#02 涙の鍵盤
わたしの弾く高音だけが響いていた教室内に、ずっしりと重い低音が鳴り響く。
誰もいないはずの教室には、人が居たようだった
驚いて呆然とするわたしの隣で、わたしがまだ弾けない左手の譜面を、こっちを見向きもせずに弾き続けている。全然、気が付かなかった。
音も、指づかいも、テンポも、すごく正確。難しいはずの譜面を、そつなく弾きこなす。
なんで、こんなに上手に弾けるんだろう。
鍵盤の上を優雅に走らせる手は、爪で引っかかれたらしき傷痕でボロボロなのに。昨日のあの喧嘩の傷は彼女の体に残っており、顔に貼ってある絆創膏が痛々しかった。
目の前の楽譜だって、ぼやけてよく見えてないだろう。だって、彼女の目には大粒の雫が光っていたのだから。
「あの…」
わたしは、いままで一度も話したことがない彼女に、声を掛ける。
彼女…ユキちゃんはよくやく演奏を止め、隣で呆然とピアノ椅子に座っているわたしを見降ろした。
ユキちゃんは何も言わず、糸を張ったような細い目で、わたしを睨みつけるだけだ。怖気づき、わたしは言葉が出なかった。
怒っているのかと様子を伺っていると、ユキちゃんはオルガンの鍵盤に視線を移す。わたしと鍵盤、交互に視線を送る。
そこでやっとわたしはユキちゃんの意図を理解できた。
わたしは再び『星に願いを』の右手を弾く。するとそれに合わせてユキちゃんが左手を弾いた。
ユキちゃんの目からは次々と新しい涙が頬を伝い、鍵盤の上にぽたぽたと零れ落ちては、蒸発して消えてく。
彼女はそれすらも気にせずに、ただ一心不乱に弾き続ける。
わたしの弾くメロディーと、ユキちゃんの弾く伴奏が、人の声一つない教室に響きわたる。
初めてだった。
わたしの隣に誰かが座っているのも、わたしの隣でわたし以外の音が鳴っているのも。誰かの鳴らす音を、こんなに間近で聴くのも。
誰かと一緒に、音を合わせるのも。
ふたつの音が五線譜の上で出会い、混じり合い、やがてひとつの音楽になっていく。初めて味わう感覚に、ドキドキするような、ワクワクするような―――楽しいような。
そう。楽しい。
誰かと一緒に音を合わせるの、楽しい!
誰かと一緒に演奏するって、こんなに楽しいんだ。十年間生きていて、初めて知った。
「…………りがと……」
突然、ユキちゃんの手が止まる。鍵盤の上に揃えられた彼女の手。小麦色の健康そうな手の甲に、一粒の雫が落ちて、キラリと光る。その横に並んだ、真っ白で人間じゃないみたいな――——わたしの手。
「助けてくれて、ありがとう」
俯いたまま零れ落ちた声は、ちょっとの風音で瞬く間にかき消されてしまいそうで。わたしは何度も首を縦に振った。
ふと、ユキちゃんはゆっくりと顔を上げた。彼女の腫れぼったい瞳の中に、きょとんとした顔のわたしが映っていた。
「……なんでそんな必死?」
呆れたように首を軽く傾げるユキちゃんに、わたしは少し拍子抜けする。
「え、いや、その……ちゃんと聞こえてるよっていう合図」
「何それ」
変なの。ユキちゃんはそれだけ言うと、鍵盤から手を離してスッと立ち上がる。
「もう帰らなきゃ。今日、ピアノのレッスン」
「一人で帰るの?」
「待っててくれる友達なんていないし」
わたしは日中の教室の様子を思い返す。そういえば今日、ユキちゃんは誰とも言葉を交わしていなかった。中休みも昼休みも、ずっとひとりぼっちだった。ランドセルを背負い、教室のドアに手をかけたと同時に、わたしの方を振り返り、
「また明日ね」
そう言って手を振るユキちゃんは、もう泣いていなかった。
また、あした? 彼女に言われた言葉は、すぐにスッと頭に入らなかった。呆然とするわたしに、ユキちゃんは不思議そうに首を傾げる。
「明日も、一緒に弾くんじゃないの?」
首を傾げる。左肩に流しているユキちゃんの黒髪が、首の動きと合わせてさらりと動く。左目の下にぷっくらと浮かぶ泣きぼくろが、微かに震えている。わたしの答えを待つ彼女の表情には、不安の色が浮かんでいた。
「……あっ、うん…」
答えなんて、初めからそれしか用意していなかった。それなのに、わたしの首が縦に動いたのを認識した瞬間、まるで世界が一気に幸せに満ち溢れたみたいに――――少女は、笑った。
ユキちゃんが笑った姿を見たのは、初めてのような気がする。何一つ飾り気のない笑顔を前に、胸の奥底から何かが湧き上がってくる。怒りでも悲しみでもない、けど猛烈に強い何か。
名前をつけたかったけれど、わたしのたった十年の人生では、その感情にぴったりと当てはまる言葉は思いつかなった。
ユキちゃんが去り、教室にはまたわたしだけが取り残される。ピアノ椅子に座ったまま、ふと、オルガンに目線を動かす。ラックの上で堂々と佇んでいる楽譜。そこにたくさん集まっている、いろんな形をした音符たち。
二分音符も、四分音符も、八分音符も、全音符も、休符も臨時記号も全部、五本の線で結ばれている。
彼らは単体だと、ただの『音』に過ぎない。その『音』が五線譜で全部繋がっていくことで、彼らは初めて『音楽』になることができるのだ。
そんなの当たり前のことなのに、今だけは――――今だけはそれが、ものすごく特別なことのように思えた。
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