つながる旋律
#06 運命の演奏会
【2014年7月7日】
昨日の夜はあまり眠れなかった。
朝の四時に起きないといけなかったから、九時にはベットに入ったのに。
でも本番前特有の、どうもそわそわして落ち着かない感覚がして、ずっと窓の外の夜空を見ていた。
空を見上げると、昨日ずっと見ていた空も夜が明けて、今は信じられないくらい青かった。
目の前をゆっくり流れていく川は、太陽の光が反射しキラキラと煌めいている。
この大空の青い色は、いったいどこからきているのだろうか。
誰かが絵の具で塗っているのだろうか。もしかしたら神様が塗ってるのかなぁ。
だけど空は毎時間色が変わっている。曇りなら白、雨なら灰色、夕方は橙色、夜は黒。
その度に神様がわざわざ塗り変えるのは大変だから、誰かに手伝って貰っているのだろうか。
わたしは青空に手を伸ばした。
「おーい」
そんなことをしていると、後方から声が聞こえた。
「おーいっ!カナ!」
その声はわたしに向けられたようで、振り返る。
そこには頬を膨らませた、セーラー服を着た女の子が立っていた。ユキちゃんだった。彼女は大きく息を吸うと、
「そんなところで何してんのー!今、チューニングの時間!」
わたしに向かってそう叫んだ。ああ、もうそんな時間かと、わたしは走って彼女のもとへ向かった。
「ったくもう!まーたすぐどっかいって!探したのよ!」
到着そうそう、不満そうな顔をしたユキちゃんによる説教か始まった。わたしはえへへと笑うと、
「ごめんごめん、時間があって暇だったから探検してたんだぁ〜」
「そういう時間は準備とかに使うものなの!ったくカナはただでさえ忘れっぽいんだから!」
やっぱりユキちゃんは、いつもわたしのお母さんた。
「速く行くよっ!」
ユキちゃんは勢いよく走り出した。待ってよー!とわたしは彼女についていった。
わたしはユキちゃんを追いかけ、会場の正面まで走る。
団地の学校からバスで1時間近くかけてやって来たのは、都市部にある県で一番大きい文化ホール。
今日、ここで若の宮中学校の定期演奏会が開催される。
会場の入口には『若(わか)の宮(みや)中学校吹奏楽部 定期演奏会』と大きな文字の看板が設置されていた。
中に入ると、もうロビーは人で溢れかえっていた。子供を連れている大人や、友達同士で来ている中学生など、年齢問わずろいろいろな人がいた。
わたしたちは階段を駆け上がると、受付で「出演者です」と説明して、ホールの入場口からそのまま飛び込み、裏のチューニング室の中に入った。
「すみません、遅れました!」
中に入ると、既にチューニングは始まっていた。わたしたちが入った瞬間、みんながピタッと吹くのを辞めた。
前で指揮を振っていた顧問の北上先生は、一瞬こちらを見たあと、『ああ、よかったちゃんと居たのね。』と安心したように言うだけだった。
それからすぐ指揮に戻ったので、わたしはほっとした。よかった、怒られなくて。
自分の席に置きっぱなしだった楽器を構えると、二回、フッと息を吹き込んだ。
これで唾がたまってたらカサカサという音が鳴るのだけど、鳴らなかったのでわたしもチューニングに参加した。
「さんっ、しっ!」
先生が指揮棒を振ると、みんなが一斉にb♭の音を鳴らした。
チューナーの針が、ピタッと真ん中で止まって、そこから大きく揺れることはなかった。
ああ、やっぱり音程があっていると、吹く側も聴く側もかなり良い気持ちになれる。少なくともブレブレの音よりかは。
メトロノームに合わせて八拍伸ばし切ると、先生が指揮棒を止めた。
「はい。いいと思います。音程もあっていたし…そうね、もう少し低音が出て来てもいいかもしれないわね。」
先生の優しめの評価を受けた後、部屋の扉がガチャ、と開いた。外から、黒いワンピースを着たスタッフの女性が入ってくる。
「そろそろ出番です」
行きましょう。北上先生がそう言い、みんな一斉に楽器だけ持って舞台裏へと向かった。
【♪♪♪】
薄暗い舞台裏で出番を待っていたら、背中を誰かに指でつつかれた。
「カナちゃん先輩、緊張します~」
パートの後輩だった。いつもは明るくて元気なのに、今にも泣きだしそうで声が震えている。
「そうだよね、初めてだもんね。でも、大丈夫だよ!とりあえず演奏メインの第一部だけ全集中して、第二部になったらもうはっちゃけていいよ!ダンスの子達ととことん楽しみな!」
そう言ってへへっと笑うと、後輩は『先輩は緊張しないですごいですね』とキラキラとした目でわたしを見た。
「え、そうかなぁ?でもわたしね、一年生の初めてのコンクールの時、ステージで盛大にこけたんだぁ。」
「ええっ!」
「あのね、入場するとき床で滑って顔からこけて、すごい注目浴びたの。」
ふふふ、と少し控えめに笑う。あれ以来わたしは『ドジな子』という印象が染み付いてしまったのだ。
その時はものすごく恥ずかしくて、消えてしまいたかったくらいだけど、今となればもう笑い話だ。
「来てくれたお客さんに喜んでもらえたら、それで十分だよ。だから楽しもう!」
「……はい!」
後輩が笑って大きな声でそう返事をする。よかった。笑顔になってくれて。
そろそろ出番です。と、さっきとはまた別の黒のスーツを着た男性に出迎えられる。
その声を合図に、みんなが歩き出す。緊張するねー。そんな声がどこかから聞こえてきた。わたしも、少しだけ緊張していた。
舞台に上がると、みんな自分の定位置の席を探して座り出す。わたしは前から三列目の、一番端の席に座った。
全員が座り終わると、舞台を覆っていた真っ赤なカーテンがゆっくりと開きだした。
カーテンがすべて開ききったとき、隠されていた観客席は目の前だった。
「それでは、第一部のスタートです!」
アナウンスとともに、さっきまで暗かったステージを、明るすぎる白色の光が照らした。
指揮者である北上先生が壇上に上がり、一礼する。ゆっくりとした動きでみんなの方を振り返ると、ニコリと優しく微笑んだ。
そして、指揮棒を大きく振り上げる。その瞬間を逃さず、楽器に息を吹き込んだ。
【♪♪♪】
「ねぇねぇおかあさん、演奏上手だったねぇー!」
「そうね、みんな頑張ってたわね」
会場外の裏庭の広場では、演奏を聴きに来た子連れの親がたくさん居る。
幼稚園から小学校低学年くらいの子どもたちがそこで遊んでいた。わいわいとはしゃぐ子どもたちはみんな楽しそうで、可愛かった。
裏庭は夏の吹奏楽コンクールで毎年、演奏終了後の記念写真を撮る場所だ。
緑の草木が一面に生い茂り、その向こう側には大きな川が流れている。その上には澄み渡るおおきな青い空。
わたしはすぐ近くにたまたまあったベンチに座り、色鉛筆でその景色を模写していた。
あの日使っていた自由帳、何だか使い切りたくなくて。まだ白紙のページを何ページか残している。このベンチから見える美しい景色、いつか描いてみたいと思っていたのだ。
第一部は無事に成功した。今は、第二部との間の休憩時間。
今頃涼しい楽屋で、みんなでおしゃべりしてるんだろうなぁ、とわたしは想像しながら、ひたすら青の色鉛筆を走らせる。
まぁこんな感じかな。とわたしは色鉛筆を置く。絵を描く時間が減った分、画力は年々下がっている気がするが、そこそこ満足がいく絵が描けた。
やることが無くなってしばらくぼんやりしていると、楽器が吹きたい、と無性に思ってきた。
ベンチの横に置いておいたホルンのケースを開けると、中からホルンを取り出す。手に取ると、太陽の光に反射してキラキラ光って、とても綺麗だった。
ホルンの小さなマウスピースの中に息を吹き込むと、それを唇に当てて、唇を震わせた。
ロングトーンを下のドから上のドまで伸ばす。もう吹いてもいいかな。
息を深く吸うと、『
【♪♪♪】
「ふたりに、このソロを吹いてほしいの。コンクールでやろうと思っている曲の」
今から数ヶ月前の、二年生の春休み。わたしとユキちゃんは、北上先生にそう言われた。
先生から差し出されたスコアには『Beyond that sound』と書いてある。直訳すると『あの音の先で』『あの音の向こうで』らしい。
「この曲は私が作ったのよ。この人と一緒に作ったの」
先生が指差した先には、『北上響子』と先生の名前がある。
その下に書かれているもう一人の作曲者の名前に、わたしは目を大きく見開いた。
「えっ?!あ、あっ……綾瀬星楽!?」
隣のユキちゃんもとても驚き、らしくもない大きな声を出した。
「あの?!有名な?!クラリネットの?!」
「……んまぁ、そうね」
先生は少し困った顔で笑う。驚きのあまり、わたしの口からはしばらく言葉が出なかった。
「一緒に作った」ということは、先生は星楽ちゃんと共同作業をしたということ。何かしらの事情で、実際に会っているということ。
演奏会はチケットも中々取れなくて、一目会うのさえ難しい。そんな星楽ちゃんと会って、しかも話せて……
「えっ、ってことは、星楽ちゃんと知り合いなんですか?!」
「…まー…そうね。」
わたしより更に驚愕しているであろうユキちゃんが、目をキラキラと輝かせながら北上先生に迫る。
「えっ、なんで知り合ったんですか?!どこで会ったんですか?!この曲いつ作ったんですか?!」
ユキちゃんは早継ぎで先生に質問を投げかける。その頬は興奮しており赤い。
いつもの冷静なわたしの親友は、いったいどこに消えてしまったのだろうか。「頼れる部長」から一瞬にして「星楽ちゃんオタ」に変貌したユキちゃんに、北上先生は困惑していた。
「それは置いといて!ソロの話に戻りましょう」
先生が手でバシッと制止すると、ユキちゃんは見るからにがっくりと肩を落とした。わたしも星楽ちゃんの話が聞けなくて残念だと少し思ったけれど、それよりもソロの話の方が気になっていた。
「で、このソロは中学生が吹くにしては難易度が高いの。特に、ホルンは。」
楽譜を見てみると、確かに難しそうだと思った。いや、絶対難しい。
五線譜を超えた高音の連続、三連グリッサンドに、金管には難しい長い連符。
本当にホルンの楽譜なの?と疑ってしまうほど。いままでやったことのある曲と比べても段違いにレベルが高い。
「でも、私はあなたたちに吹いてもらいたいの。あなたたちが『吹奏楽部を作りたい』と、いくら私に断られても、諦めずに私の下へ来ていたわね。でもそのおかげで、この吹奏楽部は出来たのよ」
北上先生は楽譜に目を落としながら、嬉しそうに微笑んだ。
「だから、あなたたちにこのソロを吹いて、あの会場を、響かせてほしい。金賞を取ってほしい。あわよくば、中国大会に行きたいの」
楽譜上で機敏に走り回っている音符たち。それらを映した先生の瞳は、いままでにないほど真剣で、妥協なんて一切感じさせなかった。
「先生からの、お願い」
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