#08 わたしの代わりに
「それ、どういうこと…?」
「……学校の休みじかんにみんなが、お外で鬼ごっこしてたの。のんちゃんね、入りたかったから『いれて』っていったの。そしたら『やだよ』っていわれたの。『なんで?』って聞いたら、『足がおそい人は入っちゃダメ』って、やましたさんが…」
のんちゃんは比較的落ち着いた様子で、静かに語る。でも、その体は震えていた。
「ほかのみんなは『いいよ』っていわれるのに、なんでのんちゃんだけダメなのかな…」
その瞳からは、堪えきれずに涙がポロポロと溢れ出していた。
この子の話からは、『仲間外れ』や『いじめ』という言葉が真っ先に浮かんだ。ママが、小さい頃に繰り返しわたしに聞いた言葉だ。
わたしが深堀したせいで、のんちゃんに辛いことを思い出させてしまった。そう思うと、申し訳ない気持ちになった。
「な、泣かな…」
わたしは咄嗟にそう言いかけたが、途中で言葉が止まってしまった。
『五線譜で結ばれた音符たちと同じように、音楽で繋がれている人たちはみんな友達なんだよ』
わたしはかつての、ユキちゃんから聞いた星楽ちゃんの言葉を思い出す。
あの言葉は、わたしを変えた。わたしも、わたしの仲間の運命も。
わたしはホルンを横に置くと、手を大きく広げ、『おいで。』と言う。
すると、すぐにのんちゃんがわたしに抱き着いてくる。まるで助けを求めるかのように。
「ねぇおねえちゃん…のんちゃんも、みんなと仲良くしたいよ。ひとりぼっちなの、やだよぉ…さみしい…」
わたしの胸で、精一杯声を張り上げて泣いている。
心の、叫びだ。孤独なこの少女の、悲痛な叫び。
どうしたらいいだろう。この子を、どうしたら笑わせられるだろうか。
わたしは救いを求めるよう、咄嗟にベンチに置いた自由帳に手に伸ばす。あの絵は、まだ残っているはずだ。
「……泣かないで…」
わたしはのんちゃんを膝の上に座らせる。そして自由帳のとあるページを開くと、顔を隠すように持ってくる。
ねぇ、『君たち』の出番だよ。
お願い、この子を笑わせて。
「泣かないで、のんちゃん。僕たちが君を笑顔にしてあげるよ!」
わたしは幼い頃描いた『おんぷちゃん』たちが全員集合して決めポーズを取っている絵を、のんちゃんに見せる。過去最高の自信作だ。
のんちゃんは突然のわたしの奇行に、『え…?』ときょとんとした顔をする。
「始めまして!僕たちは、『おんぷちゃん』だよ!僕らのことは、知っているかな?」
わたしは自由帳を左右に揺らし、声をアニメに寄せるため不自然に高くする。
あくまで『自分はカナちゃんじゃなくておんぷちゃん』だと強調するため。
のんちゃんはしばらく呆然としていたが、こくりと頷いた。
「『カナちゃん』は僕ら『おんぷちゃん』の仲間で、笑顔を守る戦士なんだよ。」
わたしの言葉に、のんちゃんが『おねえちゃんもなの?』と首を傾げる。
「でもおねえちゃんは、テレビに出てきたことないよ?」
「そうだね。カナちゃんは、僕らとは違う街の平和を守っているから、テレビには出られないんだよ。」
ちらっと自由帳から顔を覗かせて様子を伺うと、のんちゃんは『信じられない』と言った具合に呆然としていた。
内心では気が気ではなかった。小学生相手に、こんな幼児向けの子供騙し、流石に通用しないだろうか。
不安ながらも、わたしは『おんぷちゃん』になりきって強引に話を進める。
「若の宮中学校の吹奏楽部は、カナちゃんが作ったんだ。カナちゃんの仲間の『ユキちゃん』と『トッくん』の三人で一緒に作ったんだ。そして、『吹奏楽部』は出来たんだよ!」
「…そうなの?」
のんちゃんは驚いている。わたしは『そう!』と頷くと、話を続けた。
「カナちゃんは、僕たち『おんぷちゃん』と同じで、ずっと音楽室のみんなの笑顔を守るために頑張っていたんだ。でもね、もうすぐカナちゃんは音楽室から居なくならないといけないんだ。」
すると、のんちゃんが『え…?』と声を上げた。
それは出任せでも何でもなくて、本当のことだった。
この定期演奏会が終われば、次は吹奏楽コンクールがある。 そのコンクールが終わってしまえば、わたしたち三年生は引退しないといけない。
ずっと、音楽室にいるわけにはいかない。どれだけまだここに居たいと願っても。
「カナちゃんたちが居なくなっても、演奏は終わらない。次の代へと誰かが、つないでいかなきゃいけないんだ。」
「ツ…ナグ…?」
「だからカナちゃんは、君にお願いをしたいんだって。」
そこまで話すと、わたしは左手でのんちゃんの顔に手を伸ばす。彼女の純粋な瞳に、僅かに涙が残っていた。それを、優しく拭き取った。
わたしは息を大きく吸う。
「君が今よりもっと大きくなって、中学生になったら、吹奏楽部に入ってほしいんだ!」
わたしが演じる『おんぷちゃん』にそう言われたのんちゃんは、大きく目を見開く。
わたしはのんちゃんの小さな、小さな手をぎゅっと強く握りしめた。
「…すいそう…がくぶに…?」
「カナちゃんはもう、みんなの笑顔を守れない。だから、君がカナちゃんの代わりに音楽室に行って、みんなの笑顔を守る、次世代の戦士になってくれ!」
『僕らからもお願いだ!』と、わたしは頭を深く下げる。
わたしは決して、本気でこんなことを言っている訳ではない。のんちゃんをわたしの代わりにしようだなんて、常識的に考えて本気で思うはずない。
この少女はたまたま演奏を聴きに来てくれた大勢の観客の中の、たったひとりでしかない。ましてや、世の物事を完全には理解しきれない年頃で。
そんな少女に向かって本気でそんなことを願うなんて、それはそれは馬鹿げた話だろう。
――――そう、これはちょっとした『賭け』なんだ。
もし仮にこれでこの子が将来、本当に吹奏楽部に入ったら、それはそれは『大当たり』だ。だけど、外れたら外れたで別にそれでもいい。
むしろ、その可能性のほうが高いだろう。この子がもしわたしのこの言葉を本気にしたとしても、それはきっと今だけだ。
この子のこれからの人生はずっとずっと長い。だから、すぐに今日のことなんて忘れるだろう。
覚えていたとしても、それは幼少期の楽しかった思い出の一ページにとしてでしか残らないと思う。
でも、別にそれでもいい。
……わたしの目的は、ただこの子を笑顔にさせることだ。
不遇な幼少時代を生きる少女に、わたしのこの言葉で、一瞬だけでも確かな希望と使命を与えられるならば。
もしかしたらそれは、この子がこの先強く生きるための大きな
不遇な境遇を生き抜き、この子が心からの幸せを掴んだその時、わたしの存在は忘れられていたとしても構わない。
のんちゃんは、しばらく考え込むように俯き、黙っていた。
「すいそうがくぶに…」
のんちゃんは俯いたまま、わたしの手を強く握り返した。
「すいそうがくぶにはいったら、のんちゃんもおねえちゃんみたいに、おともだちできる?もう、ひとりぼっちじゃなくなるかな…?」」
のんちゃんのその言葉に、わたしはハッとして、自由帳を顔から外した。
すると、目の前にはわたしの瞳をじっと見つめるのんちゃんの顔があった。
不安そうな、泣きそうな、訴えかけてくるような瞳で。
こんなに小さな瞳なのに、目を背けたくなるほどの真剣さや本気さを孕んでいた。
「……うん」
わたしは優しく微笑むと、自由帳を下ろす。今度は『カナちゃん』として、のんちゃんの頭をそっと撫でた。
「できるよ。きっと。たくさんのお友達に出会えるよ」
「でものんちゃんずっとひとりぼっちで、ともだちなんていちどもできたことないよ…?」
のんちゃんは今にも泣きそうな瞳で、わたしに訴える。
「今はひとりぼっちかもしれないね。でも…」
わたしは立ち上がると、ベンチに座るのんちゃんに手を差し出した。
のんちゃんが恐る恐ると行った様子で、わたしの手を取る。その手は小さく震えていた。
わたしはその小さな手を力いっぱい引っ張る。のんちゃんが『わぁっ?!』と声を上げる。
走って、走って、走ると、目の前にはなだらかに流れる川がキラキラ光っていた。
わたしは河辺に立つと、再びのんちゃんの目線に合わせてしゃがみ込む。
手で風を切って、空を指さした。きょとんとした顔の少女に『見て!』と笑いかけた。
わたしの指さした先には、果てしなく大きな空が広がっていた。
どこまでも青くて、広くて、終わりなく遠くまで続いていく空が。
「こんなに世界は広いのに、のんちゃんとお友達になってくれる子がひとりもいないなんて、そんなはずないよ」
さあっと強い風が吹く。のんちゃんが摘んできた白詰草が、風とともに空に舞い上がる。
「今、きっとこの広い広い空の下のどこかで、のんちゃんに出会えるときを待っているんだよ。」
のんちゃんも、わたしと同じように空を見上げた。
「でも…もしずっと出会えなかったら…?」
「大丈夫。出会えるよ。だって、わたしだって出会えたんだもん。
あとは、のんちゃんの返事を待つことにした。
のんちゃんは空を見上げたまま黙り込んでいた。が、少しの間を置いた後、小さな声が返ってきた。
「わかっ、た。」
のんちゃんは大きく首を縦に振って、意を決したようにわたしと目を合わせる。『ほんと!?』とわたしが再度聞くと、
「わたし、大きくなったら、すいそうがくぶにはいる!ぜったいはいる!」
のんちゃんは息つく間もなく、そうはっきりと言い切った。
「それでおともだちがたくさんできたら、わたしもあのステージで吹くんだ!」
そう言って、のんちゃんは笑った。思いっきり、心からの笑顔で。
初めてのんちゃんの笑った顔を見た。その顔が予想以上に可愛くて、気づいたらこっちまで笑っていた。
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