残笑

宮沢賢二郎

第1話

 早暁そうぎょうの薄青い静寂の中に、白い針のような雨がかすり模様のようにざわめき、家々の屋根を薄く鏡のように湿らせた.破風はふの陰を通り過ぎる僅かな風は、水気を含んだ大気の波瀾にいっそうの清浄さを醸し出したが、昼間の埃を溜めたアスファルトの方はしだいにその藍色を濃くしていった.しかし陽が昇り、軒先を光が潤す頃には、その雨もすっかりあがっていた.

 春先の生温い陽射しがアスファルトに残った希薄な水面を黄金色に染め、その朝の光をミラーに反射させながら、総合病院の玄関前に、一台の黄色い車体のタクシーが止まった.車の排煙にタイヤの弾いた泥の臭いがわずかに混じった.後ろのドアから降りた二人の男は、年寄りの方はその歩みを確かめるかのように、若い方は介抱するかのようにして、ゆっくりと歩を進めていた.老人はアスファルトにできた水溜まりに足をとられ、ズボンの裾をひどく汚した.雨上がりの道路の汚泥の臭いが、修の鼻腔の奥に染み込んだ.

 二人は、陰気で薄暗い病院の受付前の暗がりを抜けると、そのまま二階へ上がった.若い方の人間は常に上の段にあって、段下の年寄りの方を向きながら、その年寄りを先導していた.老人の方は、一歩、また一歩と、両足で踏み段を確認した.階上の窓から差し込む朝の光が、しだいにこの親子を照らし始めた.


「こちらが健康な人の脳です」

 医者は蛍光ランプのスイッチをつけた.医者の眼前に白い光が散乱した後、弾力のある灰色のボールのような脳の断層写真が、シャウカステンに映し出された.それは表現を変えるなら、ややふっくらした卵型であった.

「そして、こちらが田辺さんの脳の断面です」.医者は別の蛍光ランプをつけた.

 健康な人の脳に比べると、隣の画面の修治のCT画像の現像写真のそれは、あたかも触手を拡げた毒蜘蛛のようであった.しかも脳の淵は蟻の巣の断面のように浸食されていた.脳の中心は黒い煙が拡がっていくかのように見えた.確かに健常者の脳に比べると、修治の脳は空白が目立った.

「アルツハイマー型認知症の中期の段階です」と、中年の医者は眼鏡の奥の両眼を細めながら言った.修は『認知症』という言葉に、動悸が喉に突き上げてくるかのような圧迫感を覚えた.

「先生、認知症は治るんですか」

 修はやや強く目尻に皺を寄せて尋ねた.医者は少し置いてから、下を向いたまま語気を強め、首を振った.

「いいえ、今のところ元通りに回復させるという治療も薬もありません.それにもしかしたら、これから色々なことが出来なくなっていくかもしれません」

「といいますと」と、修は溜め息の後に言葉を絞り出した.

「ひとりでは服が着れなくなったり、自宅のまわりの地理や家族関係がわからなくなったり、ひどい場合には、例えば夜中に徘徊をしたりとか 」

 修は、医者の口調に合わせて、空気がしだいに重くなっていくのを感じた.神経内科の医者の方は、机の方に向き直ると白い紙に流暢に横文字を滑らせた.

「いちおう薬は処方します.但し、この薬は認知症を治す薬ではありません.進行を遅らせるだけです.でも場合によっては、あまり効力はないかもしれません」

 修は唇を丸めた.父の修治の方は肩をうなだれながら、所在なげにぼんやりとした上目遣いをしていた.医者に声を掛けられると、眼を剥き、びっくりしたように唇を震わせた.

「どうですか、田辺さん、具合の方は、お元気ですか?」と、医者は修治の両肩に手をのせた.父は自信なげな眼差しで、息子の方に顔だけを向けた.

「どうなんだ 、俺の具合の方は、元気なのか」と、修治は医者の言葉を息子の前で鸚鵡返しにした.医者の後ろ にいた女の看護師が、憐憫に両眼を細めた.

「まあまあね、元気だよね」と修は父に微笑んだ.修はそう言いながら、口角の不随を感じた,

 修が鼻の奥にわずかに残った消毒薬の臭いを感じながら、父の手を引いて診察室を出ると、待合室のあちこちからくしゃみをする音がした.ある人は梃子の反動のように首を動かしてくしゃみをしていた.マスクが鼻の上で躍り上がっている人もいた.今年も春は確かにやって来たことへの、人間の体の正直な反応だった.病院の壁には確定申告を知らせる女性タレントが微笑むポスターが貼ってあった.しかし、一方には春の訪れには何も無反応な父の虚ろな眼差しがあった.

 総合病院の玄関を出ると、向かいの附属高校の桜の木の枝には、花のつぼみがいっぱいにほころび始め、その開花を待っていた.高校ではちょうど卒業式が終わったばかりで、その幸せな喧騒が、後に周囲に降りそそぐであろう無数の花片のように、校門の前で繰り広げられていた.修治は急に光が灯されたように眼を輝かせ、懐かしそうにその光景を追った.

 桃色に両眼を腫らした女子高生たちが籠もったような細い声を引き伸ばしながら、何人も抱き合っていた.胸元に赤い造花を付けた男子高生たちは同じ言葉を連呼し、上空から薄いカーテンのように降り注ぐ陽射しに向かって、両の白い袖から長い指を放射させた.ある女子高生は父親とおぼしき男性の腰に手を回していた.父親は照れくさそうに直立し、母親は娘の肩に両手を置きながら、夫の表情に目を細めた.その少し離れたところでは、背の低いややずんぐりした教師と思われる男が、概ねこの家族に頼まれでもしたのであろう、中腰になって馴れない手つきでカメラを構えていた.

 母親たちの原色系の香水の匂いも今日ばかりは、この甘美な春の香りにすっかり緩和されてしまっているかのようであった.アスファルトに擦れる革靴の音にさえ幸福の感触があった.

 しかしその春の香りが届き、修の鼻孔をくすぐった時、修は思いっきりくしゃみをした.眼を開けた瞬間、春の光模様が虹色に散乱した.

 

 修の父である修治が「恍惚の人」になったのは、長い企業生活を終えて五年目ぐらいのことであったろうか.定年から数えて二年目の年に庭先で脳梗塞で倒れ、回復はしたものの、唇と手の指先に軽い痙攣が残った.『軽い痙攣で済んだ』と安堵し、三年もたち、脳梗塞という言葉さえ忘れかけていた、恐らくそんな時期からだったろうか、修治に異様な言動が目につくようになったのだ.例えば、最前の話題を驚いたように新鮮な顔つきで得意気に家族に話しはじめたり、食べたばかりの昼食の催促を母にする、というようなことが頻繁に起こり始めた(そのくせ各回の食事の量を驚異的なまでに平らげた).母の澄江はそんな夫を見ては、醜いほどの甲高い声で笑い飛ばした.そして修治の方はしまいにはそんな妻を「あの女」と言い始めた.

 澄江はますます夫を軽侮し、その勢いに乗じて、時おりいぎたなく罵った.しかし当初、父を馬鹿にしていた母も、ある時息子の修が父を殴った光景には悲鳴をあげた.それは、修が勤めていた予備校の退職候補のリストに自分が入っていることを知らされた日に帰宅した晩のことであった.


「田辺先生、こちらをご覧ください.これが先生の政治経済と現代社会の授業に対する生徒たちの今年度のアンケートの結果です」

 そう言って、応接室に修を呼んだ予備校の本部からやって来た人事担当の職員はコンピューターからはじき出したばかりのデータを拡げた.その紙には細かい数字がたくさん並んでいた.修も眼を凝らしてその数字を読んだ.

「先生の授業を支持すると答えた生徒は全体の五〇%に過ぎません」.

そして指を横にずらしながら、「ところが同じ授業を担当している別の先生はいずれも八〇%を越えています」.「先生の授業は大雑把でわかりにくいと答えた生徒もいます」.「熱意が感じられない、ためにならないと答えた生徒もいました」.「さて…」

 担当の職員は応接室のソファーに座り直すと、やや首を傾け修の表情を慎重に観察するようにして言った.

「田辺先生、本日はどのような用件でお呼びしたか、お分かりだと思います…」 

 担当の職員の言辞は決して皮肉ではなく、人事部ゆえの職責から生じる辛苦を、相手に同意を求めることで、その一端を緩和しようとしていたはずである.

「単刀直入に申し上げますと、来年度の先生の授業担当コマ数は削減させていただきます.またもし来年度もこのままの評価となりますと、来年度いっぱいをもちまして、いちおう田辺先生には退職していただくことが賢明かと存じます」

 職員は眼鏡の奥から決然と修を睨みつけた.ここは生徒との面談用にもあてられる一階の事務ロビーの隅の小さな部屋だが、杉並校舎の区画ではこれが限界だった.しかしそれゆえに今の修には警察署の取調室の狭隘さを想像 させた.

「先生には長く本校に御奉職いただき、こちらといたしましても遺憾極まりませんが…」、修はその言葉をさえぎって、

「ああ、そうですか.仕方ないかもしれませんね」

 修は顔の強張りを懸命に解きながら、そっけないふりをして言った.こんな場面では、大声をあげて人事部の担当に悪態をつく人もいるそうだが、修は敢えて平静を装うことで自尊心を保とうとした.

「若い先生が台頭してきて、だんだん私のような中年は少しずつ生徒たちと感覚がずれてきたんでしょうか…」

 修はそう付け加えるのがやっとだった.もっとも、この言説自体には偽りはないと思った.修は相手の職員が考えていることを先に言って、これで面目を保ったつもりでもあった.

 しかしその時、『当たりだわ、オメー!』と、面談室の外で、修と職員との会話とは何の脈絡も連関もあるはずもないが、こんな時にかぎって実にきまりの悪い、それでいて何とも正鵠を射るというべきか、生徒のものと思われるえげつない声が響いた.修が顔をあげると、担当の職員は笑いをこらえているような気がした.『前からウゼーんだよ、つまんねえんだよ』と、外からのその声はさらにダメを押した.

 確かに修のように二年前、三年前と同じ授業を行うだけで、つまりは営業的にいえばいつまでも同じサービスを漫然と提供すれば乗り切れるほど、時代の流れは澱んでいるはずがない.その点、若い人は需要への嗅覚が敏感だ.畢竟、同じ内容・分量の授業をこなしているはずでも、生徒たちは修ではなく若い講師の授業の方へ流れて行ってしまうわけだ.

 職員の方は、こらえた笑いを誤魔化すかのように顔をほぐして、おかげで難なく次の言葉に繋げることができた.

「私どもといたしましても、この不況下、年々生徒の数は減っておりまして、経営的に苦しいものもございます.先生の御期待には十全には答えられないということも申し上げなければなりません」

「すみませんでした.分かっていました」.

 もはやこう言うことが修の精一杯のプライドだった.修はわざと慇懃に頭を下げてみせた.

 修が応接室を出る時、職員は立ちあがり深々と礼をした.ドアの外の事務のウンターにいた若い女性職員は、修と眼が合うなり一瞬顔を引きつらせ、すぐに下の書類に眼を遣った.別の職員たちは修には無関心のを見せかけた.そういえば 、修にいつも丁寧な挨拶をする杉並校の校舎長は、今日に限ってなのか、どこにもいなかった.


 この日も中央線快速は不通となった.おかげで阿佐ヶ谷駅のホームは帰宅を急ぐサラリーマンでごった返した.腋下の汗が染みついたコートの臭いが、晩冬のこの季節の空気のなかにさえ漂った.通過駅で飛び込んだのは、壮年者ではなく年寄りだった.無論、年度末も近いせわしいこの時期に、その境遇に心を寄せる人柄は一かけら

さえなかった.遅延を非難し、駅員に詰め寄る男の怒声と、それを時に遮る音量過多ぎみの構内アナウンスが、空しく響いた.

 荻窪駅を降りた後、夕暮れの街の喧騒の中で、孤独に締めつけられながら、修は予備校の職員の言葉を反芻した.これが資本主義だと納得するしかなかった.予備校業界とは成果主義の最たる世界であり、一兵卒にすぎない予備校講師は生徒アンケートのデータがすべてである.従前のデータの結果が示すものとは、端的にいえば修はこの業界では既に用済みだということだ.役に立たない人間は淘汰され適者のみが生存を許される、これがこの社会の原理であり、社会主義の理想はもう終わったと、修は政治経済の授業で生徒たちに教えたばかりではなかったか(人間の善意を原動力とする社会など、しょせんは失敗するのだ).少子化による生徒確保の激烈な競争の中、予備校の方としても修のような輩を顧みるほど財政的な余裕があるわけではない.それなりに長く勤めたこの予備校では、修の給与はそれでも年々高くなっており、しかもそれで成果を出せないとあっては、企業にとってこれ以上の「不良債権」はない.安く雇用でき、能力のある若い人を雇用するのは、コスト削減を社是とする企業としては当然の論理だ.七〇億人の二十一世紀、代わりはどこにでもいるのだ.

「教科の知識を習得し、生徒の気持ちに即した授業を行ってください」.先刻、人事部の職員が修に言ったこの言葉は正しいが、入社一年目か研修中の講師に言う言葉だと思った.結局は、何もかもが振り出しに戻ってしまったのか.修は折れそうになる気持ちを懸命に引きずりながら、自分の身に落魄した中年男の姿も想像した. 

 自分の未来への、夜の雨道の黒い水溜まりのような不安が拡がっていくのを感じた.一体、収入の道を絶たれたら、自身のみならず病の父と年老いた母をどうすればよいのか.一年契約の予備校講師に退職金などありはしない.父の退職金の方も、先年の脳梗塞の頭を切り広げた大手術でかなり蚕食された.これからだって父や、それに母に何が起きるかわからない.

 鳥肌のような焦燥感に悩まされながら、電車に乗っていたことも、歩いたことも記憶にないまま、気がつくと修は荻窪の自宅近くの角を折れたところにいた.修は、ふと足を止めた.向こうから背の低い老人が、まっすぐにこちらに歩いて来るのが見えた.その人は靴をはいていなかった.焦燥感に癇走る修の父の修治であった.修の姿を目に留めると、父の唇はいっそう震え出した..

「おい修、待っていたんだ.泥棒が家に入ったんだ.今、向こうの方に逃げて行ったぞ」

 唇の端に唾を溜めながら、震える指を駅の北口に向かう道の方にかざしていた.ズボンのファスナーは開いたままだった.

「泥棒なんて入ってやしませんよ」と、今度はドアを乱暴に開け母が玄関に出てきた.「私がいくら言っても駄目なのよ、こうやってさっきから修が帰るのを待っているのよ」.澄江は、今度は夫の方を向き直ると、

「夜に大声を出して、近所の人も見てるわよ、まったく、恥さらしな」.そう言うと妻は乱暴に夫の手を引き、家の中に入れようとした.

「触るな!」と、修治は澄江の手を振りほどき大声をあげた.

「修、あんな女の言うことを聞くな.泥棒を逃がしたのはあの女かもしれないぞ」と修治は修の方に身を屈めながら、口許で片手を喇叭のように丸めて言った.修の最前からの苛立ちは、暢気な父に対する憤怒へと収斂した.

「泥棒なんか入るわけないでしょ、だいたい何を盗まれたんだよ!早く部屋に戻って寝ろよ!」と言って、修はドアの側面に激しく拳をぶつけた.

「何だと!おまえ、生意気なことを言うな.この役立たず!」と、父は修に言った.しかしその言葉は、修に予備校の職員から知らされた、自分の授業が『ためにならない』とひどくけなしたた生徒がいたということを、反射的に思い出させることになった.そして、修は先程までの自身の焦燥感のはけ口を、眼の前の現実の方に求めてしまった.

「何だって、畜生!」、そして修は反射的に右の上腕を振り回した.腕の先の拳は、父の左頬を突き飛ばした.不精髭の生えた父の頬の皮が小石のような骨の上で捩じれていくのを、修は掌に感じた.悲鳴を上げながら修治は花壇の上に転がった.父は泥だらけの顔で、顎を上下させながら児どものように泣いた.

 修は、この思いがけない展開に急速に怒りが冷め、その時の息子が父親を殴るという悔恨だけが、後に至るまで修の心を締め上げることになった.

「御免なさい、お父さん」、修は児どものように謝った.

 焦燥感からは解放されたものの、修は今度は父の泣き顔に狼狽し、一方母は悲鳴をあげ、父を介抱することもなく家の中に消えた.


 総合病院前の薬局で薬を待つ間、修は、読みかけていた介護の雑誌を膝の上に拡げた.自分の父を殴打するという行為に深い悔恨の気持ちがこれまでも絶えずリフレインし、そして今日父がやはり認知症であるという現実を知らされた今、修は本の一字一句に悔悟と不安の僅かながらでも緩和を求めたい気持ちだった.

 認知症介護に必要なことはまず相手を受け容れることだとあった.相手の言葉を頭ごなしに否定してはいけない.そんなことをしても、認知症を原因とする老人性鬱病は相手をいっそう不安にさせるだけだ.不安を論理的に解消するだけ脳機能がすでに残っていないからだ.しかし一方、耄碌したとはいえ、認知症老人にも自尊心はあるのだ.プライドを傷つける言動は絶対にいけない.

「なあ修」と横に座っていた修治が話し出した.「家のあの女中、そろそろクビにしないか.性格はきついしな」

 父は退職し、息子は予備校を解雇されそうな田辺家ではむろん女中を雇う余裕などあるはずもなかった.修は父の呑気な発言が癇に触った.しかし修は煮え立ちそうになった自分の気持ちを抑えた.「うんそうだね.あんな女、今日にでも家を出ていってもらおうよ」.修がそう言うと、父は微笑んだ.父の可愛らしい笑みに、修の苛立ちも急速に緩んだ.

 父が言う「女中」というのは母のことだと修にはわかった.修治をもはや顧みようとしない母は、修治の脳回路の信号では自分の妻としては認識できなくなっているのだ.だから修はこの場合は修治の言葉を肯じることが肝要だった.

 修治は安心して児どものように微笑んでいた.修はこれでいいのだと思った.

 再び本に眼を遣ると、この国の介護保険制度というものの説明が記されていた.わずか一割の負担で要介護者は介護サービスが受けられるのである.むろん、予備校で政治経済と現代社会を教えている修はその概要は知っていた.ホームヘルパーがやって来て、食事や掃除の介助をしてくれたり、デイサービスといって昼間だけ高齢者を預かるシステムも稼働している.

『しかし、認知症高齢者の問題が起きるのはむしろ夜ではないのか』と、修はこれまで父と過ごした長い夜を思い出していた.

 また、施設に入居という手段もあるが、高額な私立の施設ならともかく、公的な特別養護老人ホームはどこもいっぱいで、予約をしても何年も待たされるのが現実だ.その間に当の高齢者が亡くなってしまうこともあるそうだ.要するに金のない家は、どこまでも介護の負担は家族にのしかかるのだ.

 でもそれでは、認知症に罹患することも、思いがけなく認知症の家族を持つことも、巷間言われるように「自己責任」なのだろうか.この国では、介護保険料さえまともに払えず心中した老夫婦がいるかと思えば、粉飾と投機で金を膨らましたにすぎない人間を時代の寵児としてまつり上げていたこともあった.また昨日の新聞には、身寄りのない一人暮らしの老人が餓死しているのを発見されたとあった.かと思えば高額の施設で家族に見守られながら天寿を全うする高齢者もいる.

 そうなのだ、この国は死ぬその時まで「格差」なのだ.『何とかの沙汰も金次第ってことなのさ』.修は、そう悲嘆する自分を、この社会のヒエラルキーの中では『負け組』に属しているのだと感じた.『負け組』はこの社会の『無縁者』として、最後は世間のつながりから弾かれるのだ.


         

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