深まる謎

 人魚の襲撃を退けたエレノア達は、その後港へと戻った。

 幸いと言うべきか、風向きは帰るのに適したもので、行きよりも早い時間で港に辿り着く。とはいえ海上では思っていたよりも時間が経っていたようで、陸に戻った頃にはすっかり夕暮れとなっていた。

 なんにせよ無事に陸上まで帰り、エレノアは安堵の息を吐く。海は好きだが、海から帰ってくると安心するのは、やはり人間が陸上の生物だからだろう。


「こちらが後払い分の報奨金です。お受け取りください」


 エレノアが一人気持ちを休めている時、従者兼護衛であるイリスはジェームズに報奨金を渡していた。

 封筒に入った紙幣を受け取り、ジェームズは中身を確認。約束通りの紙幣が入っている事を見ると、枚数は数えずに懐へとしまう。


「確かに受け取った……また人魚に会いたいなら、何時でも言え」


「はい、よろしくお願いいたします」


 深々とイリスがお辞儀をし、その動きに気付いたエレノアもジェームズに感謝を示すため頭を下げる。

 ジェームズは二人のお辞儀を見て、少しだけ嬉しそうに微笑むと、片手を振りながらこの場を去った。

 ……そうしてジェームズをしばし見送り、背中が遠くなってからエレノア達も帰路に付く。普通に歩いて帰っていったジェームズと違い、やや駆け足気味に。


「イリス、急ぐわよ! 折角の試料が傷んでしまうわ!」


 エレノアが急いでいる理由は、両手で大事に持っている『人魚の手』。

 イリスが船上で切り落とした、自分達の船を沈めようとしたあの手だ。

 人魚が謎だらけである理由の一つは、研究に使えるような試料が殆どない事。海中深くで暮らす彼女達は亡骸が陸に流れ着く事も稀で、その亡骸も腐敗が酷く、研究を進めるにはあまりにも質が悪い。骨格標本は幾つかあるが、これも全体の半分程度と極めて不足しているのが実情である。

 イリスの攻撃で得られた人魚の手は、数少ない新鮮な試料だ。無論いくら新鮮とはいえ、片手一つで研究が劇的に進むものではない。恐らく、エレノアが目指す人魚との共存を叶えるための情報は、あまり得られないだろう。

 しかしそれでも無駄にはしたくない。

 自分達の身を守るためとはいえ、一体の人魚の身体に『障害』を与えたのだ。イリスの行為を責めるつもりはないが、犠牲のままで終わらせたくない。

 故にエレノアは走る。尤も、エレノアは野外調査をする学者とはいえ、基本的には非力な身だ。全力で走っても、小娘が頑張っている程度の速さしか出ない。

 意気込みはあれど、結果は伴わず。


「エレノア様。急ぐのであれば、私に一言命じてください」


 エレノアの気持ちを汲んだイリスに抱えられた時の方が、ずっと速かった。


「イリス! ……ええっ、お願い!」


 エレノアが頼めば、イリスは更に速く駆け出す。

 お姫様抱っこをされた状態で町中を猛然と走るのは、はしたなく、人目を引き付ける行動なのはエレノアも理解している。

 ただ、自分の気持ちに寄り添ってくれた事が嬉しくて。

 エレノアはイリスの身体にしがみつき、大人しく研究所まで運ばれていくのだった。

 ……………

 ………

 …


「ほへぇ……」


「お疲れ様です。珈琲をどうぞ」


 研究所の一室にて。テーブルに顎を乗せただらしない体勢でいたエレノアに、イーヴィスが珈琲を出してくれた。

 手に入れた人魚の手を液浸標本(薬品に浸して保存する標本。薬品にはアルコールなどが使われる)にし、一仕事終えてエレノアは部屋で休んでいた。人魚の襲撃、急ぎの標本作成など、町に着いた初日だというのにバタバタしていて、かなり疲労している。その労いとしてイーヴィスは珈琲を出してくれたのだろう。

 正直なところ甘党であるエレノアは珈琲が得意ではない。しかし王族としての教養を身に付けた彼女は、例え嫌いな食べ物でも眉一つ動かさずに食べる事が出来る。

 何より、イーヴィスの珈琲は善意からのもの。これを拒む事はしたくない。優しく微笑みながら苦い汁を一口飲む。エレノアの傍にはイリスがいたが、エレノアの気持ちを汲んだのか、イーヴィスに配慮したのか。珈琲については触れなかった。

 ……嫌いな飲食物なので、美味しいかどうかの話題は膨らませられない。珈琲をくれた事自体への感謝は伝え、エレノアは別の話題を振る。


「はぁぁ……人魚には会えましたけど、色々凄かったですねぇ……」


「自分は正直、会えるとは思っていませんでしたけどね。会える可能性なんて、体感ですが二割ぐらいですし」


「ジェームズさんもそう言っていましたねぇ」


 自分としても、会えるとは思っていなかった。二割という確率は、確かに『外れる』事を期待するには心許ないが、当たってほしい時には大概外れるような値である。

 加えて、まさか船をひっくり返そうとするほど怒られるとは思わなかったが。


「……イーヴィス殿。エレノア様自身が頼んだ事ですので強くは批難しませんが、彼女は曲がりなりにも王族です。あまり危険な事はさせないでほしいのですが」


「ひぃ!? ももも申し訳ございません!」


 エレノア自身は気にしていないが、護衛であるイリスは(結構本気で)怒りを露わにする。イーヴィスは顔を真っ青にしながら、その場で深々と土下座した。


「た、ただ、あの、弁明させていただけるなら、あの、じ、自分としても、よ、予想外で……」


 それから、声を震わせながら弁明する。

 言い訳のようにも聞こえるが、彼も多少は人魚について知っている身だ。そしてエレノアがこの国の第二王女である事も知っている。人魚と関わる時点で多少危険なのは仕方ないとしても、あそこまで露骨に攻撃される調査に許しを出すとも思えない。

 つまり船への攻撃は、彼にとっても想定外だったのだろう。


「予想では、どうなる感じだったのですか?」


「……その、ただ船を出すだけなら、普通はこちらを脅かす程度なんです。周りを飛び跳ねて船を揺らすとかで、船を掴むほど攻撃的なのは漁をしている時ぐらいなのですが……」


「ちなみに、普通の人魚って猛烈に怒ってますか?」


「え? いや、どうでしょう。確かに敵意は向けてきますが、怒っているとは……敵意というのもこっちが勝手にそう受け取っているだけかも知れませんし」


 エレノアに問われたイーヴィスは、首を傾げながら自分の見識を述べる。あくまでも彼個人の感想ではあるが、普通は怒りではなく敵意だけを向けてくるらしい。

 つまりあの人魚は普通ではなかった、という事か。

 そもそも普通の人魚自体分かっていないので、果たしてこの推論もどれだけ当たっているか疑問は残る。しかし仮に正しいとすれば、エレノアには一つ思い当たる可能性があった。


「だとしたら多分、私達の接触した人魚がものすごーく機嫌が悪かったんでしょうね~」


 相手の『気分』が他個体と異なっていたという事だ。

 あまりにもいい加減な意見に聞こえたのか、イリスだけでなくイーヴィスも少し呆けた顔になる。だが人間を例に出せば、そのような事例はいくらでも挙げられるだろう。

 例えば物凄く不機嫌な輩が、炉端の花を蹴り飛ばすように。花からすれば一体何故そんな『殺意』を向けられるか訳が分からないだろうが、それをした輩に大した理由などない。

 人間の命は尊い……等というのも、所詮は人間の意見だ。人魚が人間の事を害虫程度にしか思っていなければ、感情が昂った時にぐらいの事はするかも知れない。人間が気分一つで花を踏み潰すのと同じように。


「(まぁ、あそこまで感情剥き出しなら、害虫とは思ってないでしょうけど)」


 エレノアが人魚から感じた敵意は、猛烈な強さだ。エレノアは様々な海洋生物を見てきて、中にはこちらに敵意を持つ生物もいたが……人魚ほど激しい怒りを向けられた事はない。

 人魚が怒る事自体は、然程不思議ではない。エレノア達を襲った人魚は、最終的に仲間の手によって引き留められ、海へと帰っていった。あの時人魚達は、人間に聞こえる形での言葉は交わさなかったが、何かしらのコミュニケーションを行っていたように見える。

 一般的に、社会を形成する動物は頭が良い。仲間に合わせた行動や、群れの強みである高度な連携を行うには、知能が優れていた方が好都合だからだと考えられている。群れを作るのであれば、人魚も優れた知能を持っていても不思議はない。

 そして知能に優れるのであれば、感情もまた豊かと思われる。人間やエルフなどの亜人が、そうであるように。

 感情豊かなら、時折妙に激しく怒る個体がいてもおかしくはない。偶々そんな不機嫌な相手と鉢合わせして、思った以上に危険な目に遭ったのだろうとエレノアは考えた。

 ただ、そうなると新たな疑問も湧いてくる。


「(あの人魚、仲間が止めなかったら多分また船に近付いてきたわよね……何が彼女をそこまで駆り立てたのかしら)」


 イリスの攻撃により、人魚は手首を切り落とされた。その怪我が人魚にとってどの程度のものであるかは分からないが、あの時の痛がり方からして決して軽くはないだろう。

 だが人魚は逃げず、それどころか改めてエレノア達が乗る船に攻撃を仕掛けてきた。

 むしゃくしゃして残虐非道な行動に出るのは分かる。しかし取り返しの付かない大怪我を負い、力の差を見せ付けられても止まらないなど普通ではない。人魚とは、そんな単純な力関係すら理解出来ないほど愚かなのだろうか? 否、仲間達が引き留めていたように、理解するだけの知能はある筈。そして説得に応じて諦めるぐらいには、感情を制御する能力もあるだろう。

 あの個体が(人間でもごく稀に見かけるような)極めて短慮で浅はかな思考の持ち主だった、という可能性も否定は出来ないが……


「(それだけの怒りを持つ理由がある、と考えた方が合理的よねぇ)」


 勿論、人魚全般の気質という可能性もある。人間が愚かと切り捨てるような気質も、人魚が暮らす世界では合理的で生存に適したものかも知れない。

 人魚について分からない以上、答えを出すのは早計だろう。あらゆる可能性を考慮しなければならない。

 ……そうして頭を使ったからか、ぐぅ、とエレノアの腹が鳴る。


「エレノア様。はしたないですよ」


「はぁーい……お腹の音は生理反応みたいなものだから、鳴るのは仕方ないと思うんですけどー」


「如何なる時でも王族としての品格を忘れてはなりません。忘れていなければ、気合いで抑えられます」


「いや無理だから。生理的な反応だから気合いとかないから。お父様だって定期的に飴ちゃんを舐めるとかで予防しているんだから、私も同じ事しなきゃ無理よ」


「王族って大変だなぁ……」


 エレノアとイリスのやり取りを見て、しみじみと呟くイーヴィス。さらっと王政の機密が漏洩した気がするが、エレノアは気にしない事とした。


「今日は忙しかったですし、お腹が空くのも仕方ありません。簡単なものでよければ、自分が調理しますが……」


 それよりも、イーヴィスが申し出てくれた夕飯の方が気掛かりだ。


「ええ、是非! あ、毒見とかは気にしないで良いですよ。イーヴィスさんは身元がしっかりしてますし、第二王女である私なら死んでも王政にそこまで影響しませんから~」


「……万一食中毒を起こしても、エレノア様であれば然程問題にはなりませんが、可能な限り衛生面には注意してください」


「は、はい! 勿論細心の注意を払ってやりますとも!」


 イリスに脅され、イーヴィスはがちがちに身体を強張らせながら部屋を出ていく。

 そこまで威嚇しなくても、と言おうとしたエレノアだったが、イーヴィスがどの程度の衛生観念を持っているかはまだ分からない。普通の飲食店なら信用しても良いだろうが、研究者の料理となると……やはりちょっと警戒した方が良いかも知れない。

 頭は良い筈なのに、研究以外の事にはとんと無頓着なのが、学者という人間なのだ。

 王族という自覚を持ちながら、どうしても研究を重視してしまうエレノアのように……

 ……………

 ………

 …

 イーヴィスが食事を持ってきたのは、それから三十分は経った頃だろうか。


「すみません、食糧庫の中がこのぐらいしかなくて……普段自分しか使わないものですから」


 申し訳なさそうな顔をしながら持ってきたのは、二つの食品。

 一つはパン。所謂ロールパンと呼ばれる、小さなパンだ。蒸気機関車が本格的に使われるようになってから王国では食も豊かになり(移動時間が短縮した事で、日持ちしない食材も遠方まで運べるようになった)、米やトウモロコシなども食べられるようになったが、未だ主食は小麦、そしてそれを加工したパンである。

 一言でパンと言っても、地域によって調理方法は様々。例えば小麦以外の作物が育たず、自然の採取も困難な地域では、保存性を高めるため水分を飛ばしたパンがよく食べられている。対してエレノア達がいるこの地域では魚が捕れるので、そういった保存性の高いパンの需要が少なく、美味しさ ― 柔らかくて適度な湿り気のある ― を追求したパンが主流になったのだろう。

 そして保存食に費やされなかった労力は、海鮮を用いた料理の発展に注がれた筈だ。どんな料理であるかは、王都のような内陸に暮らす者には想像も付かない。

 エレノアの考えを証明するように、パンと同時に出された小瓶……黒くてどろどろした中身のそれは、内陸出身のエレノアには全く見当も付かないものだった。


「よっと」


 イーヴィスはロールパンを裂くようにして開くと、さも当然のように瓶の中身である黒いどろどろをスプーンで掬い、パンの中に突っ込んだ。

 そして食べろという意思表示が如く、黒くどろどろしたもの入りのパンをエレノアに差し出す。


「……………回答次第によっては首が本当に飛ぶ事になりますが、これは食べ物でよろしいのでしょうか?」


「へ? え、あ!? すすすすすすみません!? これはあの、この地域の特産で……!」


 イリスがやや脅し気味に問えば、イーヴィスは大慌てで答えた。

 エレノアが思っていた通り、瓶の中身はこの地域の特産品らしい。イリスもそのぐらいは分かっていただろうが、曲がりなりにも王族であるエレノアに、正体不明のものを食べさせる訳にはいかないという使命感から凄んでしまったのだろう。

 実際、現地の食材を無警戒に食べるのはあまりよい事ではない。人によっては特定の食べ物が毒となる……『アレルギー』と最近王国保健省は名付けた……場合や、地域独特の方法で食事後の解毒を行っている場合もあるのだ。地元の人が美味しく食べているから大丈夫、というのは、地域に根差した生活の知恵を軽んじる事に他ならない。

 エレノアには(少なくとも今自身が知る限り)アレルギーとなる食材はなく、解毒云々が必要な食材というのも稀なので、そこまで気にする必要はないだろう。しかし王族は『万一』があってはならない。好奇心が疼く事もあって、エレノアはその中身について尋ねる。


「特産という事は、これは海産物なんでしょうか?」


「は、はい。地元ではゴチャと呼んでいます。恐らく語源はごちゃ混ぜから。浅瀬で取れた海の生き物を一緒くたに混ぜて、塩と海藻で味付けしたものになります。味はかなり濃いので、少量でもパンが進みますよ」


「ふむふむ。塩分で保存性を高めた食品というところですか」


 浅瀬にも様々な生き物が生息している。しかしそれらの多くは、あまり食用には適さない。

 大きな理由は二つある。一つは纏まった量が取れない事。沖合に生息する魚は巨大な群れを作る事が多く、この群れを網で取れば一度に何百人分、何十日分もの食料となる。対して浅瀬では大きな群れを作るための空間がなく、また餌となる生き物も纏まっては存在していない。そのため単独生活をする生物が多く ― というより群れを作る生物がいないというのが正確か。沖合にも単独生活をする魚は少なくない ― 、一種類の海産物を大量に捕る事は困難だ。

 また身体が小さいのも、食用に向かない理由である。両手で抱えるほど大きな魚であれば、一匹いれば家族を養える。しかし小指ほどの小さな魚や貝となると、家族を満腹にするには何百匹も捕まえなければならない。おまけに小さいという事は岩の隙間などに隠れやすく、極めて捕まえ難い。

 つまり浅瀬の生き物は、食べられない事はないが非常に効率が悪いのだ。


「そのような非効率なものを、わざわざ保存食にする必要があるのですか?」


 ここまで話すと、イリスのような疑問も湧くだろう。

 しかし非効率である事と、食料として有望である事はまた別の話だ。


「まぁ、そうだとは思うけど、でも浅瀬は沖合よりも生き物が豊富だからね~」


「豊富なのですか? なんとなく、沖の方が魚は多そうですが」


「広さがあるから、総量は沖の方が多いでしょうね。でも一定範囲で見れば浅瀬の方が遥かに豊富よ。何しろ植物が豊富だから」


 生物の『総数』は何によって決まるか。一概に言えるものではないが、一番の要因は餌だろう。どれだけ棲み処や産卵場が豊富でも、食べ物以上に増える事はどんな生き物にも出来ない。

 では餌の量を決めるものは何か? これもまた一概には言えないが、は極めて重大な要素である。何故ならどんな生物の餌も最終的には植物に行きつく(肉食動物であっても、その草食動物を養うのは植物だ。よって肉食動物の『餌の量』は植物の量に比例する)が、植物の成長を促すのは主に太陽の光だと実験で証明されている。

 勿論肥料がなくても植物は育たないので、あくまでも『欠かせない要素の一つ』であるが……言い換えれば太陽光がない場所では、どれだけ肥料を与えても植物は育たない。

 そして海という環境は、とても光が少ない場所だ。


「水が光を遮ってしまうから、海底まで光が届かないと言われているの。だからちょっと深い場所まで潜ると、海藻の数が大きく減ってしまうのよ。海面に浮かぶ小さな生き物が植物の代わりをするんだけど、これは海藻ほどの量はない。だから生き物の数が少ないって訳」


「はぁ。海の底に光が届かないというのは、私にはよく分かりませんが。水なんて透明なのに。此処の海みたいに濁っているなら、分からなくもないですが」


「それはまぁ、私も見た事はないし、断言は出来ないけどね。現時点ではあくまでも推論です」


 厳密には、エレノアだけではなく世界中の誰もが『海底』なんて見た事はない。素潜りで海底の海産物を捕る職業もあるが、あのような職人でも人間の身長に換算して五~十人分ぐらいの深さに潜るのが精々だ。沖合の深さは、時にはその何倍にもなる。人間が行けるような深さではない。

 人魚の生態が謎であるのも、人類には行けない領域だからというのが一番大きな理由だ。人魚だけでなく、水産資源の調査や研究でも、『行けない』という単純な問題により進展していない謎はあまりにも多い。

 最近王国ではドワーフと協力して、水中調査艇なるものを作っているらしい。エレノアは開発に関わっていないのであくまでも噂話であるが……実証実験は二年から三年後を予定しており、実用化されれば海についての理解が飛躍的に進むだろう。

 閑話休題。

 話を戻すと、浅瀬には膨大な生物が生息しているという事だ。いくら非効率とはいえ、これに手を付けないのはあまりにも勿体ない。食料供給が不安定だった大昔であれば尚更だ。食べ物がない時代では、いくら非効率でも浅瀬の生き物も食べた事だろう。

 そして人間は曲がりなりにも知性を持つ生物。非効率を非効率のままにする事はしない。


「結局のところ、浅瀬の生き物を一匹一匹分けるから面倒なのよ。がばーっと取って、纏めて料理しちゃえば効率的でしょ?」


「……自分がそれなりに裕福な地位にいて、食に恵まれている事も自覚していますが、いくらなんでも適当過ぎませんか。カニもエビも魚も、ちゃんと料理するから美味しいと思うのですが」


「だからこそ塩と海藻による、濃いめの味付けなんじゃないかしら」


 濃い味付けは素材の魅力を損なわせるが、言い換えれば大して美味しくない味を誤魔化すにもうってつけだ。

 例えば今から何百年も前は香辛料を多量に使う料理が主流だったが、これは防腐効果があると信じられていた(実際にはないのだが)事以上に、美味しくないものを食べるための工夫である。何しろ食に乏しい時代なので、時期によっては腐りかけの肉や干からびた野菜を食べなければならない事もあっただろう。しかし腐敗した食べ物は酸味や苦味など、危険な味がするものだ。辛味や香りなどで上書きしなければ、とてもじゃないが食べられたものではない。

 ゴチャの濃い塩や海藻の味は、勿論保存性を高める事も理由だろうが、なんとか美味しく食べるためでもあるのだろう。どんなに味のしない生物でも、塩さえあれば食べるぐらいは出来る。食べてしまえば、栄養は摂取出来る。勿論塩分の過剰な摂取は健康に悪いが、保存食なら毎日食べるものではなく、また平均寿命が短い時代なら、健康に影響が出る前に死ぬので

 長年海で暮らしてきた民による、生活の知恵がこのゴチャという訳だ。


「……と、勝手に推測して話してしまいましたけど、合ってますかね?」


「あ、はい。なんかもう、知っているのかと思うぐらいつらつら話されるので口も挟めませんでしたよ」


 念のため確認すれば、イーヴィスからこれといって訂正も入らず。

 説明はこのぐらいにして、と言って話を区切り、エレノアはパンを手に取る。真っ黒でどろどろしたゴチャの味は想像も出来ないが、濃いめの塩味と分かっていればいきなりがぶりと齧るのは賢明ではない事も予測が付く。

 小さく噛み切り、パンと少しのゴチャを口に含む。

 まずは舌の上で軽く転がし、次いで奥歯で噛み締める。噛む時も力は込めずゆっくりと、香りを意識する。王族としての暮らしで身に付いた食べ方は、こういった簡易な食事であっても無意識にしてしまう。

 これが晩餐会なら、気の利いた言い回しをしていたところだ。しかし今回は、仕事仲間から出された食事。


「うん。しょっぱくて、不思議な味で、美味しいです!」


 満面の笑みと素直な感想、そしてその後にもう一口食べれば、イーヴィスを笑顔にする事は難しくなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る