第121話 魔法陣


メタリックなヤールングローヴィの体には埃一つ付いてない。月光に照らされた黒い表皮は青白い光沢を放っていた。


セプトンは身構えた。相手を見下すかのように胸を張って顎を上げていたやつはどこえやら。俺に見せたことの無い異様な緊張感である。腰を低くし、前かがみにヤールングローヴィを見据えていた。


そもそもヤールングローヴィは手もなく足もない。おそらくは丸いフォルムの中に納まっているのだろう。有るには有るのだが、そのために動く気配が全く見えない。


セプトンも動かない。いや、動けないのか。足だけがじりじり地面を捻っていた。


いくら強いと言っても、やつは里の主ではない。風の鞍の里のドラゴンとだけ聞いていた。俺は石窟の村、跫音空谷きょうおんくうこくの里にも行っている。里の主のヤドリギは他のドラゴンのを軽く凌駕する。


ヤドリギの大きさとそこに付くドラゴンの強さは比例すると聞いた。セプトンは名のあるドラゴンかもしれない。だが、里の主には遠く及ばない。


そのセプトンが先に動いた。長く沈黙するヤールングローヴィのプレッシャーに耐えかねたようだ。魔法を発動する。無謀にも勝負しようとしている。


ところがだ。魔法陣は完成まで行きつけなかった。やはり無理だったのだ。広げられた魔法陣に文字やら記号やらが埋まろうとした瞬間、しぼむように小さくなって消えてしまった。


セプトンは戦う前に負けを認めたのだ。体が震え、膝をつき、手を付く。完全に心が折れてしまっている。


ヤールングローヴィの目の下あたり、まん丸いフォルムの赤道に筋が入った。


黒い玉がパカッと開く。ダンゴムシのようであるがその隙間から覗かせる口はドラゴンの顎で、牙がずらりと並んでいた。


ヤールングローヴィの前に、魔法陣が現れる。紫色のやつだ。俺が以前灰色のドラゴンにかけられた魔法といっしょの姿かたち。


それがセプトンに向かった。敗北を認めているのだから逆らうべくもない。間髪入れずヤールングローヴィは、次々と魔法陣を放っていく。セプトンは消え、他のドラゴンらも小気味よく消えていった。おそらくは風の鞍の里に帰されたのだろう。


転移魔法。条件は術者が行った所、触れたモノの元に限られる。


取り巻き連中の番となる。カンバーバッチは魔法がかけられていく仲間に何もできないでいた。一人、二人と飛ばされる度に顔色が変わっていく。硬直して、声を失ったかのように見送っていたが、自分の番に近づくとワナワナふるえだす。


「お願いだ、主様」


勝手に里のドラゴンを持ち出したうえ、里に帰された相手が別の里の主だとなるとただでは済まされまい。どんな罰が待っているのか。里の長になるには里の主の賛成が必要だとも聞いた。


「俺は将来、里の長になる男だ。カンバーバッチの人間だ。どうかこの通り」


カンバーバッチは土下座した。


「俺の将来を奪わないでくれ。目をつぶってくれたらあんたのためになんだってやる」


里の主どうし、互いに知らぬ仲ではなかろう。そして、おそらくはお互いが他の里への干渉をひかえている。転移魔法の条件からヤールングローヴィが飛ばした先はおそらく、風の鞍のではない。


機械的に、粛々とヤールングローヴィは取り巻き連中を魔法陣で飛ばしていた。当然、カンバーバッチも例外ではない。


土下座していて、未だ諦めきれないカンバーバッチが消えた。飛ばされたことも気が付かず、今頃は風の鞍の主の前。


そこにはすでに多くの悪ガキ、ドラゴンがいる。土下座しているカンバーバッチも現れる。飛ばされたことも気が付かず、頭を上げる。すると目の前にはヤールングローヴィではなく、風の鞍の主、ってことになる。


風の蔵の者たちを全て送ったヤールングローヴィはほぼ百八十度回転して大岩壁の方を向いた。今度は白い魔法陣をアトゥラトゥルに放つ。


魔法陣の光に覆われたアトゥラトゥルは、ラキラが見守る中、ゆっくりと体を起こした。覆いかぶさる瓦礫がガラガラと崩れ始める。


まだ翼は砂塵まみれだった。アトゥラトゥルは長い首を伸ばすと大きく曲げてラキラに向かう。ラキラはアトゥラトゥルの頭を抱きしめた。


ラキラとアトゥラトゥルの、その様子に安心したのかヤールングローヴィは宙を滑るようにして俺の前までやって来た。


体を回転させる。大岩壁に向いていた両の目が丸いフォルムに添って回ってきて俺の正面で止まる。閉じられていた赤道がまた開かれた。凶暴な顎が見える。


『いきなり世界を覆うほどの魔法陣が展開されたと思ったら君か! なんてことをしたんだ!』


昆虫のような目から怒りの色は読み取れない。


『ローラムのはしから端はもちろん、ザザム、ガリオン、果てはムーラン、リオームまで君の魔法陣が届いたはずだ。魔法陣の大きさから言って、強力な魔法が行使されたのは紛れもない。名のあるドラゴンなら気付いたはずだ』


やっぱりだ。何が起こったかヤールングローヴィでさえ全く把握出来ていない。“サイレント・ギャラクシー”はドラゴンの間では使われたことがない。


『賢ければ賢いほど、何をどうされたのか分からないってのは恐ろしい。なんにしろ、己の足元に魔法陣の一端が通過したんだからな。確かめたいはずだ。僕もどんな魔法か君に聞きたいところだけど、時間がない。すぐでもここを立ち去れ。ラキラに危険が及ぶ。僕みたいに好奇心にかられてやってくるやつがいるとも限らない。僕で対処できればいいが、残念ながら上には上がいる。さぁ、早く!』


それでか。ヤールングローヴィは俺たちがここにいることを知らなかった。だから、ジャンプを使わなかった。そして、問答無用にカンバーバッチらを帰したのも、ラキラらに言葉を掛けず、アトゥラトゥルに回復魔法をかけたのもそのため。だが、俺にはどうしても聞きたいことがある。

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