転機

「うぐぐぐぐぅう……! ま、まさかそんな……うぎぎぎぎぎ……!」


 イーヴィスが、心底悔しそうな声を出す。

 顔は苦悶に歪んでいた。目の前には王族であるエレノアがいたが、心の中の不穏なものを隠そうともしていない。

 対してエレノアは満面の笑み。むしろ自慢げで、悔しがるイーヴィスと並ぶと非常に性格の悪い絵面が出来上がる。第三者が見れば、問答無用でエレノアが悪いと言うであろう邪悪さだ。

 傍にいるイリスは視線で顔の異変を伝えているが、エレノアはそれを察した上で笑っていた。笑わずにはいられなかった。

 アカビレが新種であると、イーヴィスの態度が物語っているのだから。


「その感じだと新種で良いんですね? ね!」


「い、良いと、思います……長く、この地で研究を、していますが……マーメイドフィッシュにそのような変異や、近縁種がいるという話は、聞いた事がないです……」


 喜ぶエレノアに、イーヴィスは心底悔しそうに話す。どうして彼がそこまで悔しがるのか? 生物学に携わるからこそ、エレノアには分かる。

 自分が見付けたかったのだ。しかも希少とはいえ毎日水揚げされていて、挙句研究所に赴任して一月どころか一週間も経っていない小娘に掠め取られた。エレノアも、イーヴィスの立場であれば地位も名誉もかなぐり捨てて同じ顔をしただろう。


「ですがアカビレの事は、一度ぐらいは聞いた事があるのでは?」


 そんなイーヴィスにとって、イリスの素朴な疑問は追い打ちに他ならない。再度苦しみに塗れた呻きを上げた彼は、今にも掻き消えそうな声で問いに答えた。


「た、端的に言うと、仕事が忙しかったためあまり市場に行けなかった事と……食に興味がなく、アカビレが高級魚という事もあって、食べに行った事がなくて……」


「ああ、それはなんと言いますか……巡り合わせが悪かったのですね」


 慰めようのない理由だったため、イリスは言葉を濁す。

 しかし実際、新種の発見には巡り合わせ幸運が重要だ。どんな天才科学者だろうと、出会えなければ新種を見付ける事は出来ない。勿論執念深く調査をし、多くの知識を身に付け、どんな小さな痕跡も見逃さないよう気を引き締める――――といった行動を取れば新種を見付けやすくなる。だが、あくまでも見付けやすいだけ。発見を保証するものは何もない。

 エレノアも昨日の徹夜がなければ今日あのレストランに行く事はなく、今日行かねばアカビレという生物に出会う事もなかった可能性も十分ある。


「(ある意味では運命ってやつかしら)」


 魚一匹に出会えるかどうかで、学問の世界に名を残せるか否かが決まる。大仰な言い方かも知れないが、運命としか言いようがない。

 仮に運命であるなら、自分とアカビレの出会いにも何かしらの意味があるのだろうか?

 ……流石にそれは夢の見過ぎだと、エレノアは首を横に振って考えを振り払う。多くの市民は知らないが、海洋生物の新種は毎年何十種類も発見されている。技術の進歩により調査能力が発展していけば、更に多くの新種が発見されるだろう。海洋生物に限らなければ、例えば節足動物などの小さな生き物なら何百と見付かっているのだ。エレノアが見付けたのは、その中のたった一種に過ぎない。

 それにアカビレも重要な発見ではあるが、今は人魚研究の方が優先度は高い。新種発見の論文を書くのは人魚研究の後。そして生物学の世界では、最初の発表こそが優先される。エレノアの前に誰かがアカビレの事を『発見』し、そそくさと論文を書いて発表すれば、エレノアの発見はのだ。極論、今正に何処かの誰かが論文を書いている最中という可能性もあるだろう。

 そういう意味では、折角の大発見だが誰かに譲ってしまいたい気持ちもエレノアの中にはある。


「嬉しい発見ではあるのですが、この新種については、他の誰かに任せた方が良いかも知れません。私達、他に優先する研究がありますし」


「……ああ、そうですね。悔しさのあまり失念していましたが、人魚をどうにかしなければ。良ければ私の知り合いに頼みましょうか? 勿論論文内に発見者はエレノア様であると記載させますよ」


 優先順位を伝えると、ようやくイーヴィスは正気に戻る。そして吹っ切れたのか、現実的な提案もしてきた。

 普通に考えれば、それが一番無難な方法だ。イーヴィスの紹介するつもりの学者がどのような人物かは分からないが、彼が信用している者なのだから大きな問題はないだろう。仮に発見を『盗用』するような輩なら……相応の対応をするまで。相手が王族であると知ってそんな馬鹿をする学者は、早々いないだろうが。


「そうですね、お願いします」


「では明日朝一で手紙を出しますね。とはいえアイツは此処からだと少し遠方にいるので、手紙が届くまで一週間は掛かりそうですが」


「それはもう仕方ないですよ。鉄道がない時代に比べれば、それでも早い方です」


 鉄道がなければ、馬や人の足で一ヵ月以上掛けて手紙を届けなければならなかったかも知れない。それを思えば、一週間なんてあっという間だ。技術の進歩は、人々の生活を大きく変えている。

 そして自然をも変えてしまうからこそ、早く届けた方が良い。人類は未だアカビレの存在を知らず、それが絶滅するかどうかも分かっていないのだから。

 ともあれこれでアカビレについては一旦手放す事が出来た。話も一段落し、エレノアの気持ちも緩む。

 途端、エレノアは大きな欠伸が出るのを堪えきれなかった。

 即座に口許に手を翳し、開いた大口が人に見えないようにする。エレノア自身の愛らしさもあってその仕草は人を魅了するものだったが、しかしエレノア自身は大変恥ずかしく感じた。

 同時に、多少は仕方ないとも思う。


「今日は大分疲れましたね……」


「それは、まぁ、徹夜明けですし」


 イーヴィスが言うように、エレノアは徹夜明けなのだ。そのまま寝てまた夜に起き、また朝まで起きてしまう……という事態を避けるため起きていたが、予期せぬ事態アカビレ発見もあって肉体的には疲労困憊を突き抜けたところにいる。

 若いからこそ出来る無茶だが、健康に中指を立てる行為なのはエレノアも承知している。新種発見で騒いだ甲斐もあって、時間もいい感じに夕刻に近付いた。一般的にはまだ早い、所謂夕飯時にもなっていないが、徹夜したまま起きていた身体なら明日の朝まで(下手をすれば昼まで)ぐっすりだろう。


「そろそろ寝るとします。イリス、後は任せたわ」


「承知しました。留守番ぐらいはしておきますので、しっかりと寝てください」


「はーい」


「なんというか、イリスさんは従者というよりお姉ちゃんですね……」


「まぁ、そうかも知れませんね。実際昔はよくそう呼んでもらって「ぎゃーっ!? わーっ!?」


 いきなり十年近く昔の国家秘密を暴露され、エレノアは姫らしからぬ大声で制止。もう九割以上バレた気もして、エレノアは顔を赤くする。

 その様を見てイリスはニヤニヤと笑っている。

 少なくとも十年前の『お姉ちゃん』はこんな性悪じゃなかった、と言いたくなるが、イーヴィスの前で口には出来ない。ぐぬぬと唸っても、イリスをますます上機嫌にさせるだけだ。

 しかし一番気に食わないのは、そんなイリスの姿を「意地悪なお姉ちゃんみたい」と思ってしまう自分で。


「も、もう寝ます! 明日は休日ですし、がっつり寝ますからね!」


 そんな捨て台詞を吐いてこの場から立ち去るぐらいしか、エレノアに出来る事はなかった。

 ……………

 ………

 …

 かくして迎えた翌日。

 暦の上では、今日は休日だった。漁師も大半が休みを取り、海には出ない。全くいない訳ではないが、それらの大半は先日の高級風レストランのような店と契約した者達。そのため店に商品はあっても、市場に魚は出てこない。

 人魚調査を行うには、現状沖まで出なければならない。大金を積めば、ジェームズなどは船を出してくれるかも知れないが……休日に仕事の話をする事自体、あまり良く思われないものだ。人間、時には大金よりも余暇を大事にしたくなる。生活が苦しくなければ尚更だろう。

 だからエレノアも、この日は休むつもりだった。休むといっても溜め込んだ標本の整理や、此処最近発表された論文を読む気だったが、根っからの海洋生物好きであるエレノアからすればこれらは『遊び』のようなものである。

 しかしそれ以上の優先事項が生じれば、休んでいる場合ではない。


「ぜ、ぜぇ、はぁ、はぁ、んぐぅ……」


「エレノア様。無理はしないでください」


 全力疾走をして息を切らすエレノアに、イリスが声を掛けてくる。

 エレノアは姫だ。学者となってからは野外で活動する事も多くなったが、だからといってその身体は決して屈強ではない。長く走れば呆気なく疲弊し、動けなくなってしまう。

 ましてや今回、エレノアは研究所から市場まで休みなく走っていた。

 徒歩なら一時間は掛かる道のりだ。流石にこれは体力が持たない。息は絶え絶え、顔から血の気が失せていく。更に走れば、酸欠で倒れてしまうかも知れない。

 だが、走るのを止める訳にはいかない。


「い、いえ、休んでいる暇は、ないわ……! 少しでも、早く、保存を……」


「……でしたら私が抱えて走ります。短い間ですが、休んでいてください」


「え。いや、流石に今は、ひゃっ!?」


 一旦断ろうとしたエレノアだが、言い切る前にイリスはエレノアを抱き上げる。

 所謂お姫様抱っこの格好だ。エレノアはこの抱えられ方が(自分が姫だと主張されているようで)好きではない。しかし今は恥よりも時間を優先。口を閉じ、目的地まで送り届けてもらう。

 イリスは市場の奥まで颯爽と走り抜ける。

 やがて辿り着いた場所には、大勢の人が集まっていた。

 大半は市場関係者、つまり商人達だろう。彼等の多くは落ち着いていたが、同時に戸惑いも露わにしている。宥めるような言葉も聞こえてきた。

 その言葉の向き先は、同じく市場に勤めている漁師達だった。


「き、気持ちは分かるけど落ち着けって! もう死んでるんだから、あまり手を出すな!」


「学者先生達が引き取るんだから、そう、あまり荒らすような真似は……」


「俺達は家族を殺されてるんだぞ! 一発蹴り飛ばすぐらいさせろ!」


「こんな奴、八つ裂きにして海に捨ててやる!」


 漁師達は荒々しい言葉を発し、如何にも気が立っている。

 あの中に割って入るのは、正直エレノアでも勇気が必要だ。普段なら厄介事は勘弁と、遠巻きに眺めるだけだったろう。

 しかしそこに目当てのものがあるとなれば、行かない訳にもいかない。

 幸いにして今はイリスが一緒だ。女とはいえ鎧を纏った『騎士』である彼女がいれば、暴力的な雰囲気も少しは落ち着く筈。


「お待たせしました! ここにあるものを回収に来ました!」


「なん、だ、お前ら……」


「そこにある生き物を研究している、研究者ですよ」


 思った通りエレノアが割り込んでも、イリスを見るや漁師達の勢いが弱まった。話を進めるならば今が好機。

 何より、そこにあるものを傷付けさせる訳にはいかない。


「人魚の死骸は私達が回収します。どうかご協力をお願いします」


 幸運にも手に入った、が損壊したなら、その損失は途方もなく大きいのだから……

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