第3話 愛することはない

 婚姻の話を父から聞いた当日。

 屋敷を出てから半日ほど馬車に揺られて、グラーベ侯爵が待つという屋敷に辿り着いた。

 

 父は領地を持たないいわゆる法服貴族。

 一方のグラーベ侯爵は王都オーケストから離れた場所に広大な領地を持つ領主だ。

 

 たまたま、職務で王城に出向いていたところ、父が私の結婚相手を探しているという噂を聞きつけ、父を呼び出し、とんとん拍子に話が進んだらしい。

 馬車を降り、門の前に立ち、門兵に用件を告げる。


「デミヌエ男爵家の娘、ビオラと申します。グラーべ侯爵閣下にお目通り願えますでしょうか」

「ビオラ様でございますね。うかがっております。……おや? 少々お待ちください。失礼ですが身元を証明出来る物を何かお持ちで?」


 門兵は初めにこやかだったけれど、突然不思議そうな顔をしながらそう言った。

 馬車にはデミヌエ家の家紋が付いているけれど、身元がしっかりと分からない者を、未確認で通すわけにはいかないということだろう。

 私は家を出る際に父から渡されたグラーベ侯爵との証書を取り出し門兵に見せた。


「グラーベ侯爵閣下と父、デミヌエ男爵との婚約に関する覚書ですが……」

 「これは……確かに本物のようですね。お疑いして申し訳ありませんでした。どうぞこちらへ」


 感じの良い対応に私は内心胸を撫で下ろす。

 いくら仮面侯爵と世間に噂されているとはいえ、何の面識もない私を突然娶りたいと言い出すのにはそれなりの事情があるのは分かっている。


 だとしても相手から見れば下位貴族の娘で、おそらく社交界での私の評判もいいものではないはず。

 なんといっても、適齢期を過ぎても一度も社交界に顔を見せたことすらないのだから。

 

 それでも、少なくともここでは酷い扱いを初めから受けることは無さそうだ。

 門兵に促されて門をくぐると、執事らしき男性が一人待っていた。


「ビオラ様でございますね? お待ちしておりました。主人、オルガン様の身の回りを務めさせていただいております、ドラムと申します。オルガン様の元へご案内させていただきます」

「はじめまして。ビオラです。ドラムさん、よろしくお願いします」


 オルガンというのがグラーべ侯爵の名前だ。

 恥ずかしい話、夫になる人の名前以外ほとんど知らずに来てしまった。

 急な出来事で何の準備も出来なかったけれど、少しでも気に入って貰えるように努めなくては。

 

 そんなことを考えていると、ドラムの表情のある事実に気付いてしまった。

 歳は壮年、人当たりの良い笑顔を私に向けてくれているけれど、目が笑っていない。

 まるで私を品定めをしているような目だ。


「ビオラ様? どうかなされましたか? オルガン様の部屋はこちらでございます」

「あ、ごめんなさい。なんでもないの」


 考え事に集中しすぎて、ドラムが進んだのに気が付いていなかった。

 慌てて、開いてしまったドラ厶との距離を詰め、再び歩き出したドラムの後をついていく。


「こちらでございます。オルガン様。ビオラ様をお連れ致しました」

「結構。二人で話がある。ドラムは外で待機していてくれ」

「かしこまりました。失礼いたします」


 私に深々と頭を下げてから、ドラムは私を置いて部屋の外へと退出する。

 中に一人立つ男性に自然と視線が動き、そしてピタリと止まる。

 

 仮面侯爵。そう呼ばれていることは、家族以外とほとんど交流を持たない私の耳にも届いていた。

 だけど本人とお会いするのは今日が初めて。

 文字通り、グラーべ侯爵は顔の全てを銀色を基調とする仮面で覆っていた。

 正面に二つ空いた穴から覗く眼が、私に真っ直ぐ向けられていることに気が付き、慌てて挨拶をする。


「ご機嫌よう。グラーべ侯爵閣下。お目にかかれて光栄です。デミエヌ男爵家が長女、ビオラと申します」

「ああ。そんなにかしこまらなくていい。何しろ、これから俺たちは夫婦になるんだからね」

「分かりました。出来るだけ早く打ち解けられるよう努力します。ところで閣下。一つこの度の婚約でおうかがいしたいことが――」

 

 突然、グラーべ侯爵は仮面で覆われた顔を、私の至近距離まで近付けてきた。

 仮面の中の瞳と視線が重なる。

 深緑の眼に深く吸い込まれそうになり、慌てて私は視線を外した。


「ふむ……多少話に聞いていたのとは違うようにも見えるが。人の見た目などあてにならぬものだからな。デミエヌ嬢。今から君はグラーベ侯爵夫人となるわけだが……」


 一呼吸を置いて、はっきりとした声が私の耳を打つ。


「君を今後愛することはない。この結婚はあくまで形だけの、いわば契約結婚だ。君は好きにしてくれればいい。私から近寄ることもない。何か質問は?」


 グラーベ侯爵の言葉の意味が一瞬理解できずに固まる。

 形だけの契約結婚? 何のために?

 愛することはない、というのは夫婦の営みのことを言っているのかしら?

 

 分からないことだらけ。

 でも、私の興味を、心を掴んだのは『好きにしてくれればいい』という言葉だった。

 思わず私は立場も忘れ、質問のために口を開いてしまった。


「閣下。好きにしていいと仰いましたが、あの……庭園を造っていただくことは可能でしょうか?」

「庭園だと? 屋敷にそれなりの庭園がある。それでは不服か?」

 

「いえ。特別に育てたい草花があるのです」

「特別に……か。まぁいい。庭師に手配しておこう。必要な苗や種はリストにしておいてくれ。後で送らせる」

 

「まぁ! いいんですか!? ありがとうございます! 手入れは私がします! 庭師さんのお手を煩わせるようなことはしませんので!」

「……? まぁ、いい。君も私と長居するのは本意ではないだろう。ひとまず、結婚には異議がないということでいいな? 今後必要なことがあれば侍女などに伝えてくれ」


 そう言ったグラーベ侯爵は、ドラムを呼んだ。

 入ってきたドラムに連れられて、再び屋敷の前に停められた馬車へと乗せられた。

 馬車にはグラーベ侯爵家の紋章が彫られており、私が乗ってきた馬車など比較にならないほど豪華な造りをしている。


「今回お越しいただいた屋敷は、王都での責務がある際に使う仮住まいでして。オルガン様の本邸は王都オーケストから南にある侯爵領ハーモニアにございます。奥方様も普段はそちらにお住い頂くことになります」

「まぁ。ハーモニア! 素敵だわ!!」


 私が喜色満面で声を発したのを見て、ドラムは怪訝そうな顔を見せた。

 どうやら、無表情なのではなく、職業柄表情を表に出さないようにしているだけなのだろう。


「失礼な質問かもしれませんが、何故ハーモニアが素敵なのでしょう? いえ。私どもも他に誇れるものを沢山持つ素晴らしい地域だと思っておりますが……」

「何故ですって? ハーモニアにはこの辺りでは育たない草花が沢山あるでしょう? それに育つのも速いとか。素晴らしいわ」

 

「は、はぁ……奥方様は草花がお好きなのでございますね」

「ええ! とっても!」


 南に位置するハーモニアは私の実家がある王都よりも温暖で、薬草にとっては楽園だ。

 実家の庭では暖気が足らず育てるのに苦労したダカーポなども、野生のものが手に入ると図鑑には書いてあった。

 

 薬草は、手入れの行き届いた庭で育てた方が良いものと、自然で育った方が良いものがある。

 上手くやれば、どちらも両立した薬草園を作れるかもしれない。

 

 何より、好きに薬草を育てて良いのだ。

 グラーべ侯爵、いえ。旦那様のお許しを頂いたのだから!

 ハーモニアへと私を誘う馬車の揺れは、私の気持ちの高鳴りを代弁しているように絶え間なく続いた。

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