二章 There is no fear in love. ――ラーハム、テラ

 暗闇に覆われた。

 暗くて、昏くて、冥くて、闇い――

 一寸の光も入る余地がなく周囲は黒く染まっている。街の灯りも、星々の輝きも、届かない。

 先に何があるのか見えないために、一歩も動けなくなった。

 でも、だからって私は取り乱さない。

 私にとって、これはなんてことのない日常。

 またか、と思うだけのこと。

 だってこれは、ただの隠喩で、ただの主観の話。

 つまるところ、全てがつまらなく感じるという、それだけのこと。つまるところなのに、つまらない、となんだか分かりにくいけど……。

 唐突に空虚が訪れるというのは、私にはよくある。

 綺麗な風景を見ても、何も感じない。人との会話も、心が入らない。アクション映画を見ても、心躍らない。バラエティ番組を見ても、笑えない。休みの日さえ、心待ちにできない。好きな料理も、美味しいと思えない。何に対しても、無感動。

 やる気や活力が失われ、何もできなくなる。無為な時間を過ごすしかなくなる。時間がもったいないと感じながら、それでも何かをやる気力は湧いてこない。

 友人と話している時にそうなっても、気を遣われないように気遣い、誤魔化す。

 きっとこんなのは思春期にはよくあることなんだと思う。みんなは違うのかな……。

「はぁ……」

 古い自傷痕を擦りながら、ため息を吐くと、白い靄となって漂い虚空に消えた。

 私は今、高層ビルの屋上の縁に立っている。ヘリポートがあるような、でかいビルだ。

 眼下には新宿の街並みがある。夜空から煌めきを奪って、地上に偽物の星空を作り上げている。

 空虚が訪れると、私は決まって高層ビルの屋上で街を見下ろすという奇行にでる。

 人は見えないほど小さくなっているけど、街はその実在を示している。

 みんな生きている。

 幸せか不幸せか分からないけど、何万、何十万の人々の光を私は目にしている。

 だから辛くても生きよう――とかは思わない。

 だからって、死のうと思ってるわけでもない。

 足元を見ると、そこには境界があった。

 生と死の境界。

 一歩踏み込めば、そこは死の世界。

 ちょっとだけゾクっとした。今朝自殺した岩城と私との違いは、この一歩分しかないんだ。

 結局この行為は精神的な自傷行為なのかもしれない。

 死に触れることで生きている実感を得ようという、浅ましい発想なのかもしれない。

 そんなことを思う。……冷たい客観視。まるで他人事のよう。

 ……まったく受験生だってのにこんなところで何してんだろうね、私は。

 それもこれもあいつが悪い。あいつがいればまだ私の気分も違ってたかもしれない。

 私にはラーハム・ヴェレッドという名の幼馴染がいる。

 ラハムは悪く言うと正義マンで、良く言うと憐れみ深い奴だった。困っている人がいれば自然と手を差し伸べていたし、共に傷つくことさえ厭わなかった。

 でも、身体が傷つくことはなかった。

 だってスーパーマンだから。マン・オブ・スティールって言ってもいい。

 鋼のように硬い肉体を持っていて、成人するまでは絶対死なない。

 よく分からないけど、そういう種族なんだとか。

 その種族はずっと人類に紛れ込んで、ばれないように暮らしていたらしい。

 そのことを私にだけ教えてくれた。

 私は、それはそれは驚いた。

 サンタクロースの来ない家に育ったからか、早熟にも現実的な視点を私は獲得していたし、あらゆるファンタジーやオカルトは現実には存在しないと思っていたんだ。

 だから驚いた。わくわくもした。心躍った。ガンフィンガーもした。

 そんなびっくり人間ラハム君だが、現在、行方不明になっている。

 エレンコス事件の数ヶ月後に行方をくらまし、それから音信不通だ。

 連絡の一つもよこさないとはどういう了見なのか。不届き者だ。許せない。

 私はいま退屈しているんだから、助けに来て欲しい。正義マンなんだから、憐れんで欲しい。

 ビルから飛び降りたら、さながら白馬の王子のように颯爽と私を救いに来てくれたりしないかな……。

 ……ドブ川のような思考回路だ。

「ラハムの馬鹿ーーーーーーーーーーー!!!」

 力いっぱい叫んだ声も、虚空に消えた。でも、少しはスッキリした。


    ⧠


「こんばんは。ナンパしてもいい?」

 ビルからの帰り、新宿駅に向かっている途中で声を掛けられた。

 一瞥。マッシュヘアのチャラそうな男。

 軽い会釈をして通り過ぎたが、

「ナンパしてもいいかだけ聞かせて。まじで、それだけ」 

 男は私の横に来て、再度交渉を試みた。

 非常に億劫だ。

 こういう輩は断る労力というものを知らないのか。いやきっと知っていてそれに漬け込んでいるんだろう。

「いや、私高校生だよ?」

「でも十八でしょ?」

「なんで知ってるの?」

「そんな気がしたんだよな。運命じゃね」

「それは雑すぎ」

 あと十八歳ならOKってこともないと思うのだけど。

「軽く茶だけでもどう?」

「そういう気分じゃない」

「どういう気分なの?」

「早く家に帰りたい気分」

「あ、だからそんな早く歩いてんだ。競歩選手なのかと思ったわ」

「そうだよ」

「そうなの? まじで?」

「あなたも?」

「じゃあ、俺も目指そうかな」

「よしじゃあ一緒に練習しようか。私右の道行くから、左の道行きな」

「一緒じゃないっしょ、それ。ウケる。てかナンパ慣れしてね。何回ついていったことあんの?」

「一回もないし」

「まじで? 俺が初なんだ」

「残念だけど、そうはなんないね」

「ガードかてぇ、なぁ、家に帰ってもつまんないでしょ。飯おごるよ? どう?」

「他の人探して」

「ラーハムに会いたいだろ?」

 足が止まる。そこで初めてちゃんと男の顔を見て対面した。

「今なんて言った?」

「ラーハムって言った。ラーハム・ヴェレッド。興味ある?」

「あー俄然興味が湧いてきたよ。何、知り合い?」

「まーちょっとね。ついてきてくれたら、色々教えてあげる」

「ここじゃダメなの?」

「ダメ」

「どうして」

「人通りが多いだろ。ゆっくりできるとこに行こう」

 今年の初詣に引いたおみくじを思い出した。確か、待ち人来たると書いてあったはずだ。

 上半期はそれを信じて久しぶりの再開にどう対応すべきか思案に暮れていたが、一向に現れる兆しがなく、忘れていた。

 これはつまり、おみくじの約束が果たされようとしているということだろうか。

 だけど、この男は怪しすぎる。

 わざわざ人気のないところに誘い出そうとしている。いや、むしろ露骨すぎるくらい怪しいから逆に信用できるか。いやそんなむしろは現実にはないか。

 行くべきか、行かないべきか、どちらの選択がいいのか……。

 そうして悩んでいると、男は溜息をついて苛つきを顔に出した。

「仕方ないな。穏便に行こうと思ったんだけど――」

 男はポッケから刃物を取り出した。

 男はその刃物を私に突きつけた。

「いいか、叫んだら刺し殺すからな」

 男はドスの利いた低い声で囁いた。

 男は刃物の先端で私を突っついた。

 私は固まってしまった。

 頭の中では、走って逃げろだとか、周りの人に助けを求めようだとか、この状況を打開するべく、ぐるぐるぐるぐる思考が回転している。

 でも、身体は動いてくれない。

 ザクザクザク、ザクザクザク、刺される未来、殺される未来……。

 死にたくない。

 あれこれ考えていたけど、取り越し苦労極まれり。行かないという選択肢は最初からなかったようだ。

 私は男が歩けと言ったら歩き、右に行けと言ったら右に行く。

 どうにか逃げる隙を探っていたけど、好機は訪れず、平面式駐車場に着いた。

 スモークガラスが貼られているハイエースのドアが開いて、そこに押し込められる。

 中には二人の男がいた。後部座席には髪の長い細身の男。運転席には角刈りのガタイのいい男。

 ハイエースに押し込められた後、角刈りさんがマッシュさんを車外に呼び、長髪さんと二人きりになった。

 長髪さんは無言で拳銃をいじりつつ、ちらちらと私を見ている。

 監視のつもりかと思ったが、違う。視線が太ももにいってる。

 羞恥心よりも嫌悪感。見ていることがバレていないとでも思っているのか。

 不愉快だ。こんなことなら肌の出ていない服を着てくれば良かった。

 私はお前のために生足を露出している訳ではないぞ、と心の中で威嚇する。

 表面上は、手を置いて多少隠す程度。流石に拳銃持っている相手に強くは出れない。

 あー最悪だ。

 居心地の悪い二人の空間が嫌で外を眺めると、マッシュさんと角刈りさんが話し込んでいる姿があった。

 ペイシタナトスさんと連絡が取れないだとか、アンクさんのためにやるしかないだとか、そういうことを言っている。なんのことだかさっぱりだ。

 話が終わって、角刈りさんが精算機に行き、マッシュさんが後部座席に入ってくる。

 すると、マッシュさんが長髪さんを見て何をやってるんだと怒鳴り、長髪さんを車から引きずり出し、喝を入れ始めた。

 そういうことをしてはいけないだとか、邪な心を追い出すんだ、とかなんとか。

 どうやら変態な目で私のことを見ていたことを責められているようだが、意味が分からない。なんなんだこいつら。

 ――まぁいっか、それよりも。

 私を車に置いて、三人の男は別のことをしている。逃げる好機だ。

 運転席側の外に二人いるから、私はその反対の助手席側からこっそりと出る。

 辺りを見回しても、高い塀やビルに囲まれていてこちら側から逃げることはできなそうだ。

 ハイエースは、平面駐車場の中央に停まっている。中央は二列になっていて、お尻を合わせる形で、ハイエースの後ろにも車が停まっている。

 屈んで後ろの車に移動し、車の陰から出入り口を覗く。

 出入り口には精算機があって、角刈りさんがちょうど精算を終えたようだ。

 タイミングを見計らって、向かいの車に移り、その裏に回る。フェンスと車の隙間に入り、顔だけ覗かせて、三人の様子を見る。まだ車の外で話していた。

 この場所から出入り口までは十メートルほどだろうけど、隠れる場所がない。ちょっとでもこっちを見られたら即バレてしまう。

 暗いし、速く行けば多分大丈夫……よし……。

 覚悟を決めた。早くしなければそれこそ車にいないことに気づかれてしまう。

 私はフェンスギリギリを走った。

 それから右に曲がる。その道は一方通行で、車は左にしか出られない。

「あれ、いないぞ!」

 誰かが後ろで叫んだ。

 思ったよりも早く気づかれた。だが構ってられない。

 私はとにかく走った。

 ドクン、ドクン――心臓の鼓動が異常だ。まだ走り始めたばかりなのに踊り狂っている。

 走ったからじゃない。緊張や恐怖からの鼓動。

 ルタみたいに速かったら不安もなかったけど、私の足の速さは残念ながら平均的。

 追いつかれるかもしれないという恐怖、撃たれるかもしれないという恐怖が全身を蝕む。

 その恐怖を利用して走った。緊張を振り切って走った。体力を無視して走った。信号も味方して青だった。そのまま真っすぐ走った。

 ――でも、追いつかれてしまった。

 男たちは車を使って私を抜き去り、目の前で止まった。私の目論見は外れ、奴らは平気で逆走してきたのだ。道交法を知らないのかもしれない。

「この犯罪者!」

 罵声を浴びせ、踵を返す。

 前からはマッシュさんが走って追ってきていた。

 後ろからは車がバック運転で迫ってくる。

 挟み撃ちにされてしまった。

 私は咄嗟に左手の四季の路という場所に入り、そこを一心不乱に駆けまくる。狭い歩道で車は入れない。

 駆けながら考える。

 区役所通りに出る事もできるが、どうするか。でも、車で先回りされているかもしれない。それでも大通りに出て、道行く人に助けを求めるべきだろうか。でも、都会の人なんてスマホ越しでの関心しか示してくれないと思う。良くて私が拉致られる場面を警察に届けてくれて事件の早急な解決に役立つくらいだ。それにもし助けてくれる人がいた場合、それはそれでまずい。だって相手は銃を持ってる。その人も巻き込まれるかもしれない。「半グレの抗争か 通行人撃たれ死亡」ってネットニュースになってしまう。それは良くない。

 一瞬で判断を下して、四季の路を突き進む。

 私が向かう先は交番一択。それしかない。

 四季の路を左折して新宿ゴールデン街G1通りを行く。

 もう少し、もう少しで、セーフティゾーンだ――

 と思ったが、通りの先に長髪さんが現れた。後ろからはマッシュさん。

 うそ、読まれてた――!

 私は焦って、路地に身体を滑らせた。狭い路地で、身体を横にしてやっと通れる。

 狭い路地、狭い路地、狭い路地、と何度も行ったり来たりしたが、回り込まれて、結局捕まってしまった。

 ……無念。

「手間取らせやがって。次は殺すからな」

 耳元で言われて嫌だった台詞ランキング一位が更新された。

 ちらほらいる通行人が訝しげな目線を送ってきているから、殴られたりはしなかった。ありがとう通行人。

 やっぱり通行人を信頼して助けを求めるべきだったかもな。

 腕を掴まれ強引に引っ張られていく様を、通行人はどう思っただろう。

 ホストとそれに入れ込む女? 酔っ払った女をぞんざいに扱うDV男? まぁそんなとこか。場所が場所だし。とほほ。

 諦めかけたそのとき、後ろから猛スピードで車が突っ込んできて、男たちはびっくりして路肩に飛び退いた。

 再び逃げるチャンスが訪れる。でも、逃げ遅れた。車が今にも私を轢こうと迫っている。

 終わりかと思ったが、そうではなかった。

 その車は私を轢くことなく、私を避けて停車する。

 白のクラウン。

 助手席のドアが開けられ、運転席の男が手を伸ばして言った。

「乗れ!」

 私はその手を掴んで車に飛び乗った。

 シートベルトを締めて、助手席に座り、ドアを閉める。と、すぐに車は発進した。

 ドクン、ドクン――心臓の鼓動が異常だ。踊り狂っている。走ったからじゃない。

 安堵、緊張、困惑、積怒、驚喜……私の今の感情はどれに当たるだろう。おそらく全部だ。

 感情が目まぐるしく変わっていって追いついていない。

 運転席に幼馴染のラハムが座っている。

 私の白馬の王子様は本当に窮地を助けてくれた。

 白い馬ではなく、白い車だったけど。

 ありがとう、神様。

「追ってきたな」

 鬼王神社前交差点に差し掛かったとき、ラハムが言った。

「え」

 振り返るとハイエースの姿があった。突進する勢いで迫ってくる。

「嘘でしょ……! このままじゃ事故っちゃうよ!」

「掴まってろ。振り切る」

 慌てている私に対して、ラハムは冷静沈着だった。

「カーチェイスする気……!?」

 メーターがぐんぐん上がっていって、身体が後ろに引っ張られる。

 車線変更を繰り返して車をどんどん追い抜いていく。

 擦れてるんじゃないかってくらいすれすれの車幅を、法定速度を無視して走り抜ける。

「やばいよ、やばいよ! ぶつかる、ぶつかる!」

 全身がぶるっと震えた。

 そこいらのアトラクションよりある満点スリル。

 アシストグリップを掴んだ左手を右手で抑え、後ろを確認する。

「あ、後ろ詰まって来てるから撒けるかも」

 暴走車の出現により安全運転の気運が高まっているのかもしれない。

「――て、またあいつら逆走始めた!」

 反対車線の通行車両は急な逆走車に大慌てで追越車線を空けていく。

 クラクションの嵐だ。

 新宿職業安定所の信号の前の中央分離帯の切れ目で、こちら側の車線に舞い戻る。

 その際、仮説的に置かれている三角コーンとバリケードに後輪が衝突。安全第一と書かれたバリケードが無惨に舞う。

 ハイエースはクラウンの後方に肉薄した。

 窓が下がり、拳銃が出てくる。

「ラハム、銃!」

 ラハムは険しい顔で車線変更した。

 ハイエースが空いた追い越し車線に進み、私たちの右側に横付けしてくる。

 確実にタイヤを撃ち抜くべく狙いを定め――

 第一大久保ガード下で引き金が引かれた。パンッ、とつんざく音が電車の音で掻き消える。

「当たった? 当たってないよね?」

「ああ、問題ない」

 運良く一発目は外れ。

 でも、すぐに二発目の照準を始めている。

「テラ、急ブレーキをする、構えろ」

 構えるとはどうすればいいのか分からないが、思うままに対応した。

 座席に身を沈め、シートベルトを強く掴んで、脚に力を込める。

 北新宿百人町交差点で急ブレーキがかかった。完全に勢いが止まる前にハンドルが左に切られ、小滝橋通りに入る。

 ハイエースはこちらに対応しきれず交差点を直進し渡りきっていた。

 私たちは小滝橋通りを直進する。一つ目の信号を直進、二つ目の信号を直進。

「来ないね。すぐにUターンしてくると思ったけど」

「そのまま周りを警戒しておいてくれ」

「うん、分かった」

 新宿大ガード西交差点を右折して青梅街道に入る。

 新都心歩道橋下交差点で左折。

 ――交差点中央に差し掛かったとき、ラハム越しにハイエースがちらりと見えた。

「アクセル!」

 テンパってそれしか言えなかったがラハムはそれを汲み取ってくれ、既の所で回避できた。危うく横っ腹をやられるところだった。

 ハイエースは突進してきた勢いで都道414号の反対車線に入り、そこから東京都道新宿副都心八号線に合流して、またも私たちの後ろにつく。

 あの突進は完全に殺しに来ていた。

 いや、正確には殺人のつもりはないのかもしれない。私が負傷しようが、死亡しようが、それは目的の副産物。

 目的はラハム確保。私はそのためのただの餌なのだろう。

「大丈夫か」

「なんともないよ」

「今のは助かった」

「助けられたのはこっちだけどね」

 東京都道新宿副都心八号線から北通りに入る。

「あ、信号が! どうしよう」

 目先の信号が赤に変わってしまった。

 それまで幸運にも止まることなく進めたが、ここに来て遂に赤に阻まれてしまった。

 ラハムはそれでも落ち着いていた。ほとんど焦りを表さない。

「突っ切ろう」

 ぶっ飛んだ発言を聞いて、やっぱ内心焦ってるんじゃないか、とそう思った。

 でも実際問題それ以外の選択肢は浮かばない。

 お行儀よく赤信号を待っていたら横からタイヤを撃たれるか、玉突き事件に発展する。

 みんなで赤信号を渡れば怖くはないけど、みんなが追従してくれるはずもなく。

 ……ドリフトからのUターンもあるけど、どっちがましだろう。

 ラハムは真剣な面持ちで車の流れを目で追っている。

 これはホントにやる気だ。

「やれるの?」

「俺を信じろ」

「わかった」

 信号待ちで停止している車を右から追い越し、クラクションを鳴らしながらアクセルを踏む。

 車間の隙間を断つかのように通り抜ける。

 西新宿サインリングの下――

 所々電気の点いた高層ビル群――

 LOVEのオブジェ――

 黄色く灯る、冬木のイルミネーション――

 私たちを見下ろす三つの赤信号――

 白く光るヘッドライト、赤く光るテールランプとブレーキランプ――

 交差車線から北通りに入りかかっていた車は、まるで救急車が来た時のように空間を開ける。

 開かれた道を、閃光の如く通過する。

 後ろを見ると、ハイエースも速度を落とすことなく、私たちが開けた道を通過していた。

「ちっ、あいつら、法律を守る気がないらしいな」

「それに関してはあんたもでしょ!」

 新宿中央公園北交差点を左折して、公園通りを直進した。

 ハイエースは左折時に速度を落とし、直線で距離を詰め、一定の距離を保ち追尾してくる。

「右左折繰り返せば撒けるんじゃない?」

「いや、それは危険だ。周りを巻き込みたくはない」

「ここまでも結構ぎりぎりだったけどね」

 首都高速4号新宿線に入ると、ハイエースが再び距離を詰めて横に並んできた。

「撃ってくるよ!」

「安心しろ。奴は素人だ。当たるわけない」

「フラグ臭いこと言わないで!」

 再び、乾いた銃声が鳴り響く。

 二つの車は止まらない。二発目もタイヤに命中することはなかった。フラグも銃弾も回避だ。

 ラハムの言う通り素人らしい。反動で大きく腕を持っていかれている。走行の揺れもあるし、ラハムも当てられないように速度を調整しているようだ。

 この状況ではタイヤに命中させることは難しそうだけど、何発も撃てばどうなるか。乱射しないから弾数は少ないと思いたい。

「今だな」

 ラハムが言う。

「シートベルトを外せ」

 困惑しながら、私はシートベルトを外した。警告音が鳴る。

 ラハムが左手で私を運転席側に引き寄せた。ラハムの胸に顔を埋める形になる。

 ラハムは右手でハンドルを思いっきり左に切った。

 車全体に衝撃。それと轟音。ハイエースに車体をぶつけたのだと頭で理解した。

「よし。大丈夫か」

「……うん」

 助手席に戻り、シートベルトをする。

 左手側に横付けしていたハイエースはいなかった。

 後ろを確認すると、ハイエースが横倒しになっている。

 代々木パーキングエリアの分岐路に車体をぶつけたようだ。

 壊れた窓からのろのろと三人が出てきているところが最後に見えた。

 危機は去った。やっとほんとに安堵できる。

 私は胸を撫で下ろし、ラハムの実在を改めて確認した。……夢ではなさそうだ。

 ラハムは昔と然程変わっていなかった。大人びて見える厳格そうな顔つきも、恰幅のいい身体も昔のまま。背丈は変わっている。一九〇はありそうだ。

 ラハムは無言のまま、運転を続けている。今は安全運転だ。

 なんだか急に緊張してきた。

 さっきまで普通に話していたのが嘘みたいだ。

 想定外の再会過ぎた。何を言ったらいいか分からない。

 というか、なんで無言なんだ。気まずいんだけど……。

「助けてくれてありがと……」

 とりあえず、お礼を口にした。

「お礼は必要ない。俺が巻き込んだんだ。すまない」

 逆に謝られてしまった。

「やっぱラハムが目当てだったんだ。どういう輩なの?」

「それは俺も分からない」

「見たこともないの?」

「ああ」

 再び無言。

「……なんで一回も顔見せなかったの?」

「お前を巻き込まないために距離を取った。だが、それも無駄だったようだな」

「連絡くらいくれても良かったのに……」 

 ぼそっと独りごちる。

 三度無言。

 ラハムは顔面を接着剤でコーティングしているかのような真顔で運転をしている。

 だんだん腹が立ってきた。ムカつく。なんか私だけ会いたがってたみたいじゃないか。なんでそんな冷静なんだ。久しぶりの再開だっていうのに落ち着きすぎている。

 というかさっきからなんで一問一答なんだ。

「てい!」

 右ストレートをラハムの横腹に叩き込んだ。

「何してるんだ」

 一切、顔に変化がない。

「痛みを感じない種族へ暴力を振るっても、暴力系ヒロインになると思う?」

「衝撃がないわけではないからな」

「でも痛くないでしょ」

「痛くはないが。というか何だ」

「何だはこっちの台詞じゃ! もっとこう、久しぶりに会ったんだから、こう……あるだろ!」

「あるだろ、と言われてもな」

「七年会ってないんだよ!? 会話のテンポおかしいじゃん! 熟年夫婦並じゃん!? 冷たくない? 色々聞きたいこととかさ、会話に花咲かせようとかさ!」

「……あー、元気にしてたか?」

「それじゃあ思春期の娘に対する父親じゃん!」

「夫婦から親子になったな。次は兄弟らしい台詞でも言えば良いのか?」

「なんで家族関係で徐々に距離縮めようとしてんの! もしかしてあれ? 久しぶりで緊張してるの?」

「ああ、緊張してる」

「え、あ、そうなの……」

 ドキドキ、ドキドキ――!

 まさかそんなに素直に認めるとは思わなかった。可愛いかよ!

「運転免許、取り立てでな」

「ふぇ……?」

 そういう緊張……?

「いやちょっと待って、それであんな運転してたの? それで私に、俺を信じろ、とかドヤってたの!?」

「ドヤったつもりはないが」

「信じらんない……」

「実際どうにかなったからいいだろう」

「あんたね……」

 だからこっちを全く見ず、運転に集中しているのか。

「それで、どこ向かってるの? というかこの先どうするの?」

「とある製薬会社に向かってる。そこの社長と懇意にしててな。匿ってもらう」

「社長? なにそれ黒い関係?」

「黒いって決めつけるな。あれは確か……両親が蒸発する前だから、十年くらい前か。交通事故に遭いそうになっている人を身を挺して助けたんだが、それを目撃されてしまってな。それ以後、研究対象として見られている」

「面白い関係じゃん。確かに黒くない。でもそれ大丈夫なの?」

「研究と言っても、注射針も刺せない、毒物も効かない身体だ。始めの頃はレントゲンやらMRIやらをやらされたが、今では経過観察程度だ」

「それは製薬の協力になるの?」

「あれは社長の趣味だな。製薬に役立っていることはないだろう。両親も少しの期間協力していたが、成果が出たという話は聞いたことがない」

「ラハムって七年間どこで何してたの?」

「主に傭兵や要人警護をやってた」

「あーやっぱり」

 想像する限り、最もあり得る可能性がそれだった。

 普通だったら未成年で何やってるんだって思いそうだが、ラハムの場合は未成年でないとそういうことをやる意味が激減する。

「それってさ、成人までの期間限定でしょ? てことは、もうそろそろそういうこともできなくなるんだよね? あれ、もしかしてもう?」

「いや、まだだが、その兆候は現れている。数日前だ、50口径のスナイパーライフルで撃たれてかすり傷ができた。傷口はすぐに塞がったが、自分の血を見たのはそれが初めてだ」

 ラハムの種族は十八から二十辺りで普通の人間に近くなる。

 文字通り成人となるのだ。

 血が出たということは人間に近づいているということ。

「だから、狙われ始めた……? でもなんでこの時期なんだろうね。恨みで殺したいならもっと後のほうが簡単だろうし、利用したいならもっと前のほうがいいような……。この時期のが捕まえやすくはあるんだろうけど……連中の目的とかも知らないの?」

「ああ、全く知らない。まずは狙ってくる連中の情報を集めないとな」


    ⧠


 製薬会社はオフィス街にあった。高層ビルがにょきにょき生えている。

 私たちはその中の一つのビルの地下駐車場に入って、駐車して、エレベーターに乗った。ラハムが十階のボタンを押す。ボタンの数は四十まである。

 超高層ビルなだけあり、道中もエレベーター内も高級感があった。

 ポーン、と音がなって扉が開く。絨毯貼りの廊下が左右に伸びていて、黒曜石のような壁が光天井を反射させている。

 廊下の先には自動ドアがあり、机や椅子が並ぶオフィスとそこで働くスーツの人たちが見えた。

「ねぇ、私ホントにこんなとこにいても平気なの?」

「ああ、問題ない。社員にも事前に通達してあるそうだ」

 言いながら、スマホを取り出して確認するラハム。

「社長が顔を見せるはずだったんだが、どうやら取り込み中らしい」

 宿直室に案内する、と先導したそのとき、私のお腹が可愛くなった。

「ぅ……にゃー」

 恥ずかしさのあまり猫の真似で誤魔化してしまった。恥の上塗りだにゃ。

「先に飯にするか。ここには社員食堂もある」

 というわけで社員食堂に行くことに。

「ここも朝昼夕、勝手に飲み食いしていいらしい」

「至れり尽くせりで逆に怖くなってきた」

 フードコート並に広い社員食堂では社員がちらほらと夕食を摂っていた。

「いろんな料理あるんだね」

 入り口のショーウィンドウを眺める。日本食、イタリアン、中華、エスニックなど様々な料理の見本が陳列されている。

 ――……興奮してきたなと思っていると突然、食器が割れる音が響いた。

 見ると、おそらく社員さんが料理に顔を突っ込んでいる。その足元に割れた皿とぶちまけられたスープ類。

 周りの人も、私たちも何事かと思っていると、一人、二人とばたばたと地面に倒れていく。ある人は料理を運んでいる途中で、ある人は咀嚼中に、ある人は救助しようとしているときに、意識を失ってしまう。

「口と鼻を抑えろ」

 ラハムの言うことに即座に従ったが、駄目だった。gabaチョコを食べたとき以上に眠くなってきた。頭が重く、視界がぼやけ、今にも倒れそうだ。

 いや、もう倒れていた。膝が地面についている。その感覚が伝わるのも朧気で遅い。

「ラハム……」

「大丈夫だ。睡眠ガスかなにかだ。死にはしない。安心して眠れ。俺が絶対にお前を守る」

 混濁した意識の中、それでも聞こえてきた言葉に安心して、私は意識を闇に委ねた。


    ✗


 嘘をついた。

 どんなガスを使用したかは分からないが、死にはしないというのは嘘だ。これだけ即効性の高い代物なら、窒息死する者が出ないとは言い切れない。そもそも人を絶対に殺さずに無力化する物は存在しないのだ。

 もし彼らが死んだら、誰の責任だろうか。当然、俺を狙う奴らの責任だろうが、巻き込んだ俺の責任でもある。だから、できるなら、一人一人の無事を確認したい。しかし、それは現実的ではない。自分とテラを守ることで精一杯だ。

 だから、祈ることしかできない。誰も死なないでくれと思うことしかできない。

 テラが意識を失って少しの間もなく、武装した奴等が三人、食堂に突入してきた。頭にはバリスティック・ヘルメットとガスマスク、体にはタクティカルベスト、手には短機関銃MP5、拳銃も腰に下げている。

 俺は椅子の陰から三人の様子を窺う。三人はそれぞれ倒れた人々の顔を確認して周っていた。と、奴等は唐突に弾丸をプレゼントし始めた。固定観念というのは厄介な代物だ。俺が狙われているとばかり思っていたから隠れたが、違ったようだ。

 俺は思わず飛び出し、三人に接近していた。無鉄砲なその行動は、三人を驚かせる効果はあった。一人は慌てて俺に発砲、乱射し服に穴を開けてくれた。一人は撃つなと言った。一人は無線に繰り返しこう言った。「ラーハム・ヴェレッド発見。十階食堂」

 そうこうしている内に、三人は手足から血を流して地面に突っ伏すこととなる。俺が奴等の腰から抜き去ったUSPタクティカルでそうさせた。急所は外したから、出血は少ない。

 足元で痛みに悶える三人を眺め、俺は憐れに思った。彼らの傷が治るのには何ヶ月かかるだろうか。殺人を厭わない連中であろうと、俺はそう考えてしまう。フィクションにおいてもそうだ。人を殺すことを躊躇う主人公でも、人を傷つける行為は平然とやってのけ、それは問題視されない。どちらも貫かねば中途半端だ。だがそうは言っても、それをしようとするなら、自らを他者に明け渡さなければならない。信念をかなぐり捨てなければならない。その他者が悪であろうと、殺傷の悪に染まらないために、自らを滅ぼさなければならない。

 俺はその理想論に従うことはない。多くのフィクション同様、できるだけ殺さずに、無力化を試みる。だが、努々忘れない。俺は盾であり、矛ではないことを、忘れない。俺は自らは傷つかずに相手に傷を負わせられる特権的立場にいることを忘れない。致命傷は避けても、死ぬことがあることを忘れない。俺のこの身体は誰かを守るためにある、盾であることを忘れない。誰かを守るための盾として、矛になっているということを忘れない。

 念頭に置いてある倫理観が俺を刺激する。まったく、こんな精神性でよく戦場を駆け回れたものだ。倫理観と感情論を脇に追いやる才能がなければ精神をやられていただろう。

 目的を吐かせたかったが、そうはいかない事情があった。増援の足音がそのとき既に聞こえてきていた。三人で、なおかつ不意を突いたから制圧できたが、人数が多ければ拘束される可能性は増す。テラに流れ弾が被弾する可能性も増す。

 俺は急いでテラの元に戻り、持ち上げた。左手は頭、右手は膝裏。四十後半程の重さを腕が認識する。

 出入り口に増援が到着した。階段で逃げることも、エレベーターで逃げることも不可能になった。俺はそいつらに背を向けて、銃弾がテラに当たらないようにする。銃弾が豪雨のように飛んできた。待て、という怒号が聞こえたが、それは無理だ。

 なぜなら、俺はもう壊れた窓から飛んでいた。

 ビル十階分の高さからの自由落下。テラを振り落とさないように力を込めた。足から着地し、膝で衝撃を逃がす。衝撃は足裏を伝って腰まで来たが、それより上には来なかった。テラは何も無かったかのように安らかに眠っている。


    ✗


 ――幼い頃、両親が離婚して母子家庭になった。

 それからというもの、家には知らない男の人がよく来るようになった。母は弱い人だったんだ。だから、私は外で遊ぶことが多くなった。

 私はそのときから暗闇を倒すべく奮闘していた。あれは全ての幸福を盗む泥棒だから、盗めないほどの幸福を手に入れようと藻掻いていた。

 あらゆる娯楽を試すために外に繰り出し、それの一貫でラハムに興味を持った。

 もともと学校でも他の人がやりたがらないことを率先してやる変態だと思っていたけど、学校外でもそういったことをしているのを発見し、後をつけてみたところ、人助けのためのパトロールをしていることが分かった。

 それからラハムに協力して私も一緒にパトロールをしたりするようになった。といっても子どもができる人助けなんてたかが知れていて、お遊戯に過ぎなかったけど。

 ラハムにはそれだけでなく、私の幸福追求に付き合って貰うことも多かった。もちろん他にも友だちもいたし、女子同士ならではの娯楽もあるからラハムだけではないのだけど、それでもラハムとは一番遊んだ。

 それは偏にラハムの家庭環境が家と似ていたからかもしれない。実際にどうかは知らないが、夜遊んでも何も言われず、お金も持っていた。他の友だちでは、例えば遊園地に行くだけでも、親が同伴してくる。私はそれが嫌だった。

 私のお金事情はよそと変わってる。母の給料日に、食卓に野口か樋口か福沢のいずれかが必ず置いてあった。それが私が好きに使って良いお金で、どれが置かれてあるかという法則性はない。誕生月に野口のときもあった。あれはとても悲しい思い出だ。基本的には、福沢の月が多かったから生活するのに困ることはなかった。

 幸福追求の活動は虚しくもどれも敗北で終わった。娯楽で溢れる現代でも、私に取り付く暗闇を圧倒することは叶わなかった。

 暗闇は空虚を与え、空虚は退屈を作り出し、退屈は苦痛をもたらし、苦痛は怒りを誘う。感情的になることさえ虚しく感じられたら良かったのに、そこまでではなかったから、私はやるせない思いを抱えて悶え苦しんだ。

 心を落ち着かせるには、自傷行為をするしかなかった。私は生きるために自分を傷つけた。そうしないと心が壊れてしまいそうだった。

 なんでそんな生き方しかできないのだろうと思うこともあった。みんなは自傷をしないで生きているのに、どうして平気なんだろうと、そう思った。

 きっとみんなは心と体が仲良しなんだ。私はみんなと違って仲が悪い。だから、体を傷つけると心が軽くなるんだ。もしかしたら間違った体に入っちゃって、早く出て行きたいのかもしれない。

 そうして、私の体の裂傷は一本、また一本と増えていった。痛いの痛いの飛んでいけというおまじないを大人からかけられたことのない私は、痛いの痛いの飛んで来いというおまじないを習得していたのだ。

 傷は隠した。憐れまれるのが嫌だった。同情されるためにやっているんじゃない。

 それでも見られることはあった。

 例えば、母の男に強姦されそうになったとき。あのときほど自傷痕を見られて良かったと思ったことはない。そうでなければ未遂では済まなかった。

 友達に見られたときは必死に誤魔化した。居た堪れなさから自傷したくなるから、あれは良くない。負のスパイラルだ。

 ラハムに見つかったこともある。それも行為中に。

 あの日も家に見知らぬ男がいたから、私はナイフを持って外に出た。普段は家の中でしか自傷をしないけど、我慢ができなかった。

 家の近くの公園の、人気のない場所で、自分の体にナイフを押し当て、引いた。皮膚が裂け、ツーと血が溢れ流れ落ちる。

 至福の時。

 嫌なことも忘れ、叫びたくなることも忘れ、心の膿が溶けていく感覚。

 この感覚を得るために私は不幸を与えられているんじゃないかと思う程。

 夢中になって周囲の警戒を怠る程。

「何してるんだ」

 声がかかって、慌てて隠したけど間に合わず。

 声の主が姿を現す。それがラハムだと分かり、逃げようとするも腕を掴まれる。

「離して!」

 叫んでも離してくれない。ラハムは血の滴りと手に持ったナイフを見て、何かを察したような顔をする。眉根を寄せて、言葉を選ぶように口が開いては閉じる。

 最悪な気分だった。一番知られたくない人に知られてしまった。いっそこのまま死んでしまおうか。

「なんでこんなことしてるんだ」

 言葉を選んだにしては愚問だった。バカ正直にそんなことを答えられるくらいなら自傷行為なんてしない。

「ほっといて。ラハムには関係ない」

「いや、関係はある」

「関係ないじゃん! 私の勝手でしょ! もう離して!」

「ああ、分かった。離してやる。だが約束しろ。もうこんなことはするな、いいな」

「はあ? 意味わかんない」

 正直ムカついていた。勝手に私の事情に踏み込んだ上、お得意の正義感で私に命令してくるなんて。

「なんでそんな約束しなきゃなんないの!」

「もしそういうことをしたくなったんなら、俺を刺せばいい」

 そう言って、ラハムはナイフを持った私の手を自分の腹部に持っていく。

「ちょ、待って、あ――――――え?」

 かなりの力で腹部を刺しているのに、服を貫いても血が出ない。

「どういう、こと……?」

「俺ならいくら刺そうと殴ろうと構わない。俺はそういう存在なんだ。だから、この先、もう自分を傷つけることはやめろ。その代わりを、俺が勤めてやるから」

 そんなことを急に言われて、私はパニックになった。夢でも見ているのだろうか。でも、さっき自傷した部位がじくじくとまだ痛い。

 自傷をするなと言われてしまった。

 代わりに俺を刺せと言われてしまった。

 なんで、なんで、どうして、どうして――疑問がいっぱいあった。

「どうして……そこまでするの」

「お前が傷ついているところを見たくないからだ」

 ああ、そうか。ラハムはそういう奴だった。他人の痛みを引き受けてしまうほど、憐れみ深い奴なんだった。

 私は自分のために自分を傷つけ、ラハムは他人のために自分が傷つくことをなんとも思ってないんだ。

 それから私は自傷行為をしなくなった。

 ラハムといる間は暗闇に苛まれることもなくなった。だからラハムが、私の自傷の代わりを勤めたことは一度もない。

 

    …


 目が覚めると、そこには知らない天井がある。

 寝惚け眼でぼんやりそれを見ていると、声がかかった。

「起きたか」

 ラハムが隣のベットに座っていた。

 半身を起こして周囲を見る。どうやらここはホテルみたいだ。

 ――あー、そういえば製薬会社でガスかなんかを吸って気絶したんだった、私。

「どこか痛むところとかないか?」

「うん……? 平気。ちょっと右足痛いくらい。捻ったのかな」

「なに? 見せてみろ」

「え、いや、いいよ」

 そう言ってるのに、ラハムは靴下を脱がし素足を視診し始めた。

「痣にはなってないな。いつから痛くなった」

「多分、走って逃げてる時に」

「ここは痛むか?」

 オタワアンクルルールに則って触診。

「いや、痛くない」

「骨折ではなさそうだな。捻挫か。待ってろ」

 ベッド横の台の上に置いてあった救急箱からテーピングを取ってくる。

「ホテルって救急箱あるもんだっけ?」

「いや、買っておいた」

「準備がいいことで」

 足首を直角にし、ラハムが私の右足関節をぐるぐると手際よく巻いていく。

「慣れてるね」

「必要だったからな」

 それは仲間の治療とか応急処置とかで、ということだろう。

 どことなく戦士の顔をしてる気がする。知らんけど。

「ラハムは……この件が片付いたら、どうするの?」

 成人したとしても、ラハムの種族は一般的な人より身体能力が高い場合が多いそうだ。

 そうなると、ラハムはまたどこかにいなくなってしまうのではないか。

「さぁな。考えてない」

「そっか……」

「テラはどういう進路なんだ? もうそろそろ高校卒業だろう」

「進学するよ」

「なら、こんな事に巻き込まれてる暇はないな」

「ラハムも大学行ったら?」

「今からじゃ無理だろう」

「一浪すればなんとかなるんじゃない」

「勉学からは遠のいていたからな、分からん」

「ラハムならなんとかなるよ、絶対。一緒に大学ライフとか面白そう」

「そうか?」

「なんで、いいじゃん。なんなら昔みたいにパトロールする? 大学内の治安維持とか」

「要人警護から大学のパトロールとは、落差が凄いな――よし、これでいいだろう」

 テーピングが巻き終わった。

「ありがと。こんなんなんぼあってもいいからね」

 少しばかりの恥ずかしさから変なことを口走ってしまった。

 上から靴下を履いて、ベッド横に綺麗に揃えられていたスリッパを突っ掛ける。

「飲み物ある?」

「飲み物ならそこの冷蔵庫か、棚の下の自販機にある」

 棚の下の自販機?

 聞き慣れない言い方に興味を示し、棚を開けると、そこには見たことない自販機があった。

 一人用冷蔵庫くらいの大きさで、商品ごとに取り出し口が分けられていて、一本ずつ収納されている。その隣にも同じような自販機があった。そちらは商品が飲み物ではない。

 一瞬硬直してから再び周囲を確認した。

 修学旅行で沖縄に行った時に泊まったホテルよりも華美で、妖艶な雰囲気がある気がする。

 まさか、ここは……? いやまさかも何も、こんな自販機がある時点でもう……!

 急に緊張感が高まってきた。顔が熱い。こういうホテルは初めてだった。

「どうした?」

 棚を閉じて冷蔵庫から水を取り出しただけだけど、焦りが伝わってしまった。

「いや、その……」

「ん?」

「ここって……あの……」

「なんだ、はっきり言わないと分からない」

「ここって……いかがわしいとこなのでは?」

「ああ、場合によってはそうだな」

「ど、どうして普通のホテルじゃないの……?」

「それは……分かるだろ」

「え、待って、ほんとに!? そういうこと!? まだ心の準備が――!」

「昏睡状態の女を抱えてビジネスホテル入ったら通報されるかもしれないだろ」

「――あーそっか。そうだよね!」

「何を焦っているんだ?」

「焦ってないし!」

 これじゃあまるで私が変態みたいじゃないか。憤慨憤慨ふんふんがいがいだ!

 よし、もう性的な想像は排除しよう。ラハムも全くこれっぽっちもそういう気はなさそうだから、気にしないように努めよう。

 私は変態じゃないからすぐさま冷静さを取り戻したのであった。

 それからお預けになっていた夕食を注文した。

 待ってる間、私が眠っていた時のことを教えてもらった。まさか眠っている間に銃撃戦があったとは。今日はなんて映画的な日なんだろう。せっかくだから見たかったな。

 喋っていると、呼び鈴が鳴った。

「あ、ご飯もう来たのかな」

「ここのシステムは二回目のチャイムで取りに行けば良い。スタッフが玄関の配膳台に注文した商品を置いてくれているはずだ」

「へー、そういうシステムなんだ……ところで、ラハムってこういうとこ初めてじゃないの?」

「初めてだが、それがどうした?」

「いや、どうもしないけど」

 二回目の呼び鈴が鳴った。

 内扉を空けると玄関に通ずる短い廊下があって、配膳台に頼んだ料理が乗っている。

 ただそれどころではない事態だった。玄関に見知らぬ男性が立っていた。

 黒いワイシャツ、無精髭、タレ目の鋭い目つき――

「ら、ら、ラハム……不審者が――」

「ああ、俺が呼んだ人物だ」

「え、じゃあ……」

「どうも、嬢ちゃん。良い反応するね。――に対してラーハムは石仏のようだなぁ。せっかく人がドッキリ仕掛けたっていうのに」

「この人が製薬会社の社長さん?」

「ああ、そうだ」

「俺は興津だ。よろしくなぁ」

 軽快で適当な挨拶とともに、社長さんは部屋に入ってきた。

 社長さんはベッドに座り、私とラハムはソファーに座り遅めの夕食を頂きつつ、

「それで?」

 ラハムが訊く。どうやら社長さんが何かしらの情報を持っているようだ。

「今日の一件で大体は把握できた。まず、ラーハムを狙っている勢力は二つ、これは分かるな?」

「ハイエースで追っかけてきた若い連中と、会社に乗り込んできた武装した連中か」

「そうそいつらだ。若い方はアンクファミリーの連中で、武装した方は∃機関そんざいきかんだ」

 あーそういえばアンクさんがどうたらとか言ってたなー。

「アンクファミリーっつーのは、まぁ、新興宗教みたいなもんだ。そこまで脅威じゃない。無視しといても問題ないだろう。問題は∃機関だ。こいつらはちょっと面倒だ」

「政府の組織だろう」

「察しが良いな」

 ――え? 嘘、私たち国に狙われてんの!?

「奴らはなんなんだ?」

「俗っぽい言い方をすんなら、オカルト研究機関ってとこじゃないか」

「オカルト?」

「お前みたいな特殊な人間の研究とか、超常現象、不老不死、そういった普通じゃねぇことを研究する組織だ」

「それで俺を研究しようって魂胆か?」

「まぁそうっちゃそうだが……まずは昔話でもするか」

「なんだ急に」

「何千年も前、あるところに身長が低く、筋肉量も少なく、脳も小さい、二十も生きられない短命な種族がいました。彼らは弱く、狩りをするのも一苦労。このままでは絶滅してしまうと神に縋り、祈りました。すると祈りは聞き届けられ、神が種を与えました。それを食べたら、あら不思議。身長が伸び、筋肉が増し、脳も大きく、身体は強靭になりました。寿命もなく、不死身になったのです。しかし、そうして繁栄をした彼らは調子に乗り、神の裁きによって成人以降の強靭な肉体を奪われましたとさ。めでたしめでたし、つってな」

「その話はどこで?」

「お前の両親だ。代々語り継いでいる話らしい。まぁ、そういう宗教臭い話は抜きにして、科学的な話をしよう。我々の研究チームはお前らをホモ・レグルスって呼んでるんだが、そのレグルスの身体にはちっちゃい、こんくらいの黒い腫瘍みたいのがある」

 人差し指と親指でサイズ感を表す。

「からしの種ほどの大きさだな。レグルスの伝承と照らし合わせると、いつだかにその種と共生関係を始め、ホモ・サピエンス以上の肉体を手に入れたってとこだろう」

「ブラックマスタード……」

 私が呟く。

「そう、それだ嬢ちゃん。知ってんのか」

「なんで知ってるんだ?」

「風の噂で。でも私が知ってるのは瓶に入ってる奴だけど」

「元は名前の通り小さい種だ。それを水に薄めて配っている輩がいるんだ」

「水に薄めてどうなる」

「願いが叶うんだって」

「アンクファミリーのアンクが元の種を使って奇跡を起こしているって噂もあるな。目が見えない奴を治しただとか、びっこ引いてる足を治しただとか、病気を癒やしただとか、耳を聞こえるようにしたとか、終いには死人を生き返らせたとか……そこまでいくと眉唾だが、現にレグルスの異常性を目にしているとあながち嘘でもないように思えてくる」

「ということは、連中の目的は俺の体の中にあるそのブラックマスタードとかいう奴を手にしたいということか。だが、待て。それをなぜアンクが持っている」

「∃機関から抜け出す時に盗んだんだろうな」

「∃機関の一員だったのか?」

「いいや、研究材料だな。お前らと一緒だ」

「ら?」

 ――私も?

「エレンコス事件は奴らが引き起こした。目的はホモ・レグルスを血縁に持つ者を過酷な環境に置くことによる変化の観察だ」

「え、私もそのホモ・レグルスの家系だったんですか?」

「嬢ちゃんの場合は遠縁だろうな。ラーハムなら知ってるだろ、ホモ・レグルスとホモ・サピエンスの子がどうなるか」

「普通の人間……ホモ・サピエンスが生まれる」

「そう、全くホモ・レグルスの要素を持つ子どもは生まれない。体からもブラックマスタードの欠片すら見当たらない。ブラックマスタードにもDNAが発見されているが、まるで利他的な遺伝子だと思わないか? 遺伝子を残そうとする気がない。だが、それも今の技術だと発見できないだけの可能性もある。稀に特異な力を覚醒させる者もいるからな」

「つまり、エレンコス事件は秘めた能力の覚醒を促すための実験だったというわけか」

「ああ。だが失敗に終わってる。その実験で力を目覚めさせたのは一人だけ。その一人にも逃げられている」

「アンクが抜け出したっていうのは?」

「アンクもレグルスの血筋だったために軟禁されていた。これは最近の話だ。エレンコス事件とは関係ない。そんでそっから逃げ出し、組織を作っているってとこだな」

「どうして野放しになっている」

「……ブラックマスタードが再現性がないことが原因なんじゃないか?」

「再現性がないのか」

「今のところはな。噂通りアンクがブラックマスタードの力を引き出しているなら、それを観察している、とかそんなとこだろう。組織力がある訳でもないからな、何かまずいことに使われそうだったら簡単に潰せるだろうし、実際そうするだろうな」

 さっきから聞いていると∃機関というのは相当酷い組織のようだ。国の行政機関だという話なのに非人道的な横暴さが許されて良いのか。

 いやむしろ、国だから横暴にできるのか。

 ブラックマスタードが噂通り万能薬的であるのなら、その目的のためなら手段を選ぶべきではないのか……難しい問題だ。

「この際だからはっきり言っておこう。もう察しはついていると思うが、俺を含め、製薬会社の社員の一部はかつて∃機関に所属していた」

「だろうな」

「なんだ案外あっさりしてるんだな」

「特に過去のことでとやかく言うつもりはない。円満退職でもなさそうだしな」

「はは、そのせいで命を狙われるハメになった」

「用心深いあんたのことだ、対策はしてたのだろう」

「ああ、こうなることも想定していたさ。だから普通の製薬会社を装ったし、備えてはいた。だが被害は出た」

「あんたは?」

「俺は右腕を撃たれただけだ。利き腕を使えないのは不便だが、それだけだ。重傷じゃない」

「それなら良かった」

「あと聞きたいことはあるか?」

「俺が狙われた理由は分かったが、テラは特別な理由があるのか?」

「いや単に人質だな。幼馴染だってことは知られているからな」

「やはりそうか。今出回っているブラックマスタードは幾つだ?」

「二つ……実質一つか。話に出てきたので全部だ。アンクが種自体を持っていて、その幹部が水に溶かした状態で所持してる」

「それは――俺の両親だな?」

「……その通りだ」

「両親はどうなった」

「ホモ・レグルスからブラックマスタードを抜き取ったら、急激に衰えて死ぬ。伝承が真実なら、元に戻っているってことかもな」

「そうか……」

 その一言で会話は止まった。

 ラハムは難しい顔つきで何やら考え込んでいる様子。

 私も考える。私の立場は非常に曖昧だ。これから先も狙われるかすら分からない。ラハムのことだから、私でなくても、例えばその辺の通行人を人質にしても代わりが効くのだけど、おそらくそこには気づかれていないのだろう。

「社長、俺のブラックマスタードを抜き取ってくれないか」

 ラハムがとんでもない事を言った。

 でもそんなまさか自分から死を望むなんてあり得ないから、これは頓知的な言葉の綾的な比喩的な何かだろう。

「それは、どういう意味だ?」

「社長、あんたならブラックマスタードを研究して人々のために使ってくれるだろう?」

「話聞いてたか? ブラックマスタードを抜き取ったら、死ぬんだぞ?」

「ああ、聞いていた。その上で頼んでいる」

 本当に言葉通りの意味だったみたい。

 自己犠牲精神もここまでくれば感心を通り越して気味が悪くなる。

「本当に言ってんのか?」

「ああ」

「よく考えた方がいいんじゃねぇか?」

「考えた。その上でこれが最適だ。そうは思わないか?」

「そうとは限らねぇだろ」

「やってはくれないのか?」

「覚悟は、できてんだな?」

「無論だ」

「仕方ねぇな……」

 ん? なんかこの流れおかしくない?

「今ブラックマスタードの摘出手術をすんなら、かなり荒っぽいやり方になる。それに時間もかかる。それでもいんだな?」

「問題ない。面倒をかけるな」

「今に始まったことじゃないだろ」

「え、ちょっと待って下さい。なんで、すんなり受け入れてるんですか。もっと止めてくださいよ。ラハムも何バカなこと言ってんの」

「と言われてもな、こいつが覚悟決めてるんなら、俺が止めたところでじゃないか?」

 それはそうかもしれないけど……。

「テラ、気持ちは分からなくもないが、おそらくこれが一番いい選択だ」

「絶対それはない!」

「俺の命で多くの命を救える可能性があるなら、俺は喜んで命を捨てる」

「えードン引きなんだけど……待って待って、混乱してきた」

 え、これ私がおかしいのか? そんなことないよね。

「まぁ、とりあえず別の隠れ家を用意してるから、まずは移動しよう」


    ✗


 社長に連れてこられた場所は、研究所のような場所だった。

 俺とテラはその中の一つの部屋に案内された。三畳ほどの狭い部屋に硬いベッドが一つだけ。ここは元々、精神病棟として作られたが、建設途中で会社が倒産して廃墟化していたところを、社長が買い取って改装したという。独居房のような狭い部屋はそのときの名残りなのだろう。

「一応、準備してくるから。それまでじっくり考えるんだな。後悔ないようにしろよ」

 俺とテラは部屋に残された。テラはさっきから暗澹とした表情で口を閉ざしている。

 他人の視点で考えれば、俺の行動は狂気と映るかもしれない。テラが閉口するのも無理はない。しかし、俺はこの考えが間違っているとは思わない。だから、掛ける言葉がなかった。このような状況に巻き込んだことについては心苦しい限りだが、俺が死ねばテラが狙われることもなくなる。

 俺は物心ついた頃には、自らの身体に関する特異性を教えられ自覚していた。それが成人すると失われることも知っていた。だから、成人するまでにそれを活かすべく動いてきた。他人が耐えられないことを、俺は耐えられた。他人が嫌がることも、苦痛ではなかった。人を救うことが当たり前だと思っていた。

 目の前に助けられる人がいて、それを助けるのは普通のことだ。ただ、一般人は自分が不利益を被る可能性がある場合は躊躇してしまう。俺は殆どの場合、不利益になることがないから躊躇もない。人助けは俺に課せられた義務のようなものだ。

 死ぬことは俺にとっては不利益かもしれないが、俺の命で多くの人が助かるならその方が世の中のためだ。俺が生き続けるというのは、助けられる命を見殺しにすることと変わらない。

「……ねぇ」

 テラが重い口を開いた。

「なんだ」

「……ほんとに、やるの?」

「ああ」

「やめて欲しいって言っても、聞いてくれないの?」

「どうしてだ」

「どうしてって……だって七年ぶりに会えて、一日も経ってないのに……」

「人々のためだ」

「ラハムが命かける必要性ないじゃん……」

「……俺はこの七年間色んなところに行った。そして目の当たりにした。貧困、飢餓、病気……俺一人では解決できない大きな問題が世界に蔓延している。それらの解決の一助になるなら、俺は喜んで命を差し出す」

「一助にもならないかもしれないじゃん」

「可能性の話をしたら、何の行動もできなくなる。現にアンクという奴が行った奇跡がある。ホモ・レグルスの身体性の説明も妥当性がある」

「それでも……それでも…………」

 テラは今にも泣き出しそうだった。

「私、ずっと待ってたんだよ? 七年間ずっと、ずっーと……待ってた」

 七年分の思いが、目に籠もっている。

「置き手紙もなしにいなくなるから、またエレンコス事件のときみたいに監禁されてるのかなって不安でもあったし、でもラハムが二回も監禁されるなんて考えにくいし、何の理由があって音信不通なのか分からなかったから、自分からいなくなったのか、誰かの命令に従ってるのか、とにかくずっと心配してた。でも、ラハムのことだから、きっと無事でいるだろうって思って。いつかふらっと帰って来たり、どっかでばったり会ったりするだろうなって、よく新宿とか渋谷とか人の多い駅でぶらぶらして、ラハムがいないか探してた。空を見る度にラハムも同じ空を見てるかな、それとも遠い場所にいて全然違う空を見てるかなって思って、海に行ったら、この先にラハムがいるのかなって思って、地球が丸くなかったら望遠鏡でラハムを探してたろうなってバカみたいなこと考えて……そうやって、七年間、ずっとラハムのことを考えてた。友だちと遊びに行った時なんかも、あぁラハムがいなくなってなかったら今隣りにいたのはラハムだったのかなって嫌な考えが浮かんで。病んで自分を傷つけたくなるときでも、いつかラハムが帰ってくるって希望があったから耐えられた。だから、帰ってきてくれて、久しぶりに会えて、すごく嬉しかった。ラハムは違うの? ラハムはヒーローだから、いろんな人を助けてるけど、私もその中の一人に過ぎないの? もしそうなら、私を放っておいて欲しかった。声をかけないで欲しかった。無責任に優しい言葉を投げかけないで欲しかった。そのせいで私は七年間苦しんだ。ラハムにとって心の傷は眼中にないの? 刺したくなったら俺を刺せってラハム言ったよね。でも私はラハムを刺したい訳じゃない。代わりにこれからも一緒にいたい。やりたいことが溜まってるんだから。まず、友だちの紹介だってしないと、ルタにリアに飛羽に二弥に……そうだ、明日クリスマスだよ。パーティーしよ。それから初詣にも行って、神様にお礼しに行かなきゃ。それからそれから節分とか。これはラハム鬼だね。花見とかも……七年間できなかったこと、やりたいこと、いっぱいあるから、まだ死んじゃダメ。死んじゃやだ。……お願いだから、死ぬなんて言わないでよ……」

 テラの気持ちは痛いほど伝わってきた。俺の中途半端な正義感が彼女を傷つけたということも理解した。俺が思った以上に、彼女を苦しませていたようだ。

 だから、俺は告げる。

「悪い、聞いてなかった。もう一度言ってくれ」

 テラは絶望した顔をして、

「私、ずっと待ってたんだよ? 七年間ずっと、ずっーと――」

「本当に繰り返すな。今のは冗談だ。重い女の感情論を二回も聞く気はない」

「……」

 今度こそ絶望して黙った。

 こうなったのは俺の責任だ。俺はテラを救うことはできなかった。俺への悪感情を抱いてくれた方がこの場合はいいだろう。あとは彼女自身の問題だ。


    ✗


 ラハムが摘出手術に向かって数時間が経った。

 私はひどくやる気を失い、項垂れていた。気づいたらもう正午だ。

 一睡もできなかった。

 気は沈んでいるのに、日は昇ってくる。窓から燦々と降り注ぐ日差しが鬱陶しい。

 その日差しから逃げるように、独房のような部屋からふらふらと出た。

 白衣を着た研究者がちらほらと見える。

 この建物は中央に円形の広場があり、その外周に部屋がある構造だ。広場は吹き抜けになっていて、四階までの部屋の扉がすべて見えている。天井はガラス張りで、より日差しがきつい。

 日陰に吸い寄せられるように壁に沿って歩いた。

 部屋の扉にはプレートがあり、研究室、準備室、アルル・アヴィニョンと続く。これは何の部屋だろう……そんなの、どうでもいいか……。

 そうして歩いていると、実験室に行き着いた。中からチェーンソーのような音とガタガタと震える音がしている。

 社長さんは言っていた。成人前の状態では時間がかかる、と。おそらくまだラハムの皮膚を切り裂くこともできていないのかもしれない。

 流石のラハムでも、摘出には痛みが伴うのだろうか。それなら、痛みを理由に中止をしないだろうか。

 ……きっと、ラハムは痛くても我慢するんだろうな。

 目眩がした。幼馴染がこの扉の向こうで、人々のために自殺を図っている。

 心が張り裂けそうだった。

 なんで、こんなことになったんだろう……。

 どうして、こんなことになったんだろう……。

 意味が分からなかった。訳が分からなかった。私には信じられなかった。理解できなかった。納得できなかった。理屈は分かっても、それが正しいと思えなかった。

 間違ってる。絶対、間違ってる。

 嫌だな、本当に……。

 死んで欲しくない……。

 そう思っても、私には止める力なんてないんだ。

 ドアの前で塞ぎ込んでいると、スマホが震えた。

 見ると画面にメッセージ受信の通知が表示されている。地球のアイコンに「ピーナッツ」というユーザー名。

 そういえば、項垂れている時に今の状況を伝えていたんだ。

 彼女とは、修学旅行で沖縄に行った時に、ガマで転びそうになったところを助けてもらって知り合った。

 彼女も知り合いがどっかに行ってしまって、探しているのだという。その共通点から私たちは仲良くなり、連絡先を交換した。

 メッセージの内容を見ると、励ましと応援が長文で来ている。何より諦めないことと、自分の気持に嘘をつかないことを強調していた。

 嬉しかった。けど、自分の気持ちを正直に伝えても、ラハムに響くことはない。本心の吐露は無駄に終わった。

 これ以上何かを言ったところでラハムを困らせるだけ。

 諦めないことが何になるだろう。それは単なる傲慢ではないか。

 長文の中のある文に目が止まった。たった一つしか願いが叶わないとして、自分の心に残った気持ちが本心だと書かれていた。

 たった一つ、叶うとしたら何を思うだろう。

 これまでのことを伝えたい――いやそれは違う。

 これまでのことを聞きたい――いやそれも違う。

 これまでの分も遊びたい――いやそれも違う。

 償って欲しい――それは全然違う。

 さっきラハムに言ったことのほとんどが余計な願いだったのかもしれない。

 私の本心は……?

 足がズキリと傷んだ。ラハムが巻いてくれたテーピングが靴下から覗いている。

 ……ああ、そっか。

 私は自分の過ちについて気づいた。その愚かしさを恥じた。

 そして、立ち上がる。

 たった一つの願いを、ラハムに伝えるために。


    ✗


 ホモ・レグルスとホモ・サピエンスでは親子の関係が異なる。サピエンスの場合、親は子が成長するまで養い、守り、知恵を与える必要がある。レグルスの場合、親が子に知恵を与え、子は親を養い、守る関係になる。

 二十世紀前半までは一般的にレグルス同士で婚姻し、成人する前に子を儲けた。それを連綿と続けることにより、家族を守る子どもが一人はいる状況を作っていた。

 文明の発達により、養い、守る必要性や合理性は薄れていった。近代に入り、個人主義的になり、家族の関係とレグルス同士のネットワークは空洞化し、恋愛や結婚が自由になっていった。それにより、徐々にレグルスはサピエンスに取り込まれ、俺が最後のレグルスになった。俺の両親はレグルスの血を残すという考えはなく、妹を産もうとはしなかった。

 これらのことを俺は両親に教わった。

 レグルスは合理的な生存戦略で種を存続させてきた。家族関係を見ても、愛で結ばれているとは言い難いだろう。

 テラと一切連絡を取らなかったのは、このことも関係しているのかもしれない。

手術台に横たわり、数時間、そのようなことを考えていた。ノコギリが俺の身体を切り裂こうと回転しているが、一向に刃が入らない。皮膚の薄い部分ですら、いまだに抵抗を続けている。

 急遽用意して貰ったために火力が足りないのか、それともやはり時期尚早だったか。周りにいる白衣の研究者らは別の方法を検討し始めている。

 社長は別の仕事のため今はいない。最後まで反対し、心変わりしたらすぐに止めるように指示していた。

 この行いが正しいという確信はあるが、同時に心残りもある。テラのことを考えると、決心が揺らぐのだ。だが、これが他者に対する哀れみと同じか、それとも違うのか、判断がつかない。

 ――ドンドンドン、と扉が力強く鳴った。

「ラハム!」

 テラの声だった。

 まだ諦めていなかったようだ。研究者らにノコギリを止めてもらい、扉越しに返事をした。

「言い忘れたことでもあったか?」

「こんなバカな真似を止めに来た。ここを開けて」

 先程とは打って変わり、自信に満ちている。……面倒だな。

「何を言ったって無駄だ。俺の決心は揺らがない」

 俺は平気で嘘をついた。むしろ嘘をつくことで決心を固めようとしていた。

「口で言っても分からないなら何をしてでも止めるから」

「ほう、具体的にどうするんだ?」

「具体的? 警察呼ぶ、とか?」

「∃機関が飛んできて、お前が人質になるだけだろうな」

「じゃあ友だち呼ぶ!」

「はぁ、友だち呼んでどうするんだ」

「知らないでしょ、すごい友だちがいるんだから! ラハムなんて瞬殺だからね」

「殺されるってことか? じゃあ今すぐ呼んで欲しいな」

「そういう意味じゃなくて!」

 実にくだらない会話だった。何を思って再度説得に来たのか、甚だ疑問だった。これから死ぬというのに、緊張感の欠片もない。

「納得しろとは言わないが、せめて黙って見守ってくれないか?」

「嫌だ! ラハムが傷つくところなんて見たくない!」

 過去に俺がテラに言った台詞を返されてしまった。

 なるほど、それを切り札に説得を試みようとしたのか。だが甘い。その時と今では状況も環境も全然違う。

「だったら、家に帰れ。そして俺のことなんか忘れろ」

「またそんなこと言って。ラハムはさ、十何年、世のため人のために生きてきたんでしょ? だったらもう十分じゃん。世の中のために生きるっていうのは、世の中のために死ぬってことじゃないんだよ?」

「倫理観の違いだ」

「もうちょっと自分本位になりなよ。自分の幸せとか考えたことある?」

 幸せなんて考えたことはなかった、テラに会うまでは。テラが俺をいろんなところに連れ出し、そこで初めて人並みの娯楽に触れた。俺に幸福を与え教えたのはテラだ。

「こっから先十何年は自分のために、自分を幸せにするために生きるってのはどう?」

 自分のために生きたことなんてない。俺はその方法を知らない。

「もし大いなる力の責任を感じるとか言うなら一緒に背負うし……まぁそんな責任感じる必要ないと思うけど、望んで得たわけでもないし、自殺することが世のためになるなんてこと、あっちゃダメだと思うし」

 俺も他人にだったらそう言う。

「どんなに世界がラハムの死を望んだって、私はラハムが生きて幸せになることを望んでる。だってそうじゃないと可哀想だし、不公平だし、間違ってると思うから」

 幸せ、幸せとはなんだろう……俺の幸せ――――それは、そうだな……俺の幸せは――

「――だから自分の幸せに生きて!」

 俺は思わず扉を開けていた。

「――俺の幸せは、お前が幸せでいることだ」

 扉の外にいたテラに、そう言っていた。言った後に気づく。それは、哀れみでも同情でも責任感から来るものでもない、本音の言葉だった。

 言ってしまえば簡単なことだ。なぜ思い悩んでいたのだろう。俺が世の中に対して思う気持ちと、明確に違う。

「だったら、七年間放ったらかすなっつーの」

 テラは悪態をつきながら、恥ずかしそうに微笑んだ。

「すまない……」

 俺はただ詫びることしかできなかった。

「もう、考え変わったよね?」

「ああ、これから追手から逃げるので大変だと思うが、俺は今度こそもう決めた。共に生きよう」

「ラハム……」

「テラ」

「こほん、あー……」

 いつの間にか傍らに社長が立っていた。状況を察してか呆れ顔だ。

「いちゃつきたいのかもしれんが、周りの目もあるからな」

 その言葉にテラは我に返ったかのように赤面して飛び退いた。それではまるで社長の言葉を肯定したことになる。

「言いがかりだ」

「一応確認だが、この状況は逃げるって選択で良いのか?」

「ああ」

「また、摘出したいって言っても聞いてやらないが、いんだな?」 

 テラを見る。テラも俺を見る。そこに不安の色はない。

「ああ、もう言わない。俺は、テラと生きることにした」

「コペルニクス的転回だな」

「……正直、今でも、死んだほうが世の中のためだと思ってる。それは変わらない。だから、この選択は間違いなのかもしれないとも思う。だが、それでも、これが正しかったと思えるように、俺は生きる」

「まぁ、いんじゃねぇか。合ってるとか間違ってるとか分からないまま突き進むのが人生だ。最後に笑えりゃそれで十分だ。――よし、それじゃあお前たち!」

 社長の掛け声で、気づいたら大勢集まっていた研究者らが動き始める。撤収作業をするのだろう。

「仕事の邪魔をして悪かった」

「何言ってんだ。これも仕事みたいなもんだ。気にすんな」

「そうか――――――ん?」

 ガチャ、という音とともに冷たい感触が両方の手首に伝わった。鉄の輪っかが手首に嵌められている。輪っかからは鎖が伸びていて、手術台脇の壁まで繋がっていた。

 背後から研究者に手錠をかけられた――これが、どうやら事実で間違いないようだ。

「え、ちょ、は、どゆこと?」

 テラが混乱している。

 社長が言った。

「よーしこれで終了だ。金もってこい」

 研究者の一人が金を持ってきて配り始める。

「社長! ちょっとずるいっすよ」

「誘導したでしょ!」

「そうだ、卑怯だ」

 などと口々に文句を言う者と、反対に金を受け取って喜ぶ者に分かれる。

「してねぇよ」

 と社長がぶっきらぼうにいなす。

「社長、これは何の冗談だ?」

「冗談? いやマジだが? 大マジだ」

 俺はそのとき、全てを察した。

 絶望的だった。手錠を引きちぎることは不可能。囲まれていてテラだけ逃げることも困難だ。

「おっと、外部との連絡は控えてもらうぜ」

 社長がテラの携帯を奪う。

 それからテラは研究者二人に取り押さえられた。社長が懐からナイフを取り出す。

「おい、やめろ、テラに手を出すな。そんな必要はない。お前らの狙いはブラックマスタードだろう」

「話が早くて助かる」

 舌の根も乾かぬうちにまた死のうとしてるぜ、と野次が飛ぶ。それに伴い爆笑が起こる。

「お前が間抜けで助かった。摘出手術の用意をした段階で勘付かれると思ったが、鈍いんだな。ほとんど殺人みたいなもんなのに。まーでも仕方ねぇか、随分長ーく善人演じてたからな」

「……」

「相変わらずつまんない反応だな。出会ったときから企んでたんだぜ? お前が成人間際になったら、ブラックマスタードのことを話して、自ら手術台に行くなら良し、行かないなら拘束するって決めてたんだ。だが、ちょうど嬢ちゃんが狙われているという情報が入った。狙われたという状況の方がリアリティが出て死ぬ道を選ぶんじゃないかという意見と、女への情が高まって生きる道を選ぶんじゃないかという意見で分かれた。賭けは死ぬ道を選ぶ方が多数派になった。死ねば女も狙われず、世のためにもなる、お前は個人的感情で動かないからな、俺もお前は死ぬ道を最後まで貫くと思っていたんだが……嬢ちゃんがここまでとは、予想できなかった。いやぁ、まんまと騙されてくれてありがとな。これに懲りたら人は信用しないことだ。まーお前の人生はこれで終わりなんだが」

 長々と喋った後、社長がテラの腹部を刺した。

「――ぉい、何やってんだ! やめろ!」

 俺は怒鳴った。だが、社長の手は止まらず、幾度となくテラは刺される。ナイフは赤く染まった。衣服は赤く滲んだ。吐血と血飛沫が舞った。

 俺は叫ぶことしかできなかった。やめさせようと手を伸ばしたが、手錠がそれを阻んだ。

「やめてくれ! お願いだ! 殺す必要はないだろ! 頼む! 頼むから……!」

 俺の叫びは懇願へと変わっていた。それでも社長は手を止めなかった。テラのうめき声が弱まっていく――目から生気が消えていく――身体から力がなくなった――――――

「死んだぜ」

 俺の頬に初めての涙が伝った。俺は、何もできなかった。人とは違う力がありながら、その力を活かせなかった。人を守る盾だというのに、俺はテラさえ守れなかった。

「助けたいんだったら早くすることだな。もしかしたら噂通りにブラックマスタードで助けられるかもしれない。試してみたらどうだ」

 後悔の念が沸き立つ。不甲斐なさに苛立つ。だが、それらが何になるだろう。誤ちが取り消せる訳じゃない。

 俺は何も言わず、藁にも縋る思いで手術台に足を運んだ。俺が死んだ後、ブラックマスタードをどう使うか分かったものじゃないが、可能性に懸けるしかなかった。どの道、囚われの身ではいつまでも抵抗してはいられない。

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