潮騒の子




 彼の元に他部署から調査の依頼が来たのは、まだ残暑厳しい九月の初めである。

 どうやら、ある五十代前半の女からの相談のようで、自分の娘が子どもを身籠ったらしいが、様子もどこかおかしい。最近友人と共に海に出かけた際に暴行を受けたのかもしれないから調べてほしい、というものだ。

 性的暴行を事件に発展させる事は難しい。相談を受けた警察官はお相手の方も立場があるでしょうし、何も力になれる事はないかと思いますが、と、やんわり話を受け流し断ろうとしたそうだが、そのあまりの必死さに断っては面倒なことになりそうだと形だけでも話を聞き、彼女が聞き出したという連絡先に電話をかけ、相手の男の話も聞いてみることにした。

 しかし、どれだけ話をしても男はそんな事はしていないという。確かに出会った日の晩、そうした関係を待とうとしたが女性の方から断られたそうだ。更に男は既婚者。妊娠などそんなリスクを負うわけがないと怒りはじめた。

 ……既婚者ならなおさら、他の女を抱こうとするなと呆れてしまうが、更に母親から話を聞くにつれ、これは普通の妊娠ではないことに気づいた。調べてみても、同様の症例もなく人間の体では起こり得ないことばかりだ。これは通常の事件ではないと判断され、彼の元へ話が舞い込んだのだそうだ。



 お使いとして寄越された新人の巡査から手渡された調書を読み、彼はコーヒーを一口飲む。カップを持ち上げた時に金と宝石のカフスボタンが高級なスーツの袖口からチラリと覗き、巡査は自分とは違う彼の生活環境を想像する。

 調書を最初から最後まで読み終えると、彼は怪訝そうに目を細め、細い脚を組み直す。

「妊娠した女……母親に黙って男と付き合うなんて、二十代そこそこの妙齢の女なら当然のことだろう。もちろん、火遊びも。ただ妊娠したからといって、血相変えて警察に殴り込んでくるなんて、本当に優しいお母様のようだね」

「まあ、それは自分も同意します……が、会ってみればわかりますよ。明らかに異常なんです」

 嫌味っぽい言い方に巡査は少し怖気付くが、これは仕事なのだと思い直して言い返す。どうりで過去に彼の元へ行った同僚は嫌がったりなにかと言い訳をし、無理に用事を作り行ってくれなかったわけだと悟る。自分もおそらく二度目はないだろうと思いながら、彼の気持ちが変わらないうちに、あらかじめ連絡をとっていた件の女を部屋に通すことにした。

 女は、とても愛嬌のある顔をして、綺麗な長い髪だった写真とは異なるさっぱりとしたショートカットで「お腹の子が産まれたら邪魔になるから切ったんです」と笑う。腹は調書の通り臨月の妊婦のように膨らんでいる。

 二人はアイコンタクトを取りあい、彼は冷蔵庫から有名パティスリーのクッキーを取り出し皿へとのせ、巡査は駆け足で署内の自動販売機へ向かい、おそらく日本で一番手頃なカフェインレスのお茶であろう麦茶を買ってきてくれた。ジュースのように糖分もなく、妊婦にとって最良の選択だろう。想像していなかった働き振りに彼は

「ほう、君は気がきくじゃないか。めずらしいね」

 と感心した様子で、どこから持ってきたのかわからない、無骨な署内に不似合いなアンティークの美しい彫刻が施された木製のテーブルの上にペットボトルのままクッキーと並べて置くと、再び椅子に深く腰掛け長い脚を組み、対になっているビロードの布が張られたソファへ女を座らせる。

「大きなお腹でここまで来るのも大変だったでしょう。ご足労ありがとうございます。何度も生活課のものから話を伺ったかとは思うのですが、宜しければ私にも話を聞かせてくれますか?」

 先ほどの嫌味ったらしい様子とは打って変わって、上品な振る舞いに巡査は思わず眉根を寄せる。数多の女性が絆されるであろう彼の対応をかわすように女は笑い、膨らんだ腹を撫でた。

「ママが何を言ったか知らないですけれど……何度聞いたとしても、何も変わったことなんてありませんよ?私は経験したことしかお話できないですもの」


 女はただ、七月二十八日に海水浴に行き友人たちと遊んでいたらしい。水着で海を泳ぎ、その時出会った男と深い仲になりそうな時に相手には家庭がある事を知り怒って帰宅した。

 それから、三日ほど経ち不思議なことが起こった。女の腹がわずかに膨れ始めたのだ。

 最初はイベントも多い季節だ。太ってしまったのだろうと考え、運動量を増やし食事の量も減らした。けれども女の体型は変わる事はなく、今まで乱れたことのない月のものも来なくなった。さらに不思議なことが起こった。

 どくん、どくん、と膨れた腹から胎動を感じ始めたのだ。

「私、それを感じた途端にとても愛おしくなって……ほんとうは訳がわからないですよ。身に覚えもないし。でも、なんだかとても可愛くって」

「ほう」

 海へ行ってから、たった二ヶ月でここまで腹が膨らむ事は人間の子を身籠っているのだとしたらありえない事である。川に出かけていたのなら、何かしらの寄生虫の可能性も考えられるだろうが、今回はその線は薄そうだ。

 


 その後も些細な世間話を挟みながら、本来調査書に書かれることのない……けれどもおそらく必要な事なのであろう、最近見た印象的な夢や好みの変化などを聴取し、追記していく。

 だいたい二時間ほど、話を聞いただろうか。彼は女へメモを渡し、お腹の子のためと言いある病院を紹介した。初産は難産であることが多いから入院は早いほうがいい。知り合いの医師がいるから費用も多少まけてもらうように説得するので、そこに入院するといい、と嘘までついて。

 それから二週間ほど経ち、女の腹は破裂しそうな風船のように丸く大きく膨れ上がっていた。度々彼が見舞いに来たが、その度に腹だけが丸く膨れ、体は痩せ細り枯れ枝のようになっていく。まるで産まれたばかりの稚魚のようである。

 母親も最初のうちは面会時間いっぱいまで女に付き添っていたものの、良くならない娘の姿に苛立ってきたのか医者や看護師に掴み掛かり暴言を吐き、ついには面会も禁じられるようになってしまったようだ。

 そして、それから間も無く女の腹は割れた。腹には赤ん坊がいたはずなのに羊水もなく、無論臓器も全て粉々のペースト状になり、比較的無事なのは頭部と手足の先だけ。

 その腹から出てきたものは、まるでタコのようなイカのような、無数の触手を生やした、キラキラと蛍光色に輝く青い血液が透ける裂けた口に二重三重に歯が重なった生物であった。

 それは、まるで母に甘える子のようにペースト状になった臓器に触手を絡ませコロコロと転げ回り、金属が擦れ合うような声をあげて遊ぶ。連絡を受けて病院に駆けつけた彼は、それを見て青ざめ、長い指で端正な顔を覆った。

「ああ、これは……僕ではどうしようもできやしないさ。まさか神の子を孕っていたとは。……なるほど、どうりで」


 調査によると、どうやら女の子宮は通常であれば子供の生育に合わせて広がっていくものの、彼女の子宮にはそのような形跡はなく、妊娠していない時と同じサイズであったことがわかった。つまりは成長していく子どもが彼女の胎を無理に広げ、張り詰め、しまいには破ってしまったようである。



 後日、行きつけの喫茶店でコーヒーを傾けながら、ラズベリーソースをたっぷりとかけたミルクのプリンをつつき、彼は店主に事件の様子を語って聞かせていた。

「でも、どうして神の子だってわかるんです?今までのように妖怪とか、なんかそんな感じのものの可能性だってあるじゃないですか。ほら、昔話であったような蛇と結婚した女とか」

 恐ろしい事件であったにも関わらず、大柄な店主はグラスを磨きながら穏やかに話に相槌を入れる。彼にとっては、この男が話す不気味な話はもう慣れっこなのだろう。

「わかるさ。人を悪戯に弄ぶのは神特有のものだからね。悪魔は人間を愛してるからもっと人に優しいし、妖怪はそもそも繁殖したいとは思わない。幽霊や何かならまた違うかもしれないが、力が弱いしここまで成長させる事はできないだろうね」

「なるほど。……じゃあ、どうして彼女が選ばれたのかな。海には女性なんてたくさんいただろうに」

 彼は店内をぐるりと見渡し、店内にいるのが中年男性のみであることを確認すると、これはあくまで一説なのだがね、と前置きをしヒソヒソと声をひそめた。

「神の子は処女から産まれると決まっているのだよ。男女のつがいで子が産まれる、そんな事実になんのロマンもない……そうした生物の理を排除したところから産まれるものにこそ価値はあるんだ。神という人々の理想が詰まった存在は、そうでなくてはいけない」

 周囲のものの話によると、女は母親によって異性との交際を禁じられていたらしい。確かに、あの母親ならやりかねない。彼女はいまだに娘が死んだのは不貞を働こうとした男が原因だ、呪いだと騒ぎ立て、付き纏っているようだ。じきにまた顔を見ることになるだろう、とウンザリした顔で署内の人間は語る。

「おそらく、あの存在はそれを知っていたのだろう。あれらの中では、彼女は聖母として扱われているだろうね。異種族の女が愛を持って我らの神を育ててくれた。……これから彼らの間で流行らなければいいけれども」

 時刻は夕方の四時を回りそうである。

 古びた蓄音機からは、まるであの赤ん坊のようなレコードを掻く針の音と静かな海のさざなみが絶えず響いていた。

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怪異奇譚 柊 秘密子 @himiko_miko12

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