第9話 名前呼び

 悠はメニュー表を読んで、頼みたいものを決める。しかし、自分だけ頼むというのもおかしい気がした。ちらっと二人を見ると、メニュー表をカウンターテーブルに置いて、聞く。


「君達は頼まないの?」

「ああ。俺ショートケーキ」


 常連の菖蒲と紗奈は、メニュー表を見ることもなく、注文をするなら何にするかが決まっている。ショートケーキはコスパもいいし、ここのが美味しいことを、二人とも知っている。


 特に菖蒲はここに来た時、大抵はこの注文だった。この前紗奈に奢ってもらったのもショートケーキだったし。


「私はいつものセットがいいな」

「ああ。常連なんだっけ?」

「うん! ここのスイーツもお料理も、なんでも美味しいんだよ」


 そう言って無邪気に笑うので、悠が頼もうと思っているケーキも、出てくるのが少し楽しみになった。


 ケーキは予め作ってあるものなので、詩音がすぐに裏から取ってきて、カウンターテーブルに置いてくれる。


「君はいつものセットって言ってたけど…」

「お前、名前くらい呼べよ」


 そう指摘され、菖蒲を一瞥する。菖蒲は一瞬警戒したが何も無く、ふっと悠の視線が紗奈に戻された。


「紗奈は上の名前、なんて言うの」


 紗奈は菖蒲から聞いていて、悠の名前を知っていた。しかし、悠は彼女の名前を知らないのだ。


 クラスメイトが何か言っていた気もしなくは無いが、あの時はどうせこれきり関わることの無い人物だ。と思っていたので、わざと覚えることをしなかった。


 今となっては、それを少し後悔している。


「あ…えっと……」


 突然下の名前を呼ばれ、紗奈は狼狽える。


 赤い顔でおろおろしてから俯いて、小さな声で名前を教えてくれた。


「北川紗奈ですっ」

「そう。北川さんね」


 紗奈が狼狽えていることにも気がついているだろうに、悠は特に気にする様子もなく、一つ頷いて上の名前を確認するかのように繰り返す。


「べ、別にそのまま下の名前で呼んでくれても……」


 とつい口に出してしまい、紗奈の顔は更に赤くなった。


「そんなことしたら、またからかわれるでしょ」


 悠はそう言うと、視線をすいっと逸らした。


 それを見てほんの少し寂しくなって、紗奈はしゅんと大人しく水を口に含む。


「あの……。この前の怪我、大丈夫?」


 水を飲んで落ち着いた紗奈は、ずっと気になっていたことを口にした。


「うん。改めてありがとう。北川さんのおかげで化膿することも無かったよ」


 悠は椅子から少しだけ身体をずらして隣の紗奈へ向けると、ペコッと会釈をしてそう言った。


 軽い会釈だけなのは、深くお辞儀をする程のスペースは無かったし、他人行儀すぎて紗奈が戸惑いそうだったからだ。


「良かった」


 ずっと悠を心配していた紗奈は、彼が順調に回復しているとわかってほっとする。


 彼女が心底安心した。と言う表情をしてくれるので、悠はなんだかむず痒くなってしまい、またすいっと視線を逸らすのだった。

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