五章 Let us run with patience the race that is set before us.

 ……覚えている限りのことをワタシは話し終えた。

 フィアンマ姉妹を別にして、彼ら彼女らは不幸な運命を辿ってしまった人たちである。

 テラはラーハムを長年待ち続けたというのに、亡くなってしまった。

 ラーハムはテラのために自ら死を選んだ。

 フォックスは精神を病んで今も気体となって彷徨っているだろう。

 アンクの葬式は数日後に母親によって開かれた。

 スラミスは未だ目覚めていない。

 ルタが探している自殺者の死体も未だ見つからず。

 製薬会社を装っている興津の研究チームはその後拠点を海外に移してしまった。それ以降の所在をワタシは知らない。子どもたちは今も狭い部屋に閉じ込められているだろう。

 ワタシは、話していてなんだか悲しくなってしまった。

 世界は無情で、救いようがない。

 悪が蔓延り、善は食い潰されている。

 どんなに必死に生きようと、それを無意味だと嘲笑うかのように死は訪れてしまう。

 こんな世界で生きる意味なんてどれほどあるのか。

 ……ああ、気づいたらワタシまで厭世的になってしまっていた。

 でも思うんだ。ワタシはこの先やっていけるのだろうかって。

 現世に戻るとしても、来世に行くとしても、生きていけるのだろうか。……生きるべきなのだろうか。

 生きる意味だとか、生きる理由だとかが、感情抜きで客観的に誰もが認める事実としてあるのなら簡単だっただろうけれど、現実はそうではない。

 その中でも人は何かしらの希望を見つけて生きている。何かしらの欲望を持って生きている。

 だけれども、ワタシはワタシが分からないから、希望も欲望も持ちようがない。

 結局、話したところで、自分が何者なのかはっきりすることはなかった。

 と、思っていたら、

「あなたが誰かは分かりました」

 ……え?

「スラミスさんで間違いないでしょう」

 それは、確信がある口調だった。

 ――スラミス……。

 俄には信じられない。

 彼女については、アンクの語りでしか知らないから、あまり詳しくない。

 平和主義者で、兄想いな子だった印象だ。

 それが……ワタシ……?

 そう思うと、そうなのだろうか。ワタシも彼ら彼女らの平和を願う気持ちがある。あんな結末じゃなかったら良かったのに、とそう思う。

 でもこんなの、普通のことじゃないだろうか。

 断言できる理由は何だろう――とそれを聞こうと思ったのだけれど、

「――それより。テラさんが殺されたのは二四日の昼過ぎで間違いありませんか?」

 リアが真剣な面持ちで訊いてきた。

 ――はい、そのように記憶していますけど。

「正確な時間は分かりますか?」

 ――そこまでは……。

「分かりました。でも、恐らく間に合うと思います」

 ――何が、ですか?

「今日は二四日ですから」

 ――今日は二四日?

 自分のことがスラミスだと言われたときより驚いた。

 それはあり得ない。

 ワタシは二四日の先を知っている。

「スラミスさんが見たものは未来の可能性の一つです。私と姉さんの話に間違いはありませんでしたから、このまま何もしなければ、スラミスさんの見た通りの未来になるでしょう」

 スラミスと呼ばれているし、未来視をしたというとんでもな話もされて、困惑を極めた。

 確かに初めに「無意識下の魂は時空を超えて広がり偏在します」と言っていたけれど、未来まで見えるとは聞いていない。

 ――でも、二四日のリアさんがワタシと話す場面は見ていませんよ。

「未来が変わったということです」

 そんなこと、本当にあり得るのだろうか。

 でもそれが本当なら――

「ただいまー」

 その時、ルタが帰ってきた。

 今日が二四日だというのなら、ルタはこの時間までアンクの集会に顔を出していたはずだ。

「あ。姉さん、丁度いい時に」

「何かあったの?」

 ルタはワタシをすり抜けてリアに近づく。リアはそれが見えているから、顔に出して反応する。

「ん? どうしたの?」

「いえ――姉さん、かくかくしかじかでテラさんが死にます」

「は?」

「バイク出して下さい」

 ルタは説明して欲しそうだったけれど、全て飲みこんで、

「行くわよ」

 短く言って、先に走り出した。

 リアは遅れてついて行き、ワタシを見て、

「結末を変えに行きましょう」

 そう言った。


 二人でバイクに跨り、飛ばす。ワタシはその後ろを、飛んでいる。

 意識するだけでバイクのスピードに追随できるワタシ……。

 ……考えるのはよそう。なんだか頭がおかしくなりそうだ。

「それで、どういうことなの!?」

 ルタが声を張り上げる。

「スラミスさんが未来を見てきて教えてくれたんです! 遺体の場所も分かりました!」

「スラミス? 未来? 幽霊ってこと? それより、なんでテラが関わってるのよ!?」

「……運命です!」

「説明めんどくさくなってるでしょ!」

 それから軽く情報を共有して、新宿駅に着いた。

 路肩に停めるや否や、リアがバイクから飛び降りて、新宿サザンテラスに入っていく。

「あ、ちょ……」

「すぐ済むと思うから、姉さんはそこで待ってて下さい」

「了解」

 ルタのぼやくような了承を聞き、ワタシはリアを追った。

 リアはきょろきょろと辺りを見回し、必死に何かを探している。目的地を目指し歩く人々の中、その行為は目立つ。

 時計塔を見ると十一時を少し過ぎている。そろそろ興津がリストランテに着いた頃だろうか。

 フォックスを探しているようだけれど、それは後回しにして、リストランテに直行した方がいいのではないか。

 このままでは時間が足りなくなってしまう……。

 ――リアさん、フォックスさんは後回しの方がいいんじゃ……?

「駄目です」

 ――なんでですか?

「失敗が許されないからです。残念ながら私たちは過去に戻ることはできません。起きてしまったことは変えられないのです。これから起きるかもしれないことしか変えられません。しかし、これからは何が起るか予測できなくなっていきます」

 きっぱりと力強い言葉に覚悟を感じた。

 確かに、もうワタシには未来が見えない以上、この先どう転ぶか分からない。

 リアは、既に先の展開を予想し最善を尽くそうとしている。

「見つけました」

 イーストデッキ中央を見て言った。ワタシには何も見えない。

 気体化したフォックスの魂の形が、リアには見えているのだろう。

「フォックスさん!」

 通行人の視線が集まる。何もない中空に向かって叫んだのだから当然だ。だけれども、それも一瞬で、みな一瞥するだけで歩みを止めることはない。

 その一声でフォックスは実体化した。

 欄干に座り、鬱々とした表情でリアを睥睨する。

「オレを呼ぶお前は誰だ」

「アンクさんが殺されてしまいます」

 フォックスの問いには答えずに、単刀直入に切り出すリア。

「……アンク? あーあのガキか……」

「実行犯は子どもを監禁していた製薬会社の社長です」

「あー……」

「今ならまだ間に合います。力を貸して下さい」

「……」

 茫然とした表情をするフォックス。彼は自分の頬を摘んで引っ張った。

「夢ではありませんよ」

「夢の中でも、痛みがあったなら、現実はどうすればいい。駒が延々と回り続けるかを観察するしかないか」

「ここは現実です。あなたはおかしくなっていません」

「お前はなんなんだ。オレの何が分かる。――いや、悪い、すまない。口が悪かったな」

 高圧的な態度を取ったと思った途端の謝罪。精神が不安定なようだ。

「あなたがやってきたこと……やり方はどうであれ、人を救ったという事実は変わりません。立派なことです」

「立派……立派かな。分からないな、分からない……」

「飛羽さんも二弥さんもあなたを慕っていますよ」

「知り合い、なのか……」

「虐げられている子どもを救いたいという思想を捨てることはありません。罪の意識があるのなら、なおさらです。ミスをしたのなら正せば良いのです。過ちは償えばいいのです。そんな状態で死ぬというのは、逃げでしかありません」

「逃げる術しか持ってねぇんだよ。罰もなくのうのうと生きていいのか……」

「人は生まれながら罪を背負っています。生きるというのは、そういうことです」

「そんなキリスト教的なことを言われてもな。オレの好きな映画はPKとオーマイゴッドです。お帰りください」

「正しい道を歩むべきだと言っているだけです」

「正しい……正しいとは? 何が正しいのか、もうオレには分からない……正しいとはなんだ?」

「私にも分かりません」

「なんだよ、それ」

「人は各々自分の正しい道を持っています。それを探し続けるのです」

「それが人生ってか……」

「今は分からなくても構いません。とにかく、一緒に来て頂けませんか?」

「あー……まぁ……」

 相変わらず悲観的で消極的な態度ではあったが、同行させることには成功した。


 リストランテに着いた時には既にアンクの説明は終わっていて、議論が開始されていた。

 三人は適当な席に腰を落ち着ける。

 議論中の三人は四段の階段を上がったところの席にいるため誰からも見やすい。

 議論はワタシの記憶にある通りに進んでいる。本当に未来を見ていたようだ。

 アンクは子どもながら必死に大人たちの意見を覆そうとしている。

 アンク……リアの言う通りであれば、ワタシの兄になる。

 お兄ちゃん……お兄ちゃん……アンクから見たスラミスを思い出す。

 その間、リアがルタとフォックスに状況の説明を丁寧にしていた。興津という人物が製薬会社社長であり、子どもたちを監禁していて、その後テラを殺そうとしていること。遠藤は味方になり得るだろうこと。この議論の末に起こる惨事のこと。

「――ですから、三人でアンクさんに票を投じましょう」

 そうか、そのためのフォックスでもあるのか……。

「それで丸く収まればいいけど……」

 ルタは周囲を警戒している。睨むような鋭い目つきだ。

「胸ポケットが膨らんでいるのを数人見つけた。でもどっちの陣営か見分けがつかない」

 残念ながら、ワタシにもそれは分からない。

「最悪、全員無力化することにするしかなさそうね」

「そうですね。できれば穏便に行きたいところですが。とりあえずは未来をできるだけ変えないように目立たないでいきましょう。不測の事態は避けたいので」

 と、ルタが言ったばかりなのに、フォックスがふらふらと立ち上がり、注目の的に向かって行ってしまった。

「よぉ」

 議論が中断され、三人は彼を見る。闖入者の発現によりその場がざわつく。

「どうする?」

「こうなったら仕方ありません……様子を見ます」

 ルタとリアも囁き合って、動向を見守る。

「さっきから聞いてたが、あんた、子どもたちを監禁してんのか?」

 フォックスの声色が、威圧的で柄の悪い声に戻っていた。

「なんだ、てめぇ……」

 興津が訝しむ。

「答えろよ」

「……だったらなんだ。さっき説明があっただろ」

「子どもたちがどうなろうが、世の中のためになるからってやってるんだよなぁ?」

「そうだよ。黙って聞いてろ。話しかけて来んな」

「子どもたちの監禁、やめるつもりはないんだな?」

「ねぇよ……けど、それを今話し合って、投票の結果で決めるって言ってんだろぉが」

「ははは、そうか、そうかよ。こんなのが正しいって共感を得ちまう世の中か!」

「なんだお前、ラリってんのか」

 興津は呆れた顔でフォックスを見た。興津が座っていて、フォックスが立っているから、見上げている形だが、明らかに見下した態度をしている。

 遠藤とアンクはフォックスに気づいているが、対応を考え倦ねている様子だ。

「羅生門っつーかよマリエンバートっつーかよ哭声っつーかよー、そんなような目にあって頭がぐちゃぐちゃしてたが……お陰で冴えてきた……」

 青い炎のような静かな怒りが沸々と沸き立つようであった。

「あ? ぐちゃぐちゃ何言ってんだ、殺すぞ」

 興津による脅し文句。

 それに怯えることはなく、無視して聴衆に向かって言う。

「いいか! お前ら! お前らン中にはこいつの言ってることが正しいんじゃねぇかってそう思った奴もいるかもしれねぇ。だけどな、もし寄ってたかって子どもをいじめて人類繁栄とか抜かす世界が成立したら――

 ――そんな世界、オレが、ぶっ壊すしかねぇなぁ!!!!」

 そのとき、あらゆる人間が一斉に動いた。

 フォックスが興津に拳を繰り出した。その拳は顔面に衝撃を与え、吹き飛ばす。

 けれど、同時に興津は腰に隠していた回転式拳銃コルトSAAを出していて、殴られる瞬間に、その衝撃を利用してハンマーを起こし、トリガーを引いていた。

 銃弾は吸い寄せられるように、フォックスの眉間を貫く。

 驚くべき速度と正確性を兼ね備えたクイック・ドロウである。

「見えた――」

 離れた席でルタが言った。

 銃を持った人たちがフォックスに狙いを定めている。その彼らに狙いを定め構え始める人たちもいた。

 前者が製薬会社の一味であり、後者が∃機関の一味であることは明白である。

 一秒後、フォックスを狙っていた人たちの手首から鮮血が散り、拳銃を落とす。彼らを狙おうとしていた人たちは戸惑いと共に銃を下ろす。

 リアは一目散にアンクの元に駆けつけ、手を引き、テーブルの下に隠れる。アンクは突然手を引っ張られ、一瞬抵抗の色を見せたが、リアを見て敵ではなさそうだと判断したようだ。

 これらのことが同時に起こった。

 遅れて聴衆が動き出す。スマホを取り出す人、呆然とする人、慌てふためく人と様々な反応を見せる。

「ち……お前、フォックスか……!」

 眉間の風穴が見る見る内に治っていく様を見て、興津がそう言った。

「オレに殺されろ! 殺してやるからよォッ!!」

 フォックスの不気味な笑みを見て、興津が逃げ出した。

 フォックスとまともにやり合っても勝ち目がないことなど分かり切っている。

「ちょっとあなた落ち着きなさい。殺すのはやり過ぎだから」

 興津の逃げ道を塞ぐ形でルタが現れ、フォックスを諫める。

「どけッ!」

 興津は走りながら、発砲する。

 銃弾がルタに当たることはない。

 ルタは必要最小限の動き――首を僅かに傾ける――だけで躱してしまう。

「何、だと――!?」

 驚愕で興津の足が止まる。

「殺した方がいい! こんな奴!」

「勝手なことしないで、命がかかってるのよ」

 興津を挟んで、ルタとフォックスが言い合う。

 フォックスは歯ぎしりをして殺人欲求を抑える。……食うつもりなのだろうか。

「ふぅ……嬢ちゃんは、ルタ・フィアンマか……」

「知ってるのね。それじゃあ大人しくしてくれるってこと?」

「ああ、その方が良さそうだ。後ろの奴に捕まるくらいなら……だが」

 そう言うと、興津は懐に手を入れ、何かをした。バチっとその場の電気が消える。

 突然暗闇に包まれ、リストランテ内は騒然となる。

「出口の方に逃げていきます!」

 リアだけは状況を理解していた。人の魂を視て、興津の逃走を伝える。

「逃がさねぇ!」

 フォックスが人や物にぶつかりながら闇雲に突っ走って行ってしまったようだ。

 誰かがスマホの明かりを点けたことをきっかけに、みなスマホを取り出し始める。

 ルタが外に出た時には、興津は馬乗り状態でタコ殴りの目に遭っていた。

「ちょ、もういいから」

 ルタがフォックスの拳を掴んで止める。

「あなたも逃げたりしないで大人しく降伏しなさい」

 興津は何も答えない。

 フォックスは、舌打ちをして渋々従う。

 そうして、リア、アンク、遠藤含め∃機関の人が数人、外に出てくる。

「ラーハムさんとテラさん、それと監禁している子どもたちの解放をしてもらいます。いいですね?」

 とリアが興津に言う。

「おいおい、それがオメェらの正義か。これから民意を測ろうって言ってたのによ。暴力に頼るなんて残念だな」

 取り押さえられているというのに、興津の態度は横柄だった。

「結局、あなたは負けていたのよ」

 とルタ。

「なんでそんなこと分かんだ」

「分かるからです。とにかく降参なんですよね? 言うことに従って下さい」

「解放って言ってもな。ガキどもはともかく、ラーハムは自分から死ぬことを選んだんだぜ?」

 ワタシは形容し難い違和感に襲われていた。

「いえ、それは撤回されます」

「だからなんで分かんだよ」

 何かが、おかしい……。

「分かるからです」

「まーいいや。なら賭けは俺の勝ちか」

 興津は余裕そうな態度である。彼の自信はどこから来ている……?

「……逆じゃないですか? あなたが賭けていたのは」

 逆。そう、賭けは逆だ。興津はラーハムが死を選ぶ方に賭けていた。

 ……未来が変わっている? いや、賭けは過去にしているはずだから、過去が変わっているのか……それは因果の逆転だ。あり得ない。

「なんだ、賭けのことも知っているのか、どういうことだ。内通者か?」

 ――あ。

 興津は右手に銃を持っていた。

 これは、おかしい。


「俺は右腕を撃たれただけだ。利き腕を使えないのは不便だが、それだけだ。重傷じゃない」


 ラーハムにそう告げていた。

 あれは嘘……?

 いや違う。テラを刺殺した際には左手にナイフを持っていたし、わざわざ嘘をつく理由もない。

 どうやらワタシは思い違いをしていたようである。

 ――リアさん……!

「……どうしたんですか?」

 リアは周囲の目を気にして小声で話しかけてくるが、そんな場合ではない。

 ――興津は右腕を怪我しているはずです。だからこの人は、影武者です!

「影武者……?」

 顔貌が瓜二つである上、時間帯的にもアンクが殺された後にテラが殺されたという流れが自然で、そうだと思い込んでしまっていた。

「――っは、ははは、影武者と来たか。面白い。それはどんな力だ。リア・フィアンマ、霊視できるだけじゃなかったのか?」

「どういうこと、リア」

「テラさんが危険です!」

 その一言を受けて、ルタは遠藤に車を持っているか聞き、二人で駐車場に向かった。

 興津をここで拘束すればテラへの被害も子どもの解放も可能だった。しかし、偽物ならば話は変わる。

 テラが殺される時間まで、そう時間はないだろう。

「なんだ、こいつじゃなかったってことか?」

「はい、そうです。フォックスさん、携帯や発信装置があるか調べてもらえませんか?」

「ん、ああ」

 フォックスが馬乗りを解いて、興津を立ち上がらせる。

「おいちょっとそこの。こいつを抑えててくれ」

 近くの∃機関の人たちにそう命令し、彼らはムッとするも興津の腕を抑えた。

 偽の興津は羽交い締めにされながら、上から下まで身体検査をされる。

「……携帯は持ってないな。発信装置もない」

 それは朗報だ。

 リアルタイムで本物の興津の方に情報が伝わってはいないということだ。

 もし伝わっていたら逃げられる恐れがあった。

「おい、本物はどこにいる?」

「さぁな、どこだろうな」

「ふざけてんのか?」

「ホントに知らねぇよ」

「どうやって接触する?」

「それを教えたら逃してくれるのか?」

「なんで逃さなきゃなんねぇ」

「俺を拘束したところでなんになる。所詮偽物だ。人質にするか? 囮にするか? そんなものに使えるかよ。そうだ、お前。雇われたらどうだ? 俺より向いているだろ」

 フォックスが腕を鋭利なものに変形させ、偽の興津の口の中に突っ込んだ。

「悲しい時でも笑ってたいか?」

 ぐぐぐ、と口角が引っ張られる。

 偽の興津は特に暴れることなく、冷ややかな目つきである。

「おい、なんとか言えよ」

 その睨み合いを、∃機関の人たちは緊張感のある面持ちで見守っていた。

 リアは偽の興津からはこれ以上情報が出ないと見切りをつけているのか、自分のスマホを弄りだしている。

 そうしていると、低音を響かせながらルタがバイクで現れた。

 リアはハンドルのスマホホルダーに自身のスマホをセットして、そのバイクに飛び乗る。

 ルタの後ろには遠藤の運転する車があり、アンクとフォックスはそちらに乗車した。

 バイクが急発進し、その後ろを車が追う形となる。

「体力を気にせずに走れたら、一瞬で着くのに……」

 ルタが愚痴を言った。

 スマホには道案内が表示されていて、無慈悲な分数も出ている。それはまるでタイムリミットのようであった。

「一体どういうことなんだ……?」

 後ろの車の中で、アンクがぼやいた。

「さぁな、俺にも分からん。――あんたは知ってんのか?」

 フォックスが応答し、運転席に投げかける。

「なにがなんだかさっぱりだけど、多分アンク君の兄妹を助けに行くんだと思うよ」

 と遠藤が答える。

「それなら、ぼくは……」

 アンクはそれより先は口にしなかった。

 車中は静まり返り、それ以上話す人はいない。

 みな違った不安を抱えている。

 遠藤もアンクも、巻き込まれ、状況を察して追随しているに過ぎない。リアのように未来を知ることもなく、ルタのようにリアに全幅の信頼を寄せている訳でもない。猜疑心を募らせていてもおかしくないだろう。

 フォックスはリアから説明を受けたが、どれほど理解したのだろう。

 リアとルタは確信をもって行動しているがために、焦燥感に駆られている。

 ワタシは祈ることしかできない。

 どうか、間に合いますように……。どうか、殺されませんように……。どうか、みんなが幸せに生きられる未来になりますように……。

 そうして祈っていると、目的地が目前に迫っていた。

「どの階?」

「一階です。中央の広場にいます」

 横倒し寸前の投げやりな急停止をして、ルタは飛び降りた。

 そして、駆ける。

 自動ドアが開く時間も惜しい。そのため、ルタは蹴破ってその施設に入った。

 ガラスが割れて門衛が驚き見た時には、既にルタは通り過ぎている。風が巻き起こったこともあり、暴風によるものと判断するしかないだろう。

 ルタは速度を落とすことなく、入り口から一直線に伸びる通路を突き進み、中央広場に出た。

 ガラスの天井から燦々と陽の光が降り注ぐ中央広場の一箇所に、人が集まっている。

 研究者らしき白衣の人々――

 取り押さえられるテラ――

 手錠に繋がれているラーハム――

 左手にナイフを持った興津――

「――ぉい、何やってんだ! やめろ!」

 ラーハムが叫んでいた。

 ナイフは赤く染まっている。そして、更にテラの腹部に刃が消えた。

 見たことのある光景だ。

 ワタシが見たテラとラーハムの記憶の通りの光景が、そこにはあった。

 未来の可能性を見ているのではない。それは紛うことなき現実である。

 ルタがテラの元に走り、周囲の人間を斬りつけ、テラを抱えて壁際まで飛んだ。

 ワタシはそれを見ている。

「テラ――!」

「……あれ……なん、で……ルタが…………」

 腹部からだくだくと出血し、意識が朦朧としている。

「喋んないで。なんとかするから」

 まるで安静にして、すぐに病院に行けば助かるといった口ぶりだった。しかし、見るからに致死量を超える出血をしているため、助かる見込みが薄いのは誰の目から見ても分かる。

 それでも可能性や希望を失っていない顔を、ルタはしていた。助かる道を考えている。

「大丈夫、大丈夫だから。安心して、まだ助かる見込みはある……! 絶対助かるから……!」

「マダ、ガスカル……?」

 消え入りそうな声でテラがボケる。

「笑えないから……!」

 情感を込めてルタがツッコむ。

 ラーハムは何もできず、悲痛な表情を浮かべ言葉も無く、立ち尽くしている。

 そんな二人の様は研究者一同の一笑を買った。

 と同時に、何らかの合図があったのか、事前の決まりか、全員が一斉に92式拳銃を取り出す。その銃口はルタに向けられた。

 興津は77式拳銃を左手一本で扱っている。トリガーガードを引く動作があるものの、他の者に遅れを取ることなく――

 何十発もの発砲が重なった。それから連続してトリガーが引かれる。軽いトリガープルにカスタムされているようで速射性が高い。

 数秒間、耳をつんざくような銃声が鳴り響く。

 全弾を撃ち尽くし、ホールドオープンになったけれど、弾倉は交換されなかった。状況が何一つとして動かなかったからだ。

 テラを抱きかかえるルタはそのままで、あれだけの銃弾を浴びたはずなのに、怪我一つない。何もなかったかのようである。

 ラーハムは銃弾から彼女らを守ろうと動いたが、その異様さに足が止まっている。

 研究者一同も一体どうしてルタにもテラにも被害がないのか見当がつかず戸惑いを露わにしている。

 銃弾が入っていたのではなく、空砲だったのか――

「まさかここまでとはな――ルタ・フィアンマ」

 興津が転がっている薬莢を見ながら呟いた。

 よく見ると、薬莢に紛れて弾頭も転がっている。

「姉さん、大丈夫ですか!?」

 リアとアンクが駆けつけてきた。

 研究者一同は転がっている弾頭に注意が向き、誰一人としてリアとアンクを気にしない。

「姉さん、手が……!」

 ルタの手の平の火傷を見つけ、リアが心配する。

 ルタはそれには答えず――

「テラ……? そんな、嘘……――テラ! テラ!」

 ルタが叫ぶ。

「――っ!」

 ラーハムは歯を食いしばる。

 テラが息を引き取った。

 間に合わなかった。

「え……」

 そんな……、とリアが凝然とする。

「――ぼくに任せて」

 みなが失意の中、アンクだけは違った。

 そうだ。忘れていた。

 まだ希望はあったじゃないか。助かる術は残っていたんだ。

 アンクがテラの傷口にそっと触れて、

「あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない」

 詩篇九十一篇五節と六節を唱える。

 すると、皮膚が意識を持ったかのように結合していき、痕も残らず傷口は塞がった。

 止まっていた呼吸も再開される。意識は回復していないが、この様子ならば大丈夫そうだ。

「生き返ったのか――! 生き返ったんだな……!」

「ええ、信じられないけれど、生き返ったわ……!」

「良かった、良かった……」

 ルタとラーハムは困惑しつつも、テラが蘇生したことを素直に喜んでいる。

 最悪の事態は避けられた。

 残っている問題も、もうすぐ解決するだろう。

 入り口からは武装した∃機関がぞろぞろと入ってきた。その反対の通路からはフォックスがどかどかと入ってきた。

 製薬会社の面々は囲まれて狼狽える。

「おい、子どもたちはどこだ!」

 フォックスが興津に怒鳴る。それまで施設内を隈無く探していたのかもしれない。

「もう詰みですよ、興津さん」

 遠藤が∃機関の先頭に立って降伏を促す。

 もはや敵は存在しないかのようだ。圧倒的な戦力差のためか、緊張感が解れたような、そんな気さえしてくる。

 興津もその他も諦観の雰囲気が漂い、敵対心は薄れていた。

「今回は問答ありなのか? 遠藤」

 ちょうど太陽が雲に隠れたために、辺りが薄暗くなる。

「もう偽物と十分やったんでこれ以上はしたくないですね」

「そうか。なら、ここまでだな」

 また何か仕掛けてきそうではあったが、一同は大人しく∃機関により手錠をかけられた。

 その最中に、ルタがラーハムの鎖を断ち切る。

「それで、子どもはどこだ」

 フォックスが再度尋ね、

「それと自殺者の遺体もね」

 ルタが付け加える。

 興津は観念したようにアルル・アヴィニョンというプレートが掛けられた部屋の前に行き、指紋認証をクリアした。他の扉と比べて二回り以上大きい扉が、機械音を立てつつ自動で開く。

 ……空気が変わった。硫黄のように臭う冷気が漏れ出て来て、中央広場に立ち籠める。

 その部屋は果てしない闇に支配されていて中を見通せなかった。ただ明かりが点いてないというだけなのだろうけれども、その闇は鬼哭啾々としている。

「なんだ、ここにいんのか? 見えねぇぞ、電気はどこだ」

 フォックスが顔を突き出して中を覗き、その耳元で興津が何かを呟く。

 そのとき、闇が蠢いた。

 ボゴッ、と空気が抜けるような音とともに扉を破壊して、中から塊が飛び出してくる。

 それはまるで、悪魔の眷属――

 それはまるで、人類以前の統治者――

 それはまるで、怒りを起源に持つ罰――

 それはまるで、人を死へ追いやる機構――

 その姿はあまりに地上の生物から逸脱していた。

 見上げんばかりの巨大な竜――サメのような鋭く獰猛な歯を持ち、羊のように瞳孔は横に長く、熊のように太く大きな体躯で、ワニのような厚い鱗があり、蛇のような長い尾があり、六本ある足はティラノサウルスのように退化している。

 異形の怪物だ。

 それが、腹這いになってずるずると蠕動し、這い出てきた。

 地を震わせる程の喘鳴のような叫声をあげ、その場の恐怖は頂点に達する。

 まず先に動いたのは研究者たちだった。一目散に逃げていく。

 続いて∃機関が銃を乱射した。けれど、銃弾は厚い鱗に阻まれてしまう。

 怪物は∃機関に目もくれず、逃げ惑う研究者に痰を吐いた。十数人の頭の上に粘性の高い液体が落ちて全身に垂れる。

 彼らは心底悍ましいと言わんばかりに悲鳴をあげ――発火した。

 ぼうぼうと燃え盛り、悲鳴の色が変わる。汚らわしいという思いから、痛みや苦しみを訴えるものに変わる。

 痰を浴びたら発火したという不可思議な現象を目の前にしてどれだけの人が平然としていられることか。

 その場は阿鼻叫喚の様相を呈していた。

 銃器が効かない事も分かり、ほとんどの人間が我先にと逃げ惑う。先程の痰で入り口までの通路が火炎で塞がれてしまったため、その反対側の通路に人が押し寄せる。

「テラをお願い」

 眠るテラをリアに任せ、ルタが行動を開始した。

 銃弾を超える速度で走り、勇猛果敢に怪物の間合いに入り込み、斬りつける。

 しかし、その斬撃は硬い鱗に阻まれ、傷一つ追わせることができなかった。

 次に比較的柔そうな腹部を狙うが、反応も得られない。怪物はルタを眼中に入れることなく、地鳴りのような低い唸り声を上げ始める。

「こいつ、硬い……。――それなら!」

 広場の外周をルタが駆け抜けたため、中央広場に風が吹き荒れた。

 円を描くように助走をつけ、怪物に向かって跳び――ナイフの先端が瞳に、目睫の間に迫る。

 出せる最大速度、目にも止まらぬ速さ、瞼を閉じる隙はない。

 ナイフが眼球に突き刺さった。

 けれど、眼球を貫くこと能わず――傷を負わせられなかったルタは宙で無防備となり――鞭のようにしなる怪物の尾に打たれ、弾き飛ばされた。

 受け身をとる余裕もなく、一直線に飛んでいく。

 壁に叩きつけられるかと思いきや、寸前でラーハムが滑り込んでルタを受け止めた。

「つつっ……!」

「大丈夫か?」

「……ええ、なんとか。助かったわ」

 ルタが体勢を立て直している間に、怪物はまたもや痰を吐き出した。逃げ惑う人々はそれを浴びてしまう。

 狼狽え、怯え、慌て――そして、発火した。

 その発火により反対側の通路も塞がれてしまい、それぞれ空いている部屋に逃げ込んでいく。

 ……ルタのナイフが効かないのならばどうするべきなのだろう。

 閉じ込めようにも扉は破壊されてしまっている。

 逃げようにも火の中を潜らなければならない。

 ワタシにも何かできないか、何か、何か……何か――


    ✗


 この怪物は私の手に負えなさそうだ。

 本気で斬りつけたというのに、全く効いている様子がない。

 弱点がどこかにあるのか。腕か、尾か――

 それより、怪物の対処ではなくリアの安全の確保を優先させた方がいい。

 テラも依然、眠ったままなため危険だ。

 対応をミスった。

 異様な怪物を前に焦っていたのかもしれない。まずは、リアとテラを外に避難させるべきだった。

 今からでは遅い。人を黒焦げにしてもまだ燃え続ける炎が、通路を塞いでしまっている。

 研究者たちがばらばらに逃げたことをみるに、外に出る方法は二つの通路以外、他にはなさそうだ。

 ――今なお、怪物が雄叫びを上げている。

 私はリアとルタの位置を把握し、そこに意識を集中させた。

 その方向に痰が飛んでくれば即座に動けるように――


    ✗


 燃えている……

 人が、燃えている……

 おそらく∃機関の連中と、製薬会社の連中が黒く焦げる。片方は数年間、俺を利用して、テラに危害を加えた連中だ。幸いなことに助けが来て、テラは九死に一生を得た。死んでいてもおかしくない状況だった。俺はそのことに非常にムカついている。騙していたことよりも、俺を殺そうとしたことよりも、そのことに怒りを覚えている。

 だが――

 俺は近くに落ちていた銃を手に取って怪物に挑んでいた。これ以上被害が広がらないために、動いていた。

 よくは見えなかったが、テラの友人らしき少女が眼球を攻撃し、そのときに怪物は反応を示していた。だから俺も眼球を集中的に射撃した。すると、怪物が俺の方を向いたので、人のいない場所に誘導してやる。これ以上、燃やされる奴を増やす訳にはいかない。

 射撃をし、痰を避け、射撃をする。そうやって怪物の視線を集めた。射撃で死なないのは厄介だが、できる限り殺傷を避けたい俺としてはありがたい。

 しかし、問題はどうやって確保または鎮圧をするかだ。


    ✗


 消火なんて、ぼくはやったことがない。できるかどうかも分からない。だけれども、やらないという選択肢はなかった。そもそも、選択肢なんて最初からない。ぼくは気づいたら動いていた。

 燃え盛る人々の近くに寄って、手をかざし、ぼくは祈った。流石に火が自然と消えるなんてことが起こるのか少しばかり疑いの心は抱いていたのだけれども、実際そうすると、火は鎮まり、火傷も治っていった。まるで魔法みたいに火が収縮していくのだから、驚きだ。

 ぼくはそれを繰り返す。燃え盛る炎の近くにいなければならないからとても熱く、いつもより時間がかかったのだけれど、弱音を吐いてはいられない。なんとか耐えて、人々を癒やして回った。

 完治した人々は火傷のショックで気を失っている。これはよくあることで、大きな傷であるほど意識は混乱しやすい。ぼくの奇跡目当てで来た人々の中でも持病を治しに来て、気絶してしまう人もいた。だけれども、意識を失うのは長くても数時間。妹のスラミスのように眠り続ける例は他にない。ここにいる人々も数時間すれば起きるはずである。

 問題は、怪物の痰が再度この人たちにかかってしまわないか。ラーハムが怪物を誘導し、それを見てナイフを持った少女も協力しているようだから、安心したいところだけれど、見ている限り怪物を仕留めることは難しそうだ。

 いや、他人の心配よりも、ぼくはぼくのやるべきことに集中しよう――と思っていた矢先に、ブラックマスタードが消えた。手袋を確認してみても、周辺を探しても、ブラックマスタードはなかった。これはつまり使い切ったということである。

 まだ燃え盛る人々はいるというのに、ぼくはただの無力な子どもになってしまった。

 

    ✗


 オレは今、怪物の腹の中にいる。

 なんでそんなところにいるのかというと、興津に耳元で「ガキどもは怪物に食わせた」って言われたからに他ならない。リアって少女の言を信じるとすると子どもたちは胃液で溶けたりはしないだろうし、仮に溶けてても全部じゃなければ助かる可能性もあるし……まぁだからそんなこんなでさっと気体化してさっと口の中に入り込んでさっと奥まで進んで今に至るということだ。

 だけど、子どもたちはいなかった。

 興津って奴は信用がならないクソ野郎みたいだからそれに関してはそんなに驚かなかったんだが、驚くことに、怪物の腹の中は何もなかった。本当に何もなかった。この怪物は文字通り空っぽだ。

 口から食道を通って胃に到達したと思ったら、そこに胃液はなかったし、それどころか腸に繋がる幽門もなかった。閉じてたり隠れてたりするかもしれないから、そこかしこを押したり突いたりしまくってみたが、何も起きず。考えてみると、この胃の大きさは尋常じゃなくでかく、怪物の頭からケツまでのデカさに近い。つまり、腸やら腎臓やらがあったとしてもやたら小さいことになる。

 一体どういう原理で生きているのか……。

 そもそも、この怪物は一体全体なんなんだろうな――


    ✗


 ――あれは一体なんなのでしょう。

 姉さんもラーハムさんもアンクさんも、自分にできることに取り組んでいます。フォックスさんはどこに行ったのか分かりませんが、きっと子どもたちのことを優先して動いているのでしょう。私はというと、壁際で縮こまっていました。傍らには眠るテラさんがいます。

 私にはこの自体をどうすることもできません。静観することしかできません。スラミスさんから情報を細部まで教えてもらっている身として、何か手伝えることはないかとも思いますが、あんな怪物がいるということは知りませんでした。私の知識の中にもあのような怪物は該当するものがありません。

 現実離れした生物ですから、ブラックマスタードや製薬会社が行っていた実験と関わりがあるのでしょう。一番始めに考えつくことは、ブラックマスタードによってあの姿になったということ。しかし、それもどうなのでしょう。実際にブラックマスタードで非現実的な現象を目の当たりにしていますが、人があのような怪物になるのでしょうか。人が怪物になったとしたのなら、それは何故なのでしょう。怪物になることを望んだのでしょうか。それともこうなるように製薬会社の方々が強要したのでしょうか。それともブラックマスタードの暴走でしょうか。まだ分かっていないことも多いブラックマスタードですから、それは十分有り得ます。

 ……などと考えても、怪物の対処に役立つ発想は浮かびません――


    ✗


 あれが何であるのか、必死に考えた結果、あることを思い出した。

 テラの記憶――グレゴール・ザムザ的不条理系とテラが称した伊庭龍也の漫画。それは怪物になってしまった男に降りかかる不条理を描いたもの。その漫画に描かれていた怪物は、今目の前にいる怪物に似ていた。

 ――リアさん! あの怪物は伊庭さんです!

「伊庭……伊庭龍也さんですか?」

 ――はい、彼の漫画にあの怪物が出てくるのを思い出しました。

「そう、ですか――」

 リアはルタとラーハムを見て、考え込む。怪物が伊庭だと分かったとしても、解決には程遠い。けれど、

「分かりました。ありがとうございます」

 その情報だけでリアは何かを確信し、

「姉さん――!」

 ルタを呼んだ。

 ルタは秒で駆けつけ、

「何、リア」

「これを、使って下さい」

 リアはルタにBMを渡す。小西汀が置いていったものだ。

「持ってきていたのね」

「これを飲ませるか掛けるかすれば、人間に戻ると思います」

「元は人間なの? あれ」

「はい。伊庭龍也さんです」

「失踪してた一人ね。彼だけ遺体が見つかっていなかったのはそういうこと……分かったわ。やってみる」

「任せました、姉さん」

 任せなさい、と頼もしい台詞を言ってルタは消えた。

 機を窺いながら、走り回る。怪物が口を開けたら飛び込むつもりだ。

 リアは飲ませるか掛けるかと言っていたが、ルタは本来の噂を信じて確実な方を実行するようである。

 だが、中々口は開かれない。

 口が乾いたために唾液が出ないのか、唾液を撒き散らしても一向にラーハムに当たらないため学習したのか――体を使った攻撃に切り替えてしまっている。

 どうしたものか――と思っていると、ゆっくりと口が開かれた。

「あのクソ野郎は何処行った!?」

 口の中からフォックスが出てきた。上顎を持ち上げ、鋭い眼光で興津を探している。

「そのまま固定してて!」

 ルタがフォックスに言う。

 フォックスがそれに反応を示した時には、既にルタは怪物と対面していた。

「――人に戻りなさい」

 ルタはそう言うと、蓋が開いたBMの小瓶を投げた。小瓶から液体が撒き散らされながら、怪物の口に入って行く。

 加速し助走をつけてから飛んだルタは、怪物の上顎に手をつき、背中を転がるようにして勢いを殺し、地面に戻った。

 怪物は今までで一番大きな声で叫び、暴れる。

「うおっ――!」

 とフォックスが驚きながら避難する。

 みなが固唾を呑んで見守る中、怪物はぶくぶくと泡を立てるように収縮していき――それが収まると、そこには一人の男性が倒れていた。

 それはやはり伊庭龍也であった。

 同時に、通路を塞いでいた火炎も収まり、黒焦げの焼死体が何十人と横たわっている。

 その多くは製薬会社の人々で、∃機関の人々の犠牲は極僅かであった。意図的ではないだろうが、アンクが救った人々の多くが∃機関だったためだろう。

 焼死体の中には、手錠のままの興津の姿もあった。

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