第2話 廊下を走ってはいけません

 放課後。あおいは塾に通っていて、急ぎの日は一人で先に帰ってしまう。今日も塾ために、あおいは紗奈に挨拶だけすると、すぐに教室を出て行ってしまった。


 紗奈はゆっくりと帰り支度を進めつつ、部活動に勤しむ生徒達を眺めた。紗奈の目当ての部活動は、この中学校にはない。そのため、彼女は部活動には参加していないのだ。


 窓の外を眺めて、部活動をしている生徒達を見つめていると、羨ましい。と感じた。


 そうしていると、ふと紗奈の目の前に影が落ちる。


「紗奈ちゃん。帰らないの?」

「え?」


 目の前には何人かの女子生徒が立っていた。帰り道が同じ方向なので、たまに一緒に帰ることがある子達だ。今日はあおいがいないので、紗奈が一人になるだろう。と思い、声をかけてくれたようだった。


「帰るよ! 私も一緒にいい?」

「もちろん! あおいちゃんは塾?」

「そうなの。あおいちゃん、頭いいのに。お父さんが厳しいから、行かされてるんだってさ」


 ゆっくりとしていた紗奈は、まだ半分も帰り支度を終えていなかった。急いで教科書を鞄に詰め込んで、帰る準備を進める。


 紗奈の帰り支度が終われば、みんなで会話をしながら下駄箱に降りた。


「あおいちゃん、大変だよね……」


 さっきの話の続きである。


「でも、もう高校受験の年だし、仕方ないのかもね」


 夏休み明けなので、ほとんどのクラスメイトが勉強に意識が向いてるように思う。


 紗奈の場合は、父親という家庭教師がついているのであまり心配はしていない。


 紗奈の父親は大学教授で、勉強を教える事も得意だった。テストが近くなると、いつもリビングで父に勉強を見てもらっているのだ。


「紗奈ちゃんも成績いいもんね。二人は仲良いし、やっぱり同じ高校を受けるの?」

「その予定!」


 あおいと一緒に受かれるように頑張るのだ。紗奈はそう言って笑っている。


「やっぱりー! どこどこ? ひびきあたり?」


 近所の公立高校では偏差値が高いとされる高校の名前が、響高校だ。


「ううん。私達は谷塚やづか高校に行きたいの。あおいちゃんは谷塚大学の方で、とある学部を狙ってるんだって!」


 谷塚高校は私立で、大学までエスカレーター式に上がっていける高校だ。あおいは谷塚大学に入りたくて、そこを選んだ。


 紗奈はやりたい部活が谷塚高校にあった。と言うのもあるが、あおいもいるし、成績とも釣り合いが取れていたので、谷塚高校を選んだ。


「じゃあ東京まで通うんだ」

「受かればね!」

「あそこって制服も可愛いよね」


 実を言うと、それも谷塚を受ける一つの理由だった。


 谷塚高校の女子の制服は、ベージュの明るめのブレザーに、タータンチェック柄のスカート。リボンはダブルモス型の可愛らしい形をしている。


 紗奈は「うん」と言って頷いた。制服姿の想像をしていたからだろうか。自然と笑みが溢れた。


。。。


 帰宅した後、紗奈は机の中にペンケースを入れっぱなしだった事に気がついた。紗奈は急いで学校へ戻ろうと、母のいるキッチンに顔を出す。


「お母さん。忘れ物をしたから、取りに行ってくるね!」

「気をつけるのよ」

「うん! あ、今日はハンバーグなんだ!」


 料理をしている母の横からチラッと覗いて、紗奈は言った。


「そうよ。早く行って早く帰って来てね!」

「はあい!」


 母に家を出ることを伝えたので、紗奈は急いで学校に戻る。学校は自宅から歩いて十分の距離にある。紗奈が早足で歩いたら、七分ほどで学校に辿り着いた。


 紗奈が校舎の中に入ると、そこには既に誰もいない。シーンとしている。


 廊下を走ってはいけません。と言うルールはもちろんあるのだが、紗奈は誰もいない廊下を見て、ついウズウズしてしまった。


 紗奈は誰もいないという誘惑に負け、軽くダッシュをしてしまった。そのせいで、目的のクラスである四組に辿り着く前に、二組の教室から出てきた人影にぶつかってしまう。


「うわっ……!」

「きゃっ!」


 お互いに尻もちをついてしまい、おしりをさする。紗奈はすぐにハッとして、ぶつかってしまった生徒の方を見た。


「ごめんなさい……! 廊下は走っちゃ駄目なのに、私ったら」


 紗奈オロオロと、相手が怪我をしていないかどうか、確認をする。


 ぶつかられた相手は大人しそうな見た目の男子生徒で、確認のためにペタペタと身体を触られて居心地が悪そうにしていた。


「あの、大丈夫だから……」

「でも……。あ、眼鏡! ごめんなさい。ぶつかったせいだよね」


 紗奈は彼の傍らに落ちている黒い縁の眼鏡に気づき、拾う。そして、壊れていないかどうか念入りに確認した。


「割れてはないみたい……」

「うん。ありがとう」

「ありがとうなんて! 廊下を走った私が悪かったんだもの。お礼を言ったら変よ」


 紗奈はその辺、厳しくしつけられている。人に誠実であれるように、気をつけているつもりだ。悪いことは悪い。


 今回に関してだって。魔が差して、誰もいなかったとはいえ、廊下を走ってしまった紗奈が全面的に悪いのだ。紗奈はしゅんと反省して、「ごめんなさい」と謝った。


「はい、眼鏡……。立てる?」

「大丈夫……。君の方は、怪我は?」


 眼鏡を受け取った生徒は、それをかけること無く、ただジッと紗奈の様子を窺った。しかし、前髪の長いその生徒の瞳は、紗奈からは全く見えない。見つめられていることにも気づかなかった。


 紗奈がこくりと頷くと、彼は「そう」と小さく呟いた。


 立ち上がった男子生徒は、ペコッと頭を下げた後に、スっと紗奈の横を通り過ぎて行ってしまう。


「あ……」


 改めて謝罪をしようと思っていた紗奈は、呆気に取られてしまう。ポカン…と、見送ることもせずにその場に立ち尽くした。


 呆気にとられていた紗奈がやっと移動しようとしたところで、何かがつま先に当たったことに気がついた。


「羊のキーホルダー……?」


 さっきの生徒が鞄につけていたものだろう。眼鏡に気を取られて気づかなかったキーホルダーが、目の前に落ちていた。


 ぶつかった時に落としたのかもしれない。紗奈はそれを拾い上げ、廊下に出る。廊下には、既に彼の姿は無かった。紗奈は、明日返そう。と、ぬいぐるみキーホルダーであるその子を大事に掌で包んだ。

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