あの音が響く先で 前奏
秋葵猫丸
出会い編
#01 涙の鍵盤
【2009年10月21日】
――――――怖い。
わたしは背中がぞくっとして、顔を顰めた。
今、教室の時計の短針が四時を回った。窓の外に見える空は、少し怖い色をしていた。
さっき青色だったはずの空は、今は日が暮れて徐々に橙色に染まりかけて、ごちゃごちゃに色が混じり込んでなんだか不気味だ。
「帰ろー」
「後で公園に集合ね!」
赤や黒のランドセルを背負い、楽しそうな様子のクラスメイトたちが、次々と教室を出ていく。
たちまち教室は人が減り、音楽用語のデクレッシェンドのように段々と静かになる。
そんなみんなを他所に、わたしは自席で、引っ越しとともに新しく買ってもらった新品の赤色のクーピーを、自由帳の上に走らせる。
色とりどりな八部音符の形をした生物たちが、青空の下で手を繋いで、楽しそうに踊っている。
子供向けテレビアニメ、『とびだせ!おんぷちゃん』。
町のみんなの笑顔を奪い不幸にする、悪の集団『ノイーズ』たち。
そんなノイーズたちから、音楽の戦士『おんぷちゃん』たちが、町のみんなの笑顔を守るために戦うという話。
長くにわたって子どもたちから愛されているキャラクターだ。
ページを捲って自由帳を過去に遡ると、いままでに描いたおんぷちゃんが沢山いる。
……と、その中で必ず居るのが、白いワンピースを着た髪の長い女の子。それはわたしだ。
この絵の中でわたしは、いつも一緒に遊んでいる。
今から一か月前、わたしはこの街に転校してきた。パパの経営する幼稚園が移転することになったから。
パパが幼稚園をやってるからか、わたしの家は所謂『お金持ち』らしい。
だから、大きくて広い綺麗な家をパパが新しく買って、家族三人で住んでいる。
それでここ、若の宮小学校に二学期から転校してきたけど、わたしはほとんど一日中、おんぷちゃんたちと遊んで過ごしている。
ママからはよく、『カナちゃん、学校で嫌なことされてない?』と心配される。
多分これまでわたしには一度も、人間の友達が居たことがないから。
でも、わたしは嫌なことはされてない。学校には『いじめ』っていうのがあるみたいだけど、わたしがそれを体験したことは一度もない。
わたしに友達がいないのは、わたしの体の色がみんなよりも白いから。
わたしの髪の毛が白いから。
わたしの鼻の位置がおかしいから。
わたしの見た目がみんなとは全く『違う』から。
でも、別にそれでもいいんだ。前の学校でも同じだったから慣れている。
それに、わたしにはおんぷちゃんたちが居てくれる。いつも吹き出しの中で『カナちゃん、遊ぼう!』と言ってくれて、一緒に遊んでくれるから。
「…じゃけん、そういう言い方が嫌なんだって言ってるじゃん!」
そのとき、わたしの耳にやたらと感情的になった声が入ってきた。わたしはハッとして顔を上げる。
次々と息つく間もなく飛んでくる怒号。女の子の声だった。廊下から聞こえてくる。
居ても立っても居られなくて、わたしは反射的にガタッと席を立ち上がる。
教室の扉の小窓から廊下を覗き、こっそりと様子を伺う。
そこには同じクラスの女子たちが4,5人集まっていた。
揃いも揃って険しい顔で、ピリピリとした淀んだ空気がドア越しにもしっかり伝わってくる。
何も関係のないわたしまで怯えて、萎縮してしまう。
「みんなで責めなくってもいいじゃん!」
しかしよく見てみると、4対1という構図になっていることに気が付いた。
「だって、ユキちゃんが酷いこと言うからいけないんだよ!」
『ユキちゃん』と呼ばれた、音符柄のTシャツを着た女の子を、みんなで一斉に責める。しかし、『ユキちゃん』の方も負けてはいなかった。
「あたし本当のことしか言ってない!」
「本当のことだったら何言ってもいいわけじゃないよ!」
「そうだよ、ユキちゃんっていつも言葉がきつくて嫌い!もう一緒に帰らないから!」
言い争いはどんどんエスカレートしてきて、気づけば取っ組み合いにまで発展していた。
たまたま通りかかった担任の先生が『やめなさい!』と間に入り、ようやく喧嘩は終わった。
ハラハラしながら見ていたけれど、結局わたしはまた、最後まで傍観者のまま終わった。
なるべく音を立てないよう、静かにその場から離れる。そのときにはもう、教室にはわたし以外に誰もいなかった。
そうだ。わたしはこのときを待っていたのだ。
ランドセルから持ってきた楽譜を取り出すと、わたしは教壇の横に立っているオルガンのもとへ行き。蓋をワクワクしながら開いた。
この学校は各教室に一台の古びた木のオルガンが設置されている。
転校してきて初めて教室に入り、オルガンを見つけたとき、わたしは嬉しくなって思わず飛び上がりそうになったのだ。前の学校では音楽室にしか無かったから。
普段の休み時間は他の子達の目があるから弾きづらい。なので、誰もいなくなる放課後は絶好のチャンスなのである。
こうしてだれもいない教室で弾くと、妙な特別感がある。普段、家やピアノ教室では味わえない感覚だ。
楽譜を譜面台ラックに乗せ、ピアノ椅子に腰かけて、鍵盤に右手だけを乗せて弾き始めた。
曲は、『星に願いを』。
難しくてまだ右手しか弾けないけど、最近のわたしのお気に入りの曲。
流れ星が降ってくるような、キラキラ綺麗な優しい歌。
その雰囲気を壊さないように、ゆったりと滑らかな感じをイメージすることを忘れてはいけない。
ピアノを弾いていると、途中からわたしはいつもどうでもいい考え事をしてしまう。
……そういえば、昨日見た『とびだせ!おんぷちゃん』面白かったなぁ。
途中、強敵キャラの『ノイーズ』との戦いがとても激戦で、正直、負けるんじゃないかと思った。
そのとき、おんぷちゃんたちの一人『レっちゃん』が、『みんなを危険な目に合わせたくない!』と叫び、ひとりきりで戦いに行こうとして。
でも、そこで『ドッくん』が『待って!』と『レっちゃん』を引き留めた。
そして、こう叫んだんだ。
――――――君はひとりじゃないんだよ!君には仲間がいる。僕たちは、ずっと君の味方だよ!
わたしの弾く高音だけが響いていた教室内に、ずっしりと重い低音が鳴り響く。
誰もいないはずの教室には、人が居たようだった
驚いて呆然とするわたしの隣で、わたしがまだ弾けない左手の譜面を、こっちを見向きもせずに弾き続けている。全然、気が付かなかった。
音も、指づかいも、テンポも、すごく正確。難しいはずの譜面を、そつなく弾きこなす。
なんでこんなに上手に弾けるんだろう。
ピアノの上を優雅に走らせる手は、爪で引っかかれたらしき傷痕でボロボロなのに。
さっきの取っ組み合い激しい喧嘩、そりゃ、怪我をしても仕方ないだろうな。
目の前の楽譜だって、ぼやけてよく見えてないだろう。だって、彼女の目には大粒の雫が光っていたのだから。
「あの…」
わたしは、いままで一度も話したことがない彼女に、声を掛ける。
彼女…ユキちゃんはよくやく演奏を止め、隣で呆然とピアノ椅子に座っているわたしの方を見降ろした。
ユキちゃんは何も言わず、糸を張ったような細い目で、わたしを睨みつけるだけだ・わたしは怖気づき言葉が出なかった。
怒っているのかと様子を伺っていると、ユキちゃんはピアノの鍵盤に視線を移す。わたしと鍵盤、交互に視線を送る。
そこでやっとわたしはユキちゃんの意図を理解できた。
わたしは再び『星に願いを』の右手を弾く。するとそれに合わせてユキちゃんが左手を弾いた。
ユキちゃんの目からは次々と新しい涙が頬を伝い、鍵盤の上にぽたぽたと零れ落ちては、蒸発して消えてく。
彼女はそれすらも気にせずに、ただ一心不乱に弾き続ける。
わたしたちは今日初めて会い、そして一言も言葉を交わしていないのに、何故か息はぴったり合った。
わたしの弾くメロディーと、ユキちゃんの弾く伴奏が、人の声一つない教室に響きわたる。
その連弾は、まるで空から小さな星屑が降ってくるように、キラキラ煌めいていた。
小学四年生の秋、生まれて初めて、大好きなピアノで連弾をした。
生まれて初めて、わたしの隣に誰かが居てくれた
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