人魚が暮らす町
「……という事が、昔あったのよ」
一人の女性が、優しい口調で話を締めくくる。
煉瓦造りの一軒家。王国でも上流以上の富裕層でなければ住めない豪邸に暮らす彼女は、傍に座る小さな姪に昔話を聞かせていた。
話に題を付けるとすれば、『人魚と海』。
人魚を退治したがために、海で魚が捕れなくなった――――人間の失敗を、小さな女の子向けにした話だ。
「んー……にんぎょ、どうなった?」
僅か四歳の子に話すには、少々難しい話かも知れないが。
「大丈夫、元に戻った……と言えれば良かったんだけどね」
「いないの?」
「いなくなった訳では、ないんだけどね」
姪からの問いに、女性は曖昧に答える。それから天井を見上げ、小さく息を吐いた。
港町ヴェイス。
かつて王国で最も栄えた港町は、今では見る影もない。魚は全く捕れず、未だ海からは赤潮による悪臭が漂っている。漁港として最低限の機能を回復するには、あと十数年もの歳月が必要となるだろう。元の豊かな漁場となるのは、エレノアの見立て通り五十年か百年は掛かるかも知れない。
人魚を駆除し、追い払った代償はあまりのも大きかった。
しかし少しずつ改善もしている。岩礁地帯の清掃を行い、赤潮により死んだ魚を除去。人が立ち入れる領域に堆積したヘドロを掃除し、浅瀬に生物が棲める環境を構築した。
ある程度生物が棲むようになれば、多少の死骸などは生物達が食べてくれる。死骸が減れば水の腐り方が緩やかになり、多少汚いぐらいなら生きていける魚や甲殻類が戻ってくる。そうすれば生態系が出来、少しだけ海の腐敗が落ち着く。これを繰り返せば段々海は綺麗になる……というのがエレノアの考案した計画だ。
とはいえこれは簡単な話ではない。
今まで莫大な量存在していた海産資源が、ほぼ全て腐りきったのだ。海岸に流れ着いたものなど全体の一部でしかない。最初の三年間はなんの成果も確認出来ず。四年目にして食用にならない小さな生き物が確認出来るようになったという、海洋生物学者であるエレノア以外にはいまいち実感の湧かない成果しかなかった。
計画が続けられたのは、第二王女エレノアが率いる国家計画であり、そしてエレノア達海洋学者がこれまで調べてきた数々の研究記録あってこそ。これこそが失われたものを取り戻す労力であると、遅々として進まない作業に苛立つ貴族や水産省の役人をエレノア自身が説得してきた。
そして環境改善から十五年後、ついに人魚が現れた。
群れから逸れた人魚か、或いは孤高の旅人か、それとも十五年前の生き残りか。いずれにせよ久しぶりに姿を現した人魚の姿に、人間達は大いに沸いた。求めていた成果が出たのだと、海の環境が回復したのだと、ようやく実感出来たのだ。
尤も、人魚が現れたからといってそれでたちまち問題が解決した訳ではない。以前の環境は、人魚が海藻を育て、それが生態系を支えて初めて成し得たもの。一体だけでは殆ど変化はなく、定着出来ずに死んだり、別の場所に移動したりしてしまうかも知れない。人魚が現れたからといって、それで計画を止めれば海は再び死ぬ。
人魚が数を増やし、海藻が海を覆い尽くすまで、あと何十年も掛かるだろう。
それに荒廃した海は港町ヴェイスだけではない。人魚駆除方法を発見した漁師達は、人魚に苦しむ人々を助けようと旅行客などに無償で伝授していた。結果として人魚は王国の多くの地域で姿を消し、どの漁村でも水産資源が激減している。それだけなら(勿論長い年月と莫大な税金が必要だが)まだしも、幾つかの村ではまだ人魚駆除が続いているという。王国が法的に禁じても、漁獲量が減るという実害を受けても、自分の所為だと認められない者達の必死の『抵抗』だ。
王国の海が全て元に戻るのは、百年後か、二百年後か……
「それに、人魚と一緒に暮らすにはたくさんの決まりを用意しないといけない」
海の環境が回復し、漁業が出来るようになっても、今までと同じやり方は出来ない。人魚と対立すれば、また同じ悲劇が繰り返されてしまう。そしてそれは、単に人魚を亜人と認め、傷付ける事を禁じるだけでは解決しない。
人魚の子であるアカビレ、そしてよく似た魚であるマーメイドフィッシュの漁獲は禁止された。マーメイドフィッシュ自体は漁業資源になるが、
それでも巻き込んで捕ってしまう可能性はある。その時人魚は怒り狂い、人を襲うだろう。漁具や船を失う程度なら、国が補填金を出せばいくらか落ち着かせられるだろうが……死人が出ればそうもいかない。しかし人魚を殺せば、また海が死ぬ。
これを解決するには、人魚との対話を行うしかない。少なくとも家族の死を悲しみ、復讐するぐらいの知能はあるのだ。交易は出来ずとも、対話ぐらいは出来そうである。
しかし未だ人類は、人魚と意思疎通が出来ていない。今後の研究に期待するしかないのが現状だ。
……等と問題は多い。だが全体を見れば暗い話ではない。少しずつ、僅かであっても、世界は良い方に進んでいる。
それを成し得たのは、『彼女』の活躍があってこそ――――
「姉さん、お客さんが来たよー」
考え事をしていると、妹が部屋に入ってきた。
客人と言っていたが来客予定はない筈。そう考えるも、すぐに心当たりを思い付く。
『彼女』だ。自分が休暇中だと聞いて、直接やってきたのだろう。
「フィアナ、あれでも高貴な身分の方です。あの方をお客さん呼びは……」
「だってお偉いさんってより、なんか身内な感じじゃない。うちの子ともよく遊んでくれるし」
「……この件については、いずれちゃんと話しましょう」
不躾な妹に頭を痛めつつ、彼女は立ち上がる。
ただしすぐには向かわない。身形を整えてからだ。
近くに置いてある銃と剣。その二つを腰に備えてから彼女は玄関へと向かい、扉を開ける。
「イリス! 元気していたかしら!」
そこには一人の女性が、仁王立ちで待っていた。
『人魚調査』からかれこれ二十年。子供っぽかった容姿は、今では一人前のレディと呼べるほど成熟している。いや、三十八という年齢を思えばむしろ非常に若々しい。身体付きは引き締まり、くびれや胸の張りも魅惑的。自信に満ちた朗らかな笑みは、男達だけでなく女さえも虜にする破壊力を秘めていた。
着ているドレスは派手なものである。四十前の女が着るものとしては些か華美だが、若々しい彼女の身体にはよく似合う。首から下げている紋章付きのアクセサリーも、彼女が高貴な身分にある事を示している。
このような女性が突然家を訪れれば、殆どの者は驚き、何があったのかと小さな不安を覚えるだろう。
しかし彼女は違う。彼女はこの女性が誰であるか知っていて、そしてこの女性がこの手の『行動』をよく起こす事も知っている。もう何十年も付き合っているのだから、今更驚きなんてしない。
第二王女エレノア。
大切なこの国の姫にして、彼女――――イリスにとって掛け替えのない『親友』こそが、客人だったのだ。
……別に、二日前にも会っているので感傷も何もないが。むしろ久方ぶりの休暇の最中に突然訪問されて、正直鬱陶しい。
大体、格好も三十八歳の『中年女性』としては少し少女趣味過ぎる。
「……エレノア様。もう四十代になろうというのに、その年不相応な格好は如何なものかと」
「あら、似合わない? 似合わないならもう止めるけど」
「……似合ってはいますが」
正直に認めれば、エレノアは鼻息を荒くしながら胸を張る。
そういうところが年不相応なのだと言いたいが、見た目若々しいエレノアはその子供っぽい仕草すらも魅力的だ。イリスもこればかりは認めるしかない。
「……目元に小皺が増えていますからね。何時までも言ってはいられませんよ」
「うぐぅ」
それでもこうやって言い返すと唸るぐらいには、エレノアも年を重ねているし、自覚もあるが。
どちらも随分と大きな大人になった。しかし二人の関係は、あまり変わっていない。
「それで? こうして私の家に訪れたからには、次の任務の話ですか?」
「え、うん。そうそう、それよ。そのために来たのよ」
イリスが話を進めれば、エレノアはすぐに顔を上げた。こほんと軽く咳払いしたエレノアは、真っすぐにイリスを見つめながら笑う。
「イリス、この休暇が終わったら西の大海に行くの。海底火山が噴火したみたいで、その影響を調べるために。あなたも護衛として付いてきて!」
そしてイリスが思った通りの、次の調査の護衛を頼んできた。
つい先日、港町ヴェイスの再生計画を後任に引き継いで『休暇』に入ったばかりなのに、もう次の仕事を探してきたらしい。
二つの意味でイリスは呆れる。一つは、エレノアは王族なのだからわざわざ口頭でこのお願いを言いに来る必要などない事。官僚やら貴族やらに命じ、辞令の一つでも出させれば良い。王族の警護は騎士の仕事としては珍しくもないもので、戦時下なら兎も角平時で通らぬ訳がない。
もう一つの理由は、単純に他に頼む人はいないのかという気持ち。
今日に至るまでの二十年以上、ずっとイリスはエレノアの付き人をしているのだから。
「全く、騎士として落ち目になりつつある老貴族を引っ張り出しても仕方ないでしょうに。もっと若手に頼んだらどうなのですか」
「あら、私知っているのよ。今でも銃の腕前は騎士団一で、時々訓練教官を任されているって」
「あまり買い被られても困ります。人手不足と実戦不足が深刻だから手伝っているだけの事です。戦争がなく、平和であれば、私であっても上に立てるというだけの事ですよ」
「つまり、今の騎士団でそれなりに強い事は認めるのね?」
エレノアに指摘され、イリスは口を噤んだ。
不本意ながら、それは事実である。戦争が起きていないからと軍事費は削減され、また『公務員』である軍人にならずとも食べていけるぐらいにはどの国民も豊かになった。賃金も大して出されないので訓練も身が入らず、一部の真面目な者を除けば、実力は正直高くない。何処の国も似たようなもので、この体たらくが然程問題でないのが問題解決を困難にしている。
だから一番強いとまではいかずとも、衰退を留めるのが精いっぱいな四十になったイリスでも比喩でなく上位の実力者に位置する。エレノアの言葉は間違いではない。
何より――――
「……ちなみに、断ったらやはり他の者に護衛を頼むのですか?」
「ええ。私的にはいなくても良いぐらいなんだけどね。ま、今更こんなおばさんを誘拐もしないでしょうから、暇そうな人なら誰でも良いかな」
「腐っても一国の姫だという事は忘れないでくださいよ……」
この破天荒で自由気ままで王族という立場に縛られない、癖の強いお嬢様の面倒を見られるのは自分しかいない。困った事に、エレノアには全く自覚がないようだが。
騎士を引退したイリスであるが、エレノアの顔を見るとそう思わずにはいられない。そして何より問題なのは、こうして頼られる事を嬉しく思ってしまう自分の心境で。
「……仕方ありませんね。休暇が終わり次第今回もお供しますよ、お姫様」
「ええ、よろしくお願いしますわ、騎士様」
エレノアが差し伸ばしてきた手を、イリスは渋々そうな演技をしながら掴むのだった。
どんな偉業も、英雄も、時代の流れと共に埋もれていく。
イーヴィスはエレノアが去った後も研究者を続けている。
長命なエルフである彼は研究の傍ら、エレノアの研究を引き継いで続けた。また海の知見が乏しいエルフに海洋の生態系に伝えるための学校を設立。初代学長として名を残し、エレノアに負けず劣らずの功績を遺した。
尤も、人魚の幼体の第一発見者になれなかった事を晩年まで悔やんでいたようだが。それが新種を求める原動力となり、探検中の事故で亡くなるまでの百五十年の間に二百八十もの新種生物を見付ける事となるとは、エレノアも存命中には想像も出来なかったであろう。
ジェームズは港町の環境が回復し、人魚が戻ってきた後の足取りは残されていない。一般人である彼の行動を記そうという酔狂な者はいなかった。エレノアが港町ヴェイスを去った後は再会する事もなく、一人の漁師として生涯を全うしたのだろう。
そして港町ヴェイスには、二つの墓を交互に訪れる男の怪談話が残っている。
一つは、海で死んだ者の名を刻んだ共同墓地。
もう一つは、漁師達により駆除された人魚を供養するための慰霊碑だ。
何がモチーフとなった怪談なのかは、もう誰にも分からない事である。
イリスは後年、最も優秀な女騎士として歴史に名を刻む。
とはいえ王国はその後百年は大きな戦争を起こす事も、起こされる事もないため、輝かしい戦績などはない。騎士として粛々と働き、ただ主君に従い続けた。騎士を引退して以降も、主君の無茶に付き合い続けた。剣と銃を使わずとも、主君に寄り添った。
理想の騎士の一人して選ばれたのだ。実際の彼女達は、悪態も小言もイタズラも交わす、騎士と主君とは程遠い関係だったのに。
エレノアが倒れるその日まで彼女達は姉妹や友人のように仲の良い会話を続けていた事を知る者は、やがて歴史の中からいなくなるだろう。
そして第二王女エレノア。
港町の環境再生を軌道に乗せた後、彼女は国の専門家達に任せて町を去った。もう自分が何かしなくても海は回復する。その確信を得たがために。
町の復興に長い年月を費やした彼女であるが、その後も老いなど感じさせないほど気力に満ち、最期――――心臓の病で倒れるまで積極的に海に出て、自らの身で自然に挑んだ。人魚の子供以降も十七種の新種を発見し、王国の環境保護政策に多大な貢献をしている。
没後、彼女の功績を称えて港町ヴェイスでは彫像が建てられた。彫像の傍には大勢の人間と、人魚が飾られている。若い彼女が人魚と人々に手を伸ばし、両者を繋いでいた。
彫像だけではなく、港町に暮らす子供達にもエレノアの話は伝えられた。派手な武功などなく、失敗も山ほどある、恐らくはあり触れた……あり触れたものを積み重ねて、町を取り戻した話。尤も百年も経てば記憶は薄れていき、若者の中にはエレノアが何をしたかも知らない者も増えたが。彫像は何処の町にもあるような些末な観光名所となり、記念館の財務状況が悪化すれば税金の無駄遣いだと言われるようにもなった。
人間は忘れていく。過ちも繰り返す。それはきっと人間の性であり、滅びる時まで改められない。
しかしエレノアが伝えた新たな精神は、しかと町に根付いている。彼女が去り、彼女の功績が軽んじられ、忘れ去られても、人々は自分達の町をこう呼ぶのだから。
此処は、人魚が暮らす町であると。
人魚が暮らす町 彼岸花 @Star_SIX_778
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