コン。


 シャトルの芯を捉えられていないため、くるくると回らされます。ボールに置き換えても同じ光景になりますわね。


 二週間後に試合が成り立つのでしょうか。そもそも守備の人数も、相手も足りないのですけれど。


 押し寄せる不安の行き場は、どこにもありませんでした。



 ⚾︎⚾︎⚾︎



 紅白戦をする日までに、新しく入ったのは一人だけでした。


「まさか、こんなに早く入部するとは思いもよりませんでしたわ」

「有喜良お嬢様のおそばにいさせてもらうだけの価値がある人物でいたいのです。宣言通り、期待以上の成果をお見せしたいと思います。甲子園のマウンドは、会長も喜んでくださることでしょう」


 古都羽は平然と答えながら、叶愛さんにボールを投げ返しました。半袖からでも、引き締まった腕はよく分かります。


 古都羽の話した会長は、主計グループ会長である有喜良のお母様を指しています。彼女は芝居や物語への熱意の高さで有名でした。VIP席で観覧をしていた報道は、数多く耳にします。聖ヒルデガルドに女子野球部を作ることは、大金を積んで成し遂げられるものではありません。卒業生としても喜んでくれるでしょう。


「有喜良の姿が見えないのですが、あなたが護衛しなくてよろしいのですか?」

「竹中様の提供いただいたロボットに、興味を持たれたのでしょう。タケナカは数年前にロボット開発の部門を立ち上げましたが、今や作業用ロボットのシェアは国内四位です。ぜひとも主計グループと良好な関係を築いていきたいものです」


 部活にビジネスを持ち込まないでくださる? チームメイトとして気兼ねなく接することが難しくなるでしょう?


 示された方を見ると、有喜良はロボットの周りをちょこまかと歩いていました。ミニチュア鉄道が趣味と聞いていましたけれど、近代的な機械も好きなのでしょうね。


 主計グループの未来のためと言いつつも、古都羽はロボットを睨んでいました。厳密に言えば、普段の古都羽と大きな差はありません。しかしながら、付き合いの長いわたくしだからこそ、感情の変化を読み取ることが可能なのです。


 古都羽も長年の親友を取られたかのような喪失感を抱くのですね。おかわいそうに。


 わたくしを睨んだ古都羽は、キャッチボールを終えました。何もおっしゃらないのが逆に怖いですわ。


「私の肩は上々です。そろそろ模擬戦に参りますか?」

「はい! これまでの練習の成果を見せましょう!」


 有喜良のところにいたロボットは、外野とベンチに散らばりました。足りない人員をヒト型ロボットで補うそうです。現役プロ野球選手のデータを組み込まれているらしいので、味方として守備に入ってくれることは問題ありません。


 どちらかと言えば、相手打者の攻撃が心配です。春季キャンプ前の状態に設定していたとしても、素人は勝てそうにありません。野球選手はオフシーズンでも、自主トレーニングを欠かさず取り組んでいるはずですもの。ロボットにヒットを打たれた古都羽が、一塁まで殴りに行かないか気がかりですわ。


「叶愛様。私の投げた球を取り損なって後ろに逸らした日には、どうなるか分かっておいでですね?」

「後逸なんてしません。どんな球でも、私に任せてください」


 グータッチをするバッテリーは輝いて見えました。見学をするわたくしの入る隙間もないほどに。


「叶愛様、その言葉をお忘れなきよう」


 マウンドに立って投球練習をします。叶愛さんの後ろに立つ有喜良は、瞳を輝かせました。


「ストライーーークッ! さすが僕の古都羽だね」

「お嬢様。投手の集中力を損なうおつもりですか?」

「つれないなぁ。球審に暴言を吐いて。僕に退場を宣告してほしいのかい?」

「ボールを故意に当ててしまいたくなりますが、癪ですので我慢いたします」


 妹を応援する気持ちは湧いてきませんでした。高校から野球を始めた部員達を、いつまで明るく引っ張ることができるのか。そのような不安がわたくしの心を包んでいったのです。ベンチに戻ったわたくしは、記録を書くためのペンを持つことを忘れ、マウンドをぼんやりと眺めていました。


「松陰寺藍奈。もう一度、レフトに立たない?」


 紫色のロングヘアがわたくしの顔を覗き込みました。子どものような声で地雷を踏んでくるとは、有喜良の入れ知恵でしょうか。


「わたくしは遠くから見ているだけで幸せですわ。あれだけ続けていた日課のトレーニングも、ろくにしていませんの。わたくしのことは放っておいてくださいまし。あなたは、三番バッターですわよね? すぐに打順が回ってきませんこと?」

「本当に未練がないの? 記録係で満足しているのなら、体操服で来なくていいのに。神指先生から記録を頼まれたとき、本当は嬉しかったんじゃないの?」

「お黙りなさい、人形風情が」


 調子に乗るんじゃありませんのよ。


 わたくしの低い声に、ロボットは後ずさりしました。


 ふふん。くだらない話をした罰です。早くネクストバッターズサークルへ行って、出番を待っていたらよいのですわ。


 口角を緩めたわたくしの服を、ロボットはたくし上げました。

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