第1話 好きな人

 時は進み、紗奈は現在中学三年生だ。横浜の公立中学校に通っている。


 その中学校の廊下で、開いた窓から吹く風に母親似のふわふわとしたツインテールをたなびかせているところだった。


 紗奈の隣には短めのくるんと内巻きになっている髪を、風で乱れないように手で押さえている少女がいる。


 二人は休み時間を利用して涼んでいた。


 もう九月下旬だが、まだまだ暑い日が続いている。長い夏休みが恋しい時期でもあり、だらけた空気がそこかしこから漂っていた。


「それでね。義人くんってば、私の事をねーねっ、ねーねって呼ぶのよ!」


 そんな空気の中でも、紗奈は幼稚園の年長である弟の義人よしとの話を楽しげにしているところであり、義人のことを溺愛しているためか、興奮で頬がほんのりと赤く染まっている。


 吹く風が彼女のツインテールをふわふわと浮かしているが、彼女は髪が乱れようが気にする様子もなく、ただひたすらに可愛い弟の話をしていた。


「やっぱり小さい子は可愛いよねえ」


 内側にくるんと癖のついたボブカットの少女は、立花たちばなあおい。紗奈の一番仲の良い友人である。


 あおいの方は、紗奈と違って髪が乱れるのが嫌で、片手で髪を押さえていた。紗奈の話を聞いては緩い口調で返答をして、ふんわりと柔らかい表情を浮かべている。


「本当に可愛いの! 義人くんは父親似だから、将来はすっごくイケメンになるんだろうなあ」

「紗奈ちゃんって、ご家族のこと大好きよね」

「うん。お母さんは美人でお料理上手だし、お父さんはかっこよくて頭がいいの!」


 紗奈は一層頬を緩めて、そう言った。興奮しているとわかるので、あおいはくすくすと小さく微笑んで紗奈を見守っている。


 紗奈の両親は、彼女が自慢するだけあって美しい。父親は学生時代は学年で一番のモテ男だったと聞くし、母親は大学のミスコンで優勝した程だ。


 そんな両親の影響もあり、紗奈もとても可愛らしい顔立ちをしている。楽しそうに笑っている紗奈に対し、何人もの男子生徒がちらちらと視線を送っては顔を赤らめていた。


「…紗奈ちゃんってさ、好きな男の子いる?」


 みんなにバレないように、にやっと笑ったあおいは、周囲が気にしているであろうことを堂々と質問した。何人かの男子生徒がごくりと息を飲むのを感じる。


「恋愛ってこと? いないよ。私、お父さんのせいでちょーっと顔にはうるさいんだよね」


 聞き耳を立てていた何人かの男子生徒が、がっくりと肩を落としたのが見えた。また、自分に自信がある何人かの男子生徒は小さく拳を握りガッツポーズをしている。


 しかし、恐らくこの中に紗奈を射止める男子生徒はいないことだろう。あおいは口には出さないが、心の中ではそう思っていた。


「紗奈ちゃんのお父さんってそんなにかっこいいんだねえ」


 紗奈の家に遊びに行った時に、母親には会ったことがある。しかし、父親にはまだ一度も会ったことがなかった。どんな人なのだろうか。と気になっていると、紗奈はまた嬉しそうな顔で「すっごくかっこいいよ!」と言った。


「あおいちゃんは? 好きな男の子、いないの?」


 今度は紗奈からあおいに質問をした。すると、また一部の男子生徒が聞き耳を立て始める。実はあおいも男性人気が高い。


 紗奈も可愛らしいが、あおいもあおいで、控えめだが上品な美しさがある。彼女の家に遊びに行った時に見かけた母親が美人だったので、きっとあおいは母親似なんだろうな。と紗奈は思っている。


「いるよ」


 顔色も変えずにそう言えば、紗奈は興奮気味にあおいを振り返る。ぶわっとツインテールが振り回されているが、そんなことは些細なことだった。


「誰? 誰だれ!?」


 興奮から、紗奈の口からは大きな声が出ていた。それを自覚はしているが、あおいの答えを聞くまではこの興奮は絶対に冷めないだろう。


「ふふ。内緒だよお」


 興奮気味の紗奈とは違い、あおいはくすっと上品に笑うと人差し指を唇に当ててそう言った。


 内緒だと言われてしまったが、紗奈は気になって気になって仕方がない。そわそわと落ち着かないでいる。


「わ、私も知ってる子…?」

「うん。同じクラスの子だよ」

「わあっ。わあーっ!」


 聞いていてドキドキしてきたようで、紗奈は頬を赤く染めて、その頬を両手で押さえる。それとは対照的に、好きな人の話をしているはずのあおいは顔色ひとつ変わらない。


 あおいが軽く視線をずらすと、隣のクラスの生徒達が何人か、また肩を落としていた。それを見て、あおいは満足そうに軽く口端を上げる。


「そろそろ次の授業が始まるわね」

「あ。そうね! ……あおいちゃん、また今度、お話聞かせてね?」


 先に教室に入っていこうとしたあおいに対して、紗奈はもじもじと照れくさそうな顔でそう言った。そして窓を閉めると、紗奈も急いで教室の自分の席に戻る。

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