蛇女

@RandomBoat

蛇女

 藪に生まれて十五年、蟲に鼠に喰ってきた。喰って喰われて生きてきた。


 父母の貌も覚えなく、根の影を転々と、泥を這いずる畜生道。


 三、四の齢に負った爪痕は黒々と残り、いつ来るやも知れぬ猛禽の羽ばたきに慄く修羅の道。


 六つの頃出会した狸、その名を隠葉という。


「おい娘、あの葉が見えるか」


「どの葉」


「あの葉だ、あのそよ風にゆらゆらしている一枚の葉をよく見よ」


「あれがどうした」


「あの葉がな、表裏どちらを地につけるか賭けんか」


「何を」


「表がついたら術をくれてやる。裏がついたら時間を寄越せ」


「時間を寄越すとはどういう」


「娘、九年の間儂の慰みものになれ」


「馬鹿言うな、あんた狸だろう」


「狸になる術をくれてやる、その姿のまま九年儂の側におれ。どっちにしても術は手に入るのだから悪くないだろう」


「そんな術いらないね」


「狸だけじゃないぞ、鼠にも蟲にもなれる」


「喰われる側に化けてどうすんだい」


「猛禽にもなれるぞ」


「ほう、でも蛇なんか食わないよ」


「人にも化けられる」


「人に化けてどうすんだい」


「娘、人を誑かすことほど愉快な遊びはない。無知で弱っちい癖に天も地もすっかり掌握した気になってる馬鹿者どもの鼻をあかすのは病みつきになるぞよ」


「喰ったのかい」


「十は喰った、五つ程は桃の木の苗床にしたわい」


「そりゃいいや、乗った」


 漆黒のさざめきを割り差す陽光に暴かれたその葉は、ただ一片、群衆に似つかわしくない揺動を見せる。


「よう見とけ」


 鱗の間隙に爽やかな空気の流れを覚えたとき、白い光の中、あの真っ黒なひとひらが、ひらり、ひらり、くるり、くるりと、元いた枝を離れて。


「娘、よう見とけ」


「ああ」


「娘、よう見とけよ」


「ああ、ああ」


 くるり、つやつやした甲をこちらに向けて地についた。


「娘、よう見たか」


「何をたかが戯れ、馬鹿馬鹿しい」


「娘、よう見とけと聞こえたな、ああと応えたな」


「くだらない、帰る」


「もう儂の元の他に帰るところはないぞ、こっちへ来い」


 本当に馬鹿馬鹿しくって藪に隠れちまおうと蛇腹をしならせたのに、尾の感覚がない。


「娘、こっちに来い」


「おいあんた何を」


 尾がひとりでに狸の方へ這っていく。腹に力を込めようにも感覚がない。腹も狸へ這って行く。


「娘、言うたよな。言うたらその通りになるんじゃぞ」


「戯れがすぎるよ」


 牙を剥いて首元に噛みついてやろうとしたが、己の首が動かない。


「娘、術は教えてやる」


「あんた本気で」


「九年辛抱せぇ、いや数月で虜にしたる」


「嫌だ、放せ。近づくな」


「お前が近づいとるんだぞ」


「息が臭い。近寄るな。触るな」


「嘘をつけ。荷葉の香じゃ」


 たぎる憎悪と裏腹に、糸を引く悍ましい裂け口と裏腹に、鼻先は蓮に抱かれた心地がした。


「そんな馬鹿な」


「正直になれ。お前の本心じゃ」


「ああ、ああ、」


「よう仕込んでやるからの」


「ああ、そんな、ああ、」


 約束の期日、隠葉はやっと寝ぐらから出してくれた。いや、正確には意のままに腹をしならせ這うことができた。


「隅々まで味わい、子も産ませた。もう飽いたわ」


「ああ」


「どこへなりとも去って、教えてやった術で人でも誑かして喰え。楽しいぞい」


「お前なんか死んでしまえ」


「その呪詛も聞き飽きたわ。はよう去ね」


「今お前は操れないんだろう」


「痴れ言を。阿呆が。術の妙を知らんのよ」


 そう言い終わるや否や、首元に毒牙を深々と差し込んだ。鮮やかな緑に差し込んだ陽だまりの中、骸は骨も残さず喰らった。


 喰って喰われて生きてきた、十五の晩秋。麓に降りて、脚を傷めた女に化けた。


 道沿いに横座りして、膝から擬似餌の鮮血を見せる。


 男が来たので喰った。そのまた次の日も喰った、商人風の男を。ついでにその駄馬も喰らい、貨車に積まれた金銀細工の装飾、練絹の衣を身に纏えばさながら遥か西国王侯の子女。


 肌寒い晩秋の風にあてられた褐色の肌は霧雨も玉と弾き艶やか。紅玉を面に嵌めた銀の髪飾り。黒髪は衣とともに流れ怪しく揺れる。薄衣に透ける腹はしなやかで、臍には金剛石、そして蛇腹のようにうねる。光沢煌めく練絹のスリットから伸びる脚はすらりと滑らかで、猫目愛らしく、しかし瞼はなかった。


 転々として五十ほど喰ったところで、袈裟を纏った僧に出会した。名は猿手。


「お坊さん、お坊さん、どうかこちらへ」


 僧は応えない。無言のまま近寄ってきた。


「賊に襲われて命からがら逃げおおせたはいいけれど、従者とはぐれてしまったの」


 僧の顔は傘に隠れて見えない。無言のまま手を差し伸べる。


「ああ、膝から血がこんなに。どうか私を背負って里まで連れていってください」


 僧はやっと口を開いた。


「何人喰った」


 蛇眼を剥き出し、応える。


「お前で五十一人目」


「よい。俺もお前で六十一人目だ」


 傘から覗かせた牙に吃驚してたじろいだ刹那、首元にかぶりつかれた。


「ぎゃあ」


 どくどくと鮮血が流れ落ちる。


「なんてな、冗談だよ」


 しかし首元から鮮血が噴き出している。その光景を目の当たりにしたはずだが素肌にかすり傷一つついていない。


「お前何を」


「お前こそ、そうやって旅人を喰ってきたのか」


「ただではおかんぞ」


「その目に渦巻く焔は何を燃やしている。何がその胸でたぎっている。何が憎い」


「何も憎くなどない、ただ腹を満たしているだけだ」


「腹なら蟲や鼠で足りるだろう」


「もはや足りぬ。渇く。渇きが満たされぬ」


「喉の渇きか」


「そうだ」


「腹の渇きか」


「そうだ」


「ならば良いものをくれてやる」


「なんだ」


「あの葉が地についた時、表をこちらに見せれば秘薬をくれてやる。それで全ての渇きは治まる。裏を見せればお前に秘薬を作ってもらう。生涯かけても作ってもらうぞ。」


 ただ一片の葉がそよ風に煽られ、ざわめきに同期せず震えている。


 隠葉の口角がよぎる。


「ならば今すぐ貴様を殺して秘薬も奪ってやる」


 しかし指一つ動かすことができない。


 隠葉の悪臭が鼻をつく。


「その術は隠葉の術。殺してやるぞ」


「あの葉を見なさい。」


 隠葉の舌が腹をなぞる。


「黙れ。応えるものか。殺す」


 真っ黒なひとひらが、ひらり、ひらりと。


 隠葉が耳元で悪態を囁く。


「やめろ。見たくない。放せ。殺す。殺す」


 葉はざらざらした腹をこちらに向けた。


「来なさい」


「やめろ。近寄るな」


「こちらに来なさい」


「やめろ、やめてくれ。お願いだから」


「何が見えた」


「あの狸が、私を。」


「憎いか」


「ああ」


「だがもうお前が喰った」


「骨まで砕き喰い尽くしても消えはしない」


「では何と闘っている」


「まだそこにいる。そこにも。ほらそこにも」


 僧は袖から包みを取り出し、紐を解いた。


「見なさい。これが秘薬だ」


 黒々と光沢を放つ丸薬が露わになると、濃厚な白檀の香が鼻を刺す。


「作ってもらうぞ、生涯かけて」


「貴様も私を喰らい啜るか。閉じ込めてしゃぶり尽くすのか」


「お前はこれから遙か遠い西国に行くんだ。経蔵に入り、無数の経典を読み、この秘薬一粒を練ることに生涯を捧げることになる」


「お前も同じだ。あの狸と。傘から覗く牙がその証拠だ」


「必ず作ってもらう、それまで生涯お前のそばにおるぞ」


「貴様を殺す。私を縛る者は皆殺す」


「俺は何年経とうともお前から離れない」


「殺してやるぞ」


「やってみろ、頭を噛み砕かれても離れはしない」


 それから三百度夏が過ぎ、秋暮れて。


 日照りが続き、竈煙上らずしんとして、木の皮をかじり飢えを紛らわす村に、白袈裟の尼が訪れた。


 有難き救いにしなびた目を輝かせ、飢え渇きを訴えるも念仏を唱えるばかり。ついには尼を殺して食うことになった。


 念仏を唱える尼を岩から引き摺り下ろし、棒で殴りつけ、頭蓋を砕こうとしたとき、一喝。群衆が刹那静まった時、尼が語りかける。


「渇くか」


「渇く」


「喉が渇くか」


「そうだ」


「腹が渇くか」


「そうだ」


「賭けよう。一刻後雨が降る」


「何を痴れ言を」


「降らなければ私を殺して食え」


「今更降ったところで飢えには間に合わん」


 尼は袖から包みを取り出し、紐を解いた。


「これは遙か西国に生える桃の種だ。植えて雨が降ればたちまち立派な木となり実る」


 包みに入った種を摘んでは、丁寧に間隔を開けて乾ききった畑に埋めていく。


「我らを誑かすか」


「一刻待て」


 もう一刻が経とうとするも、日は燦々と照りつけ目も肌をも突き刺し、一片の雲も見えない。


「おのれ化け狸が」


 その時、尼は静かに天を仰いだ。


「見よ」


 灰色の雲がどこからともなくみるみる湧き上がり、真っ白な光線を投げつける日の勢いは弱まり、やがて分厚い雲の隙間に隠れる。


 雲の湧き出しは勢いを増し、ついには雷鳴とともに畑を洗い流さんばかりの雨を打ちつけ始めた。


 畑の土がむくむくと盛り上がり、男三人でようやく抱えきるほどの幹がばきばきと地面を割って根を張り、雨に打たれざわめく深緑の隙間という隙間から、たわわに赤子の頬のような桃を実らせた。


 誰も声を上げなかった。静寂の中、餓鬼の如く腹の突き出た農夫達の肌が、目が潤いを取り戻していく。


 そこに尼の姿はなく、小さな小さな一匹の白蛇がごつごつとした枝に絡みつき、僅かに桃をかじって、深緑のさざめきの中に姿を消した。

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