最初で最後の女
ラッキー平山
最初で最後の女
複雑性PTSD(ふくざつせいピーティエスディ、Complex post-traumatic stress disorder、C-PTSD)とは、児童虐待などの長期反復的なトラウマ体験の後にしばしば見られる、感情などの調整困難を伴う、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のことである。
Kの母親は、ことあるごとに姑にいじめられ、それにじっと耐えるという、昭和にはよくある嫁姑のパターンを、最初の息子である彼の前で繰り返した。自分が幼いころに母親から受けた虐待の形を、結婚してからも周りの人間を使ってなぞるという、よくある反復の症状だったが、Kはこれも典型だが、母のその耐え忍ぶ背中、助けてほしいというSOSを感じ取ると同時に、なにも出来ない、母を助けられない自分に、深い無力と罪悪を感じ、人間性がゆがむ、という悲劇に陥った。
母からはさらにそのうえ、ささいなことで暴力をふるわれるなど虐待も受け、そのままなんのフォローもなく放置されたため、心に無数の深い傷、すなわちトラウマを負うことになった。
この重圧は幼い心身には耐えられないため、脳は彼の精神を守るために、致命的な記憶をいくつもシャットアウトし、封印した。だが記憶がなくなったのではなく、ただ思い出さないだけで深層には存在するため、生活するうえで、時おり襲う気分の落ち込みのような鬱や、生活はかろうじて出来ても、会社勤めのような普通の仕事が勤まらないほどの自己評価の低さ、自己肯定感の欠如など、さまざまな障害を引き起こすことになった。
一度か二度のトラウマであれば、封印した記憶を思い出させ、本人に自覚させ向き合わせるという「曝露(ばくろ)療法」が効果的だが、Kのように長期にわたり多くのトラウマを負っている場合は、それをすると「寝た子を起こす」ことになり、最悪の場合、精神崩壊につながりかねない。この多くの心の傷を抱えている状態を、一般のPTSD(心的外傷)と区別して、複雑性PTSDという。
もともと身体に耐えられず封印した記憶である。一つ二つならなんとかなるが、その傷の記憶があまりに多いと、たとえ成人後でも、心がダメージに押しつぶされる可能性がある。なので、よほど生活に困らない限り、徹底した治療は控えるのが普通である。
Kには幼児期に完全に欠落している記憶がいくつもある。
最も覚えているのは、幼稚園での出来事なので、おそらく三、四歳のころだろう。お昼時間が終わって保母さんが戻ってきたときだった。保育室のドアを園児たちがみんなで内側から押さえ、ふざけて入れないようにしていた。最初Kは遠巻きに見ているだけだったが、扉の窓に見える保母さんも一緒にふざけて、笑いながら泣きまねなどした。誰が見ても子供たちと保母さんが遊んでいるだけの、ほほえましい風景でしかなかったのだが、Kは見るうちに、心にかっと火がついた。
(お母さんが泣いている)
(助けなくては!)
(お母さんを、助けろ!)
そう体が叫び、あっという間にロケットのごとく飛び出して、何人もの園児がたかっているのもかまわず、そのドアを、ガーッとあけた。おそらく目を丸くしている保母さんの胸に飛び込み、ただわあわあ泣きじゃくった。幼く小さな体の全ての力を出し切り、決死の覚悟で、彼は保母さんという「母」を、窮地から「救った」のである。
だがKは、その後のことを、まったく覚えていない。しかし間違っても良い体験はしなかったろう。良いことなら、脳がその記憶を消し去る必要はないからだ。おそらく保母さんに嫌われたか、そうでなくても避けられたり、逃げられた可能性は高い。あるいは母親が来て、無神経に叱ったのかもしれない。なんにしろ、その体験が彼の精神にとってきわめて致命的だったのは確かである。
ひとりの幼児が、その人生の全てを賭けて行った「戦い」が失敗に終わり、完全に「敗北」したことは、彼の心身にすさまじいダメージを与えたろう。その後、彼はなにをするにも常におびえて遠慮しながら生きるようになる。自分は無価値である、存在の意味がない、自己肯定感が完全にゼロの無力な者、落伍者として成長した。家族はKがなぜこうも暗く落ち込んで生きているのか、まったく分からなかった。母親は、彼の幼稚園での体験を、ただのささいなこととして気にしなかっただけでなく、彼のダメさをただの甘えととらえて、しつけのつもりで暴力をふるった。彼女も愛情をもらわずに育ったので、Kのことで問題が起きても、ただ虐待しか出来なかった。
誰も彼の心情を理解しなかった。といって不良にもならず、精神疾患にもならなかった。それは弟と仲がよく、二人でシェルターに避難するように、どちらかの部屋にこもって遊ぶという安らぎの時間があったことが大きい。
だがKは基本的に対人恐怖で誰も信用できなかったので、弟ともわかりあうことはなく、表面的な会話だけで、本心をあかすことはしなかった。まして、あの幼稚園の体験を話すなど、もってのほかだった。それは、生活で唯一の「生きられる時間」を失うことであり、破滅を意味した。
「私が女性になにかをしてあげたことは、あとにも先にも、それしかありません」
Kは神経科で臨床心理士に言った。
「気に入る人がいても、自分が女性と付き合うような身分ではない、と感じて、すぐにあきらめてしまいます。それでいい、こんな人生なんだし、仕方ない、とあきらめて、こうして四十年間、生きてきました。仕事はなんとかできるし、ただ生きるには問題ありませんから。
ところが――」
口ごもったので、心理士は目じりを下げて優しく言った。
「意中の女性が出来たのですね?」
「はい」
Kは、白が基調の清潔感あふれるこの面談室の、汚れひとつない木製テーブルに目を落として答えた。
「どうしても彼女に告白したいのです。こんな気持ちは生まれて初めてです。しかし、もしも勇気を出して告白し、彼女と付き合ったとしても、うまくやっていける自信がまるでありません。
今までも、なにかに興味を持ったり好きになって初めても、すぐにいやになってやめてしまう、ということを繰り返してきました。弟を除き、友達がいたこともありません。そんなんでも、かろうじてできる仕事をなんとかやっていますが、対人関係は最初からあきらめています。
しかし、彼女のことは絶対にあきらめたくない。
私が女性一般に恐怖しか感じないのは、母のせいもありますが、あの幼稚園での記憶が、根本にあるとしか思えないのです。そのとき、なにがあったのかを思い出せれば、彼女と付き合ってもいやになることなく、うまくやれるようになるのでは、と思って、こちらにうかがったのです」
「そうでしたね」
心理士は、卓上のシートを見ながら言った。Kの治療のために作られた資料で、上から並ぶさまざまな項目に、点々とチェックが入っている。
白衣のまだ若い心理士は、しばらくシートを見たあと、眼鏡を指でかけなおすと、Kを向いた。
「Kさんとしては、その女性に対する気持ちは、出会ってからずっと変わらないのですね?」
「はい、半年近くになりますが、想いはますますつのるばかりです。決して、一時の気の迷いではありません。こんな不安定で最悪の人間なのに、こんなに強い感情が続くなんて、初めてです」
「確かにおっしゃるとおり、あなたの抱える問題の原因のひとつに、その幼稚園での体験があるのは間違いないでしょう」
心理士は、安楽椅子に深く身を沈めてから続けた。
「ただ、トラウマの治療には危険も伴います。体験が少なければいいのですが、あなたのように、トラウマの数が多くて、幼児期からの積み重ねが絡み合って非常に根深く、記憶の欠落があまりに多いばあい――これを複雑性PTSDというのですが――それを治すための曝露(ばくろ)療法には、精神が耐えられないかもしれない。
当時、幼児にはそれがあまりに重荷なので、体を守るために脳が封印した記憶です。またそれを思い出すことで、ほかの欠落した記憶まで、よみがえる可能性もあります。成人でも、大量の記憶の傷が押し寄せた場合、危険なことにもなりかねません。
それにKさん、あなたは母親だけでなく、父方のおばあさんからも虐待を受けていますね?」
「……はい」
Kのトラウマは基本的には母からきているが、実はそれ以前に、祖母からも深い傷を負っていた。
最初の子供というので、姑は母を差し置いて四六時中彼にべったりで、彼には祖母のほうが母らしかった覚えがあるくらいである。だが、この「おばあちゃん」は、表面的には孫に優しく、甘やかすように見えたが、K自身は彼女といて安らいだことが一度もなく、そればかりか、必死にゴマをすって気に入られようとした。母が冷たかったせいもあって、「この人間に見捨てられたら、もう終わりだ」と幼心に思ったからである。
祖母はKを、息子を盗った嫌な女に対するあてつけ、戦利品のように扱い、しかることはまずないかわりに、彼が思い通りにならないとすぐ不機嫌になるため、彼はそうならないよう、常に調子をあわせ、気を使わねばならなかった。
というか、そもそも「彼が言うことをきかない」という状況が、その家にはなかった。Kはすべてを周りの言うとおりにした。彼は三歳にしておむつが取れ(ちなみに弟は、ギスギスした家庭からの過剰なストレスで、小学校にあがるまでおねしょし続けた)、以後は他人から見て、薄気味悪いほど素直な良い子になった。表面的には「普通の子供」を演じ続けてはいても、幼児期から、彼自身はまったくこの世に存在しなかった、といっていい。
彼は祖母に「おばあちゃんが、おかあさんならいいのに」と、しょっちゅう言っては喜ばせた。うわべは優しかったから、そう思うのも子供にはよくあることだが、彼の場合は、その根に深い恐怖があった。見捨てられず、生きるための必死のおべっかだった。
その後、母親の言いなりの旦那に愛想をつかしたKの母は、二人の子供をつれて家を出たが、祖母がいなくなったことで、Kは母の暴力にじかにさらされることになり、以前の数倍の恐怖に脅かされ続けることになった。
「Kさんの場合、祖母のあとに母親、というふうに、二重にやられてしまっている。これは、かなりのダメージのはずです。当時の多くの記憶の欠落は、そのダメージを回避するための防衛反応なのです。ですので、それらをひも解くことは、相当の危険が予想されます。
もちろん、やるとなれば、ご希望どおり、その幼稚園の記憶の回復のみに集中して、ほかはいっさい手をつけないよう徹底しますが――、それでも、完全な保証はできかねるのです。それに、その幼稚園のトラウマ自体が、恐ろしく根深く、危険な可能性もあります。
できれば、その記憶にも手をつけずに済めば一番なのですが……。
それは無理、ということですね?」
「……私は、これに人生すべてを賭けたいのです」
Kはふだんは丸まっている背筋をしゃんと伸ばし、しっかりした決意の目で見つめて言った。口調にも相当の覚悟が感じられた。
「もう、これまでのような惨めな人生は嫌なのです。これまでもカウンセリングを受けたり、精神の薬をもらったことはありますが、まるで意味がありませんでした。私の苦しみの全ての元凶は、過去のトラウマにあるのは間違いありません。なにも、それを全て解消して薔薇色にしたい、などとは思っていません。ここまで来て、今さら普通の人生を生きたい、なんて贅沢も言いません。
ただ彼女は、この長くつまらない人生で、初めて好きになった女性なのです。そりゃ私だから、あとで失敗するかもしれない、すぐ別れるかもしれない。それでも、彼女のために、たったひとつのトラウマを克服してみたい。それだけなんです。どんな結果になろうと、覚悟はできています。どうか、お願いできませんか」
頭を下げられ、心理士はあわててあげるように言い、すこし思案した。「五分ください」と奥へ引っ込み、六分後に出てきた。そして立ったまま、「わかりました、やりましょう」と言った。
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それから一月後。
東京郊外から遠く離れた山あいにある、とある閉鎖病棟の一室に、Kの姿があった。安楽椅子に腰かけ、テレビのモニターをじっと見つめるその瞳にはなんの光もなく、顔にもなんら表情がなく、画面になにが映ろうが、ただじっと動かない。彼の精神は完全に崩壊し、植物状態だった。
かつて精神科で受けたトラウマ克服のための曝露(ばくろ)療法は、彼の決して思い出してはならない禁断の記憶を呼び覚まし、その精神を徹底的に押し潰してしまった。ほんの一瞬だった。心理士も手の打ちようがなかった。まるでどこからか狙っていた暗殺者の凶弾に倒れたように、不意にKはがっくりと机に伏せ、そのまま動かなかった。そして、面談室であの強い意志を持ち、目を輝かせて覚悟を決めた彼は、二度と帰ってこなかった。
理由は病院側にも謎だった。あの幼稚園の記憶が、それほどまでに根深く恐ろしいもので、呼び起こしたとたんに彼の精神が破壊されるほどに強烈だったのかもしれないし、あるいは治療をきっかけに、封印されていた別の無数のトラウマの記憶がまとめて解放されてしまい、彼の意識へ一度に流れ込んで、パンクさせたのかもしれない。
後者の線が濃厚だったが、前者の可能性も否定できない。三、四歳の幼児が、己のすべてを賭けてある目標へ突進し、それにあえなく敗れ去る、という経験は、ほかに例がないからだ。
Kは人生の初期に、幼稚園の保母さんという「母親の幻影」を助けるため、わずかな勇気を振りしぼり、ほとんど命を捨てて戦った。そしてその結果は、おそらく相手の拒絶か、幻滅を得ただけで終わり、それは未熟かつ脆弱な精神を持った幼い子供には、あまりにも重すぎる負担だった。
だからこそ、脳が抑圧して彼を守った。それは、後に成人したからといって、とうてい耐えうるものではなかったのだ。
Kの心は死に、現在も病棟で廃人の状態のまま、日々をただ生きている。好きな女性が出来なければ、誰も愛さなければ、彼は破滅せずに一生を送れたかもしれない。
結局Kはその後、幻影に等しい初恋の相手である女性、治療を決意するきっかけになった一人の女性を除き、恋愛対象は誰ひとり彼の前に現れることなく、人生を終えることになった。Kにとっては、かつて幼稚園で「救おうとした」たったひとりの女性だけが、彼の唯一の女だったのだ。
彼女は、彼の最初で最後の女だった。Kは幼児期、あの幼稚園で決死の戦いに挑み、敗れたあのとき、すでに死んでいたのである。(「最初で最後の女」終)
最初で最後の女 ラッキー平山 @yaminokaz
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