#08 わたしの代わりに

「学校の休みじかんにみんなが、お外で鬼ごっこしてたの。のんちゃんね、入りたかったから『いれて』っていったの。そしたら『やだよ』っていわれたの。『なんで?』って聞いたら、『足がおそい人は入っちゃダメ』って、さんが……」


 のんちゃんは比較的落ち着いた様子で、静かに語る。でも、その体は震えていた。


「ほかのみんなは『いいよ』っていわれるのに、なんでのんちゃんだけダメなのかな」


 その瞳からは、堪えきれずに涙がポロポロと溢れ出していた。先程のように声を上げて泣き喚いている訳では無かったが、それとはまた違った痛々しさがあった。


 この子の話からは、『仲間外れ』や『いじめ』という言葉が真っ先に浮かんだ。ママが、小さい頃に繰り返しわたしに聞いた言葉だ。


 わたしが深堀したせいで、のんちゃんに辛いことを思い出させてしまった。そう思うと、申し訳ない気持ちになった。


 「な、泣かな…」


 わたしは咄嗟にそう言いかけたが、途中で言葉が止まってしまった。


 目の前で涙を流す少女の姿と、かつてのわたしの姿が重なる。


 母方の祖母がイギリス人のわたしは、『クォーター』と言う人種らしい。


 わたしには、外国の血が流れている。そのせいで、わたしの瞳の色はみんなと違って青っぽいし、大きすぎる。肌の色も髪の毛の色も、不健康に真っ白。


 わたしは、みんなと違う。誰かに言われたのか、それとも自分自身で勝手に思い始めたのかはよく覚えていないけれど、物心ついた頃からずっとそんな風に思って、生きてきた。


 だから、わたしはずっとひとりぼっちだった。


 あの日。夕暮れ時の教室で、親友ユキちゃんと出会うまでは――――


「……泣かないで」


 わたしはホルンを横に置くと、手を大きく広げ、『おいで』と言う。


 すると、すぐにのんちゃんがわたしに抱き着いてくる。まるで助けを求めるかのように。


「ねぇ、おねえちゃん……のんちゃんも、ほんとうはみんなと仲良くしたいの。ひとりぼっちなの、やだよ……」


 わたしの胸で、精一杯声を張り上げて。


 心の、叫びだ。孤独なこの少女の、悲痛な叫び。


 どうしたらいいだろう。この子を、どうしたら笑わせられるだろうか。

 

 わたしは救いを求めるよう、咄嗟にベンチに置いた自由帳に手に伸ばす。あの絵は、まだ残っているはずだ。


「……泣かないで…」


 わたしはのんちゃんを膝の上に座らせる。そして自由帳のとあるページを開くと、顔を隠すように持ってくる。


 ねぇ、『君たち』の出番だよ。


 お願い、この子を笑わせて。


「泣かないで、のんちゃん。僕たちが君を笑顔にしてあげるよ!」


 わたしは幼い頃描いた『おんぷちゃん』たちが全員集合して決めポーズを取っている絵を、のんちゃんに見せる。過去最高の自信作だ。


 のんちゃんは突然のわたしの奇行に、え?ときょとんとした顔をする。


「始めまして!僕たちは、『おんぷちゃん』だよ!僕らのことは、知っているかな?」


 わたしは自由帳を左右に揺らし、声をアニメに寄せるため不自然に高くする。


 あくまで『自分はカナちゃんじゃなくておんぷちゃん』だと強調するため。


 のんちゃんはしばらく呆然としていたが、少しぎこちない動きでこくりと頷いた。


「『カナちゃん』は僕ら『おんぷちゃん』の仲間で、笑顔を守る戦士なんだよ」

「そう……なの? でもおねえちゃんは、テレビに出てきたことないよ?」

「そうだね。カナちゃんは、僕らとは違う街の平和を守っているから、テレビには出られないんだよ」 


 ちらっと自由帳から顔を覗かせて、のんちゃんの様子を伺う。信じられない、といった具合に呆然としていた。


 内心では気が気ではなかった。小学生相手に、こんな幼児向けの子供騙し、流石に通用しないだろうか。不安ながらも、わたしは『おんぷちゃん』になりきって強引に話を進める。


「若の宮中学校の吹奏楽部は、カナちゃんが作ったんだ。カナちゃんの仲間の『ユキちゃん』と『トッくん』の三人で一緒に作ったんだ。そして、『吹奏楽部』は出来たんだよ!」

「……そうなの?」


 驚いているのには変わりなさそうだが、その素直な声からは、疑っているとか不審に思っているだとか、そういうのは一切感じさせなかった。そう!とわたしは大きく頷く。


「カナちゃんは、僕たち『おんぷちゃん』と同じで、ずっと音楽室のみんなの笑顔を守るために頑張っていたんだ。でもね、もうすぐカナちゃんは音楽室から居なくならないといけないんだ」


 えっ?と、のんちゃんが目を瞠る。それは出任せでも何でもなくて、本当のことだった。


 この定期演奏会が終われば、次は吹奏楽コンクールがある。 そのコンクールが終わってしまえば、わたしたち三年生は引退しないといけない。


 ずっと、音楽室にいるわけにはいかない。どれだけ、まだここに居たいと願っても。


「カナちゃんたちが居なくなっても、演奏は終わらない。次の代へと誰かが、つないでいかなきゃいけないんだ」

「ツ…ナグ…?」


 繋ぐ。どこにでも有り触れた普通の日本語なのに、のんちゃんが言うと、全く行ったこともないような外国の、知らない言語のように聴こえた。


「だからカナちゃんは、君にお願いをしたいんだって」


 そこまで話すと、わたしは左手でのんちゃんの顔に手を伸ばす。彼女の純粋な瞳に、僅かに涙が残っていた。それを、優しく拭き取った。


 すぅ、と息を大きく吸う。吸って、言い放つ。


「君が今よりもっと大きくなって、中学生になったら、吹奏楽部に入ってほしいんだ!」


 その瞬間、のんちゃんの瞳が大きく見開かれた。少女の小さな、小さな手をぎゅっと強く握りしめる。そして、わたしは続ける。


「……すいそう…がくぶに…?」

「カナちゃんはもう、みんなの笑顔を守れない。だから、君がカナちゃんの代わりに音楽室に行って、みんなの笑顔を守る、次世代の戦士になってくれ!」


 僕らからも、お願いだ!わたしは頭を深く下げる。


 わたしは決して、本気でこんなことを言っている訳ではない。のんちゃんをわたしの代わりにしようだなんて、常識的に考えて本気で思うはずない。


 この少女はたまたま演奏を聴きに来てくれた大勢の観客の中の、たったひとりでしかない。ましてや、世の物事を完全には理解しきれない年頃で。


 そんな少女に向かって本気でそんなことを願うなんて、それはそれは馬鹿げた話だろう。


 ――――そう、これはちょっとした『賭け』なんだ。


 もし仮にこれでこの子が将来、本当に吹奏楽部に入ったら、それはそれは『大当たり』だ。だけど、外れたら外れたで別にそれでもいい。


 むしろ、その可能性のほうが高いだろう。この子がもしわたしのこの言葉を本気にしたとしても、それはきっと今だけだ。


 この子のこれからの人生はずっとずっと長い。だから、すぐに今日のことなんて忘れるだろう。


 覚えていたとしても、それは幼少期の楽しかった思い出の一ページにとしてでしか残らないと思う。


 でも、別にそれでもいい。


 ……わたしの目的は、ただこの子を笑顔にさせることだ。


 不遇な幼少時代を生きる少女に、わたしのこの言葉で、一瞬だけでも確かな希望と使命を与えられるならば。


 もしかしたらそれは、この子がこの先強く生きるための大きなかてになるかもしれないから。


 不遇な境遇を生き抜き、この子が心からの幸せを掴んだその時、わたしの存在は忘れられていたとしても構わない。


 のんちゃんは、しばらく考え込むように俯き、黙っていた。


「すいそうがくぶに…」


 のんちゃんは俯いたまま、わたしの手を強く握り返した。


「すいそうがくぶにはいったら、のんちゃんもおねえちゃんみたいに、おともだちできる?もう、ひとりぼっちじゃなくなるかな…?」」


 のんちゃんのその言葉に、わたしはハッとして、自由帳を顔から外した。


 すると、目の前にはわたしの瞳をじっと見つめるのんちゃんの顔があった。


 不安そうな、泣きそうな、訴えかけてくるような瞳で。


 こんなに小さな瞳なのに、目を背けたくなるほどの真剣さや本気さを孕んでいた。


「……うん」 


 わたしは優しく微笑むと、自由帳を下ろす。今度は『カナちゃん』として、のんちゃんの頭をそっと撫でた。


「できるよ。きっと。たくさんのお友達に出会えるよ」


「でものんちゃんずっとひとりぼっちで、ともだちなんていちどもできたことないよ…?」


 のんちゃんは今にも泣きそうな瞳で、わたしに訴える。


「今はひとりぼっちかもしれないね。でも…」


 わたしは立ち上がると、ベンチに座るのんちゃんに手を差し出した。


 のんちゃんが恐る恐ると行った様子で、わたしの手を取る。その手は小さく震えていた。


 わたしはその小さな手を力いっぱい引っ張る。わぁっ?!とのんちゃんが声を上げる。


 走って、走って、走ると、目の前にはなだらかに流れる川がキラキラ光っていた。


 わたしは河辺に立つと、再びのんちゃんの目線に合わせてしゃがみ込む。


 手で風を切って、空を指さした。見て!と、きょとんとした顔の少女に笑いかけた。


 わたしの指さした先には、果てしなく大きな空が広がっていた。


 どこまでも青くて、広くて、終わりなく遠くまで続いていく空が。


「こんなに世界は広いのに、のんちゃんとお友達になってくれる子がひとりもいないなんて、そんなはずないよ」


 さあっと強い風が吹く。のんちゃんが摘んできた白詰草が、風とともに空に舞い上がる。


「今、きっとこの広い広い空の下のどこかで、のんちゃんに出会えるときを待っているんだよ。」


 のんちゃんも、わたしと同じように空を見上げた。


「でも…もしずっと出会えなかったら…?」


「大丈夫。出会えるよ。だって、わたしだって出会えたんだもん。あの場所吹奏楽部があったから」


 あとは、のんちゃんの返事を待つことにした。


 のんちゃんは空を見上げたまま黙り込んでいた。が、少しの間を置いた後、小さな声が返ってきた。


「わかっ、た。」


 のんちゃんは大きく首を縦に振って、意を決したようにわたしと目を合わせる。ほんと!?と、わたしが目を見開くと、


「わたし、大きくなったら、すいそうがくぶにはいる!ぜったいはいる!」


 のんちゃんは息つく間もなく、そうはっきりと言い切った。


「それでおともだちがたくさんできたら、わたしもあのステージで吹くんだ!」 


 そう言って、のんちゃんは笑った。思いっきり――――心からの笑顔で。


 初めてのんちゃんの笑った顔を見た。その笑顔が予想以上に可愛くて、気づいたらこっちまで笑っていた。

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