#07 ひとりぼっちの女の子

 先生の情熱籠った声音を思い出しながら、楽器に息を入れ続ける。


 わたしの担当するホルンは、あまり主旋律を吹くことがなく、いつもオブリガードやリズムばかりを担当することが多い。


 つまらなくはないけれど、トランペットやクラリネットのようなメロディーをバリバリ吹きたいと憧れるときは多い。


 だから、ソロを頼まれたときは、心の底から嬉しかった。思わず、飛び上がって喜び回りたいような衝動に掛けられるほど。


 それに、先生がわたしたちのことをあんなに大切に思ってくれていたと知り、とても誇らしい気持ちだった。 


 先生は、わたしたちの無理な頼みを聞いてくれたんだ。だから今度は、わたしたちが先生のお願いを聞く番だ。わたしとユキちゃんはソリを引き受けた。


 でも忠告されたように、いままで吹いたことがないくらいに難易度は高かった。


 実際吹いてみて分かったが、妙に指使いは複雑だし、高音が続いて口も持たなくて、何度も何度も音を外したり滑ったりした。


 だから、何ヶ月間もそこばかり練習した。そのおかげで、今では楽譜を見なくても吹くことができる。


 でも、ソロばっかり練習するな!って、ユキちゃんに怒られたんだよなぁ……


 そのときだ。真後ろからカサカサと、不自然な音が聞こえた。 


 思わず、楽器を下ろす。誰か居るの?と勢いよく振り返る。


 そこには誰もいない…と思ったら、すぐ下から『ひっ』という怯えたような小さな声が聞こえて、わたしは視線を下に向けた。


「あっ…」


 そこには、小さな女の子がぽつんと立っていた。


 わたしが呆然としている間に、女の子の顔はみるみるうちにトマトのように真っ赤になった。


 女の子はわたしと比べ物にならないくらい背が低い。背丈からして六・七歳くらいの年頃だろうか。


 水色のフリルのついた可愛らしいブラウスを着たお下げ髪の少女。手には、この近くのクローバー畑で積んできたのか、真っ白な白詰草を大事そうに握りしめていた。


 もしかして、さっきのわたしのホルンの演奏を聞いてくれたのかな、と思った。


 どうしたの?わたしはそっと微笑みを浮かべると、女の子に話しかけた。


 しかしその瞬間、恥ずかしかったのか女の子は素早く逃げ出した。


 ……かと思ったら、すぐ後ろにあった木の陰に隠れてしまった。


 わたしから隠れようとしているのだろうけど、こっちからみたら十分木から体が丸見えだ。


 しかもときどき顔を出してわたしのことを確認している。


 それで隠れきれているつもりなのかと思うと、可愛らしくてつい笑みが零れてしまった。


 わたしは女の子に気づかれないよう、静かにそっと近づいた。


「ねぇねぇ!何してるの?」


「わぁっ!」


 わたしが木からひょっこり顔を出して声を掛けると、隠れていた女の子は驚いてさっきよりも大きな悲鳴を上げた。


 それだけだったらよかったのだけれど、困ったことに、女の子の目がみるみる潤い始めていくのだ。


「うぅ……」


 しかも、嗚咽らしい声を上げ始めている。わたしがその事に気がついたときには、時すでに遅く、


「うえええん……!」


 女の子は肩をすくめて泣き始めた。


 噓でしょ?!わたしは焦った。怖がらせるつもりなんて微塵もなかったのに。


「ご、ごめんね…!怖かったよね…」


 わたしは必死になってその女の子の背中を擦りながら宥めた。


 しかし女の子は泣くばかりで返事はなく、泣き止む様子は全くなかった。


 溢れる涙を手で拭うと、女の子の手からは白詰草がポロポロと地面に落ちた。


「ごめ、泣かないで…」


 わたしは人が、特に小さな子供が泣いている姿を見るのが苦手だ。どうしても痛々しくて直視できない。 


 どうしよう、どうしたらこの子の涙を止めることができるのだろう。 


 ちらりと振り返ると、ベンチの上に置きっぱなしになっている楽器が目に入った。


 いいことを思いついた。わたしは急いで楽器を取りに行き、女の子に向かって楽器を構える。 


 すぅ、と息を吸って、楽器に吹き込む。おそらく全国の皆さんが幼少期に何度も聴いたことがある童謡『かえるのうた』を吹いた。


 すると、女の子はハッとした様子で、涙で濡れている顔を上げた。。


 よし、いける!と思ったわたしは、引き続き『チューリップ』を吹いた。


「う…うわぁ…!」 


 女の子の泣き腫らした目は、みるみる内に輝き出す。わたしの吹く一音一音を、目を逸らさずに聴いてくれた。


 一通り童謡を吹き終わる頃にはもう、女の子は泣いていなかった。心の底から感心している様子で、小さな手で拍手までしてくれた。


 わたしは嬉しくなり、思わず笑う。


「あ、ありがとう。どうだった?」


 わたしは女の子に怖がられないように、目線が合う位置までしゃがむ。


 女の子は少しの間、照れくさそうにもじもじしていたが、


「あ、あのね…す、すごかった!かっこよかった!そのピカピカなの、なぁに?」


 女の子はわたしの手の中で眠る楽器を興味深そうに見る。わたしは女の子をベンチに座らせる。わたしはその隣に座った。


「これはね、『ホルン』っていう楽器だよ」

「ほるん……?」

「そう。知ってるかな?」


 そう聞きながら、まぁ知らないだろうな、とわたしは勘ぐっていた。


 トランペットやサックスなんかと違って、あまり知られていない楽器だから。まぁ、ユーフォニアムやファゴット辺りよりかは知られていると思うが。

 

 わたしの予想通り、女の子は首を横に振った。

 

 触ってみる?わたしが楽器を女の子の体の前まで持ってくると、その子は瞳をぱあっと見開き、大きく首を縦に振る。


 女の子の小さな人差し指が、ゆっくりと楽器に伸びる。恐る恐るといった様子で、ホルンの金色のラッカーをなぞった。


 金属の楽器に反射して映る自分の顔を、不思議そうにしばらく見つめている。


 指が楽器から離すと、ほんのりと白い指紋が浮かぶ。わぁっ!と女の子はそれを見て焦り、指でゴシゴシと消していた。


 すごく有り触れた幼児の行動なのだろうが、わたしにはそれがすごく可愛らしく思えて、つい笑ってしまった。


「ねぇ、あなたのお名前は?」

「のんちゃんは、のんちゃんだよ!」


 女の子は誇らしげに自分の名前を言う。


『のんちゃん』か。本名なのか渾名なのかは分からないが、可愛らしい名前だなと思った。


 そこでふと、気になった。どうしてこの子は、ひとりきりでいるのだろう。このくらいの年齢の幼児なら普通、外にいる時は両親か保護者がそばにいるはずだが。


「ねぇ、今日は誰と来たの?」


 えっとね。のんちゃんは楽器から目を逸らし、少しの間、考え込んでいた。


「今日はね、おかあさんときたよ。おかあさん今、しらない人とお話してる」

「おかあさんと二人で来たの?」

「うん。おかあさんむかし、すいそうがくぶに入ってて、おーけすとら?きくのがすきなんだって」 

「へぇ……」

「それに、のんちゃんがおおきくなったら、わかのみやちゅうがっこうにかようから、って……」 

「そうなんだ……って」


 のんちゃんの『わかのみやちゅうがっこう』という単語を聞いた瞬間、わたしは目を大きく見開いた。


 その単語を聞き流すはずがない。だってわたしが通っている中学校だから。


「……も、もしかして若の宮町に住んでるの?」


 驚愕しているわたしを他所に、のんちゃんはあっけらかんと『うん』と頷く。


「もしかして、若の宮小学校に通ってる?」


「うん。わかのみやしょうがっこうのいちねんせいだよ。」


「わたしもだよ!若の宮小学校に通ってたの!転校生だったけど…」


 驚いた。てっきりこの会場の近くに住んでいる子かと思ったのに、まさかの地元が同じだなんて。


 ということは、お互いの家も近いのだろうか。のんちゃんとは今日初めて会ったから何も分からないが。

 

 世の中、意外と狭いものだなぁ。


「おねえちゃんもすいそうがくぶなの?」

「そうだよ、吹奏楽部」

「ほかのみんなも?」

「うん、今日ステージに出てたみんなは、同じ部活だよ」

「おねえちゃんは、みんなとおともだち?」


 この子から予想外の質問が投げかけられる。『え?』と少し戸惑ったが、すぐに『そうだよ』と返した。 


「そっか……」 


 のんちゃんはそれだけ言うと俯いた。その姿は幼い子供とは思えないくらい、寂しそうな雰囲気を放っていた。


 いいなぁ。そう小さく呟いたのを、わたしは聞き逃さなかった。             


「いいな、って……なんでそう思ったの?」


 わたしはその子の顔を覗くと、自分の中で出せる最大限優しい声で聞いた。


 のんちゃんはしばらく黙り込んだままだったが、ちら、と顔を上げてわたしの顔を見る。


「みんな、のんちゃんのこと嫌いだから」


 その声は、今にも吸い込まれて消えそうだった。

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