エピローグ

 ――事件の翌日、ワタシは私の身体で目覚めた。

 長いようで短い、魂での生活は終わったのである。

 もう好き勝手に浮いて回ることも、壁をすり抜けることも出来ない。

 私には身体がある。それをじっくりと再確認した。なんだか不思議な気分だ。

 二ヶ月も昏睡状態だったため、少しだけ身体に馴染みがない感じがする。

 私はスラミス・ヴェレッド。

 紛れもなく、間違いなく、私はスラミス・ヴェレッドだ。

 兄はアンク、産まれてからずっと二人で一緒に暮らしてきた。その記憶もある。

 私が目覚めると、お兄ちゃんは泣いて喜んだ。私も貰い泣きした。

 もう、大人たちに従う必要もない。

 無理矢理知識を叩き込まれることも、やりたくもない実験に付き合わされることもないんだ。

 問題はすべて片付いている。

 自殺者の遺体も回収され、製薬会社の社員らは、全員捕まった。

 その後、社員を尋問し、腹違いの兄弟八人も無事に保護された。一日も経っていないのに、既に喋り始めているという。……末恐ろしいレグルスの血だ。

 その八人はラーハムと一緒に暮らすことになりそうだ。テラは卒業後にそこに合流すると思われる。

 テラはあのあと無事に回復して、その日の夜に目覚めて、後遺症もないようだった。

 昼頃になると、偶然みんなが揃って私の見舞いに来てくれたのである。

 リアがこれまでのことを説明したようで、全員からお礼を言われたり質問されたりした。テラからはクリスマスプレゼントも貰った。

 なんだからそれらが、恥ずかしくもあり、嬉しくもある。気まずい感じだ。

 これまで私はお兄ちゃんとしかまともに会話したことがなかったため、どう対応していいか分からなかった。

 そうしてもじもじしていると、テラは私を可愛いと言って、余計ぐいぐいに話しかけてきた。ラーハムが止めてくれなかったらどうなってたことか……。

 そうそう、驚いたことにフォックスは女楽白埜を連れてきていた。詳しくは聞けなかったけど、父親との件などは解決したようである。ただ、まだたまに死にたくなるらしく、そういうときはこうする、とその場で白埜にキスをして、その場の空気を凍らせた。

 白埜も私と同様その場の雰囲気を苦手にしていたようだけれども、テラと打ち解けてからは楽しそうにしていた。

 幽霊の時に見るみんなより、どこか華やかに感じる。

 友だちというのは、こういうものだろうか。

 今まで名前も知らない大人たちに囲まれて生活してたから、そういうのが私はよく分からない。

 和気藹々とした雰囲気を眺めながら、平和で良いなと感じた。


    …


「大丈夫か?」

 みんなが去ってから、お兄ちゃんが訊いてきた。

「ハグして」

 手を伸ばし、求める。

 お兄ちゃんは何も言わずに私に抱きつく。私もお兄ちゃんの背中に手を回す。

「安心する……」

「そうか……」

 リアが言っていた。魂と身体が離れていた人は精神に異常を来しやすい、と。でも、私ならきっと大丈夫だと励ましてもくれた。

 私の自我は他人の記憶によって無意識の底に沈み、執着も頓着も拘泥も薄れた自己認識は私を蔑ろにし、薄ら寒い実感のみが今の私を支配している。

 でも、きっと大丈夫だろう。

 私は現世か来世かの選択を自ら選んで今ここにいるんだ。

 それにお兄ちゃんも一緒だ。だから心配ない。

 何かが足りなくても、人は手を取り合い補い合うものだから。

 心の中にある蟠りも、いずれなくなるだろう。

 心に穴が空いている感じも、いずれ埋まるだろう。

 沈んだ気分も、いずれ良くなるだろう。

 乾いた感情も、いずれ潤うだろう。 

 これは、魂がまだ身体に慣れていないだけなんだと思う。

 だから、あんまり考えないことにしようと思ってる。

「なんかあったら、絶対ぼくに言えよ」

「うん、分かってる」

 私は一人じゃないから、大丈夫だ。

「――そういえばお兄ちゃん」

「うん?」

「もう一つ、思い出したことがあるんだ」

「何を?」

「小西汀の記憶を、思い出したんだ。私は小西汀でもあったんだよ」

「……」

「彼、BMの研究で、命を落とし掛けてた」

「ああ、最初は効果がなかったから……そんな危険なこともあったのか」

「うん、そうみたい。それでね、私みたいになってた」

「それはつまり……」

「彼は捕まることも知ってた。私が変える未来も、知ってた」

「そうか……それで?」

「ううん、それだけ」

 お互い無言で抱擁を続ける。

 窓の外を見やると、美しい青空が広がっていた。

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ブラック・マスタード 天坂ソフィア @amasaka_sophia

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