四ノ夜 Aの追憶-山の怪異-
私が小学四年生から五年生の間に起こった出来事です。
私の家族は父と母、それに6つ離れた妹を含めた四人家族です。
端から見ればごく普通の一般家庭でしたが、当時の私は父に嫌悪感を持っていました。
父は体型もがっしりしたいわゆる体育会系の人で、仕事は長距離運送のドライバーをしていました。反面私は母に似て態度も体つきも弱々しくどちらかと云えば内気な性格でした。
幼少の頃から父に空手や柔道等の習い事をさせられていました。父は私を活発で元気な子に育てたかったんだと思います。
しかし、同年代の子と比べても体格が小さかった私は、相手に萎縮して結果を伸ばすことができず、また体力不足も相まっていずれの習い事も半年と長く続きませんでした。
私が弱音を吐く度父はよく「男ならそれくらい耐えてみせろ!」と叱責しました。
それでも諦めて何度も辞めてしまう私を見る度、失望を込めた眼差しで「本当に俺の子かよ。」そうため息混じりに呟いていました。私はその言葉が大嫌いであり、同様にそんな父のことが大の苦手でした。
そんな私を母はよく庇ってくれていましたが、決して父に逆らうようなことはしませんでした。
先の話になりますが、既に父と母は離別しています。当時は母も私が可哀想で仕方なかったが、父が怖くて歯向かうことができなかった。本当に申し訳なかったと後々謝られました。
極端な暴力こそ無かったものの、当時の私は父と顔合わせるのさせ嫌でした。何か言われるのではないか、また怒らせるようなことをしたのではないか、そういった不安が私を萎縮させ何をするにも上手くいきませんでした。
オドオドする私を見て苛立った父が更に私を叱ります。更に失敗してまた父が...と悪循環が続き、自分でもかなり暗い少年時代を過ごしていたと思います。
小学四年生の10月だったと思います。その日は習い事の日で、私はいつも通りそこまでの道中をとぼとぼ歩いていました。
ふと公園を横切った際、そこで遊んでいる同年代の子供たちが目に入りました。
道中必ずそこを通るので嫌でも他の子達が遊ぶ姿は目に入ります。いつもなら我慢して素通りするのですが、今日はいつも以上に彼らが羨ましく思いました。
-もともと好きでやっているわけではないし、これまで一度たりともさぼったりはしていないのだから今日くらい...。
そう考えると今すぐにでも自由に遊びたい欲求が沸々と湧いてきました。
我慢できなくなった私はもと来た道を引き返し、母に今日は休みたい旨を告げるために家まで走りました。
幸いなことに今日は父が仕事で居ません。母も事情を話せばきっと分かってくれるはず、期待に胸を膨らませ帰路を急ぎました。
玄関の扉を開け、キッチンで食事の準備をしていた母に訳を説明します。母は少し苦い表情をしながらも「いつも頑張ってるもんね。」と承諾してくれました。
私は嬉しさで笑みを溢しながら荷物を置いて再び玄関まで向かいます。はやる気持ちを抑えながら靴を履き、玄関の扉を開けた時でした。
そこに父が立っていました。
呆然と立ち尽くす私を見て父は怪訝な表情で「お前何でここにおるんや?」と尋ねます。
私が何も言えないでいると「さぼったんか?」と重ねて問いかけます。何とか言い訳しようにも頭の中がこんがらがり上手く言葉がでてきません。
その沈黙を肯定と受け取ったのか、父はみるみる表情を変えていき、低い声色で「てめえふざけんなよ。」と呟きました。
いつの間に私の後ろに来ていた母が瞬時に事情を察したのか「今日くらい良いじゃない。」と庇ってくれましたが、父は一喝「お前は黙ってろ!!」と怒号を浴びせ母も沈黙させました。
その声に私も消沈し、最早言い訳する気力は無くなりました。
「しょうもねぇことしやがって。」父は悪態を着きながら一度その場から離れ、車に乗って再び玄関前まで来ました。窓ガラスを開け私に向かってただ一言「乗れ。」とだけ告げました。
絶望に打ちひしがれた私は父の言う通り助手席に乗ります。父は目的地を告げること無く車を発進させました。
重苦しい空気でした。父は顔色を曇らせたまま一言も発せず、私もそんな父を横目に見ながら黙って座っています。
車は市街を抜け、どんどん田舎の方へと進んで行きます。いつの間にか人通りも途絶え周囲は見渡す限りの田園風景が、それも通り過ぎていよいよ舗装もままならない山道へと侵入しました。
何処へ連れていかれるのだろう、見知った道は無くなり、鬱蒼とした林道を淡々と進み続けます。
既に日は落ち、辺りは暗闇に包まれています。およそ車のライトだけが頼りのその道で、不安に駆られた私がいよいよ父に何処まで行くのか尋ねようとした時でした。
「お前にはな、度胸が足りんねや。」
それまで一切口を開かなかった父がそうポツリと呟きました。
父は車のスピードを徐々に緩め、左の路肩に寄せて一度きり返し、車体を今しがた通ってきた方向に向き直してブレーキをかけました。
「やから俺が今から鍛えたる。」
そう告げた父の顔は恐ろしく冷徹であり、何を言っても聴いてくれなさそうな威圧感がありました。
「ごめんなさい。」
私は涙ぐみながらこの時初めて父に謝罪しました。しかし、父は黙って首を横に振り「降りろ。」とだけ呟きました。
私は震える手でシートベルトを外します。しかし、父だけはその場に座ったまま動こうとはしません。
何故という疑問が頭を霞め、思わず父の顔色を伺った時、父は「お前だけが降りるんや。」と言いました。
その一言で、咄嗟にこれから自分に何が起こるのか分かりました。泣きながら何度も「ごめんなさい!」を連呼しますが、父はやはり全く聞き入れてくれません。
それでも頑なに降車を拒む私に、痺れを切らした父が運転席から降りて助手席に回ると、嫌がる私を無理矢理車内から引きずり下ろしました。
体勢を崩してこけた私を気にすることなく父は運転席に戻り、ドアをロックしてエンジンをかけました。
私は立ち上がって窓を何度も叩き「ごめんなさい!」「もうさぼりません!」と真に迫った声で許しを乞いました。
しかし父は僅かに助手席の窓を開けて
「子供の足なら30分も走れば麓や。そこで待っといてやるから一人で降りてこい。」
そう告げると私を置いてその場から走り去りました。
私は号泣しながら走って車を追いかけました。しかし足元も録に見えない暗闇の中、突き出ていた小石か何かに足をとられ盛大に前に倒れてしまいました。痛みに悶絶しながらハッと顔を上げた時には既に車は遥か前方へ、それもカーブを過ぎると完全に見えなくなり後には闇と沈黙だけが残されました。
その時の恐怖と絶望は今でも忘れることができません。立ち上がった私の前方には本当に何も無いのです。
獣の鳴き声一つ聞こえない静かな森でした。道を照らす街灯やすれ違う車もありません。およそ人工の物等何一つ存在しない残酷な自然の中で、私はゆっくりと歩き出しました。
頬を伝う涙の感触を感じながら、私は決して声をあげることはなくただ静かに歩いていました。目が慣れてきたのでゆっくりとですが前に進むことはできます。
しかしその分周囲を多い尽くす木々の影がよく見え、暗闇の向こうに何かいるのではないかと疑ってしまうと、そいつにバレないようにと声を潜めずにはいられなかったのです。
感覚が殊更に研ぎ澄まされ、些細なことに敏感になります。木の葉が揺れる音や、頬に触れる風、何てことのない自然現象が恐ろしく気が狂いそうでした。
暫く着々と歩いていましたが、私は遥か後方の方で何か音がしていることに気づきました。
---い---い---い---
何の音だろうか、歩きながらその音に聞き覚えが無いか思案しますが思い当たる節はありません。
確かなのは、その音が確実に私の方へと近づいているということです。
---い---い---い---
私は少し足を早めました。音の原因はわかりませんが、夜の山道に聞こえてくる音よ異質に恐怖を感じたからです。
---い---い---い---
その時私はあることに気づきました。その音は私の後方でしているとばかり思っていましたが、正確には私の左手側、草木が生い茂る谷の方からしているのです。
下に何かあるのか、そう思い少しだけ耳を澄ますと音の正体が分かりました。
それは声でした。男性の低い声です。先程から聞こえ続けるこの音は、男が谷の方から「おーい!おーい!」と呼び掛ける声だったのです。
こんな夜の山道に一体誰が...そう 考えた瞬間全身に鳥肌が立ちました。周囲は真っ暗闇、どれだけ目を凝らしても数メートル先の景色は見えません。にも関わらずその男は私の存在を認識しているかのように、しきりに呼び掛け続けているのです。
私は小走りで道を急ぎました。その声の主の正体は分かりませんが、決して正気がある存在には思えなかったからです。
「おーい!おーい!」
耳を澄ませずともはっきりと声が聞こえるようになりました。かなり近づいてきているのが分かり、焦りと恐怖で背中に大量の冷や汗が流れていました。
ふとその時、ある疑問が頭をもたげました。
-どうして声との距離が離れないのだろう...
私が歩いているのは足元は悪いですが、れっきとした道です。声の主がいる場所には川が流れ、更に大小様々な石が点在しているためとても容易く歩けるような環境ではありません。
小学生の小走りなら、早歩き程度で追い付ける大人もいるでしょう。しかし、それは相手も同じ条件の道を進んでいる場合に限ります。声の主は一体どうやって移動しているのか...。
「おーい!!おーい!!」
先程よりもはっきりとその声は聴こえました。最早そのモノとの距離に数十メートルも無いように感じます。
「おーい!!!おーい!!!」
心臓の鼓動が痛いほど早くなり、私は既に疾走する勢いで道を駆けます。もうヤツは近くにいる、そう認識すると同時に私は気づいてしまいました。
-違う。こいつは歩いても走ってもいない。こいつは...。
見てはいけないと本能的に感じながらも、私は視線を左側に向けてしまいました。
そこには首が浮いていました。
およそ中年くらいの男性の首が、闇夜にポツンと浮かび私のもとへゆっくりと近づいてきていました。
その首は私と目が合うと、唇をこれでもかと吊り上げ心底嬉しそうな表情でこう言いました。
「みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!みた!」
もう限界でした。
私は脇目も振らずその場から駆け出しました。
こけても構わない、直ぐに起き上がって走ればいい、そう自分を鼓舞させ兎に角そのモノから逃げだしたい一心でひたすら走り続けました。
首はもう私の背後に迫っています。先程聞こえていた低い声は、今は男か女かも分からない甲高い金切り声に変わっています。捕まったら殺される、死にたくない、最早私自身の理性もただ生きることへの執着のみに変貌していたのです。
どれくらい走ったのか、ようやく前方に見覚えのある車のバックライトが見えてきました。既に全身は汗と泥でぐちゃぐちゃでした。勢いそのままに助手席のドアを開けると、父が驚いた様子で「えらいはやかったの。」と言いました。
私は今しがた起こった現象を説明しようにも余りの疲労で声を出すのもままならず、ぜえぜえと息を吐き車に乗り込みました。その頃には先程まで迫っていた首は嘘のように消えていました。
「ほな、帰るか。」
父はそんな私など全く気に止める様子もなく、ただぶっきらぼうにそう呟いて車を発進させました。
私は息を整えながら気絶するように眠りに落ちました。
今思えばあの時の体験は恐怖に追い詰められた精神的困憊による幻覚だったのかもしれません。
ただ2つだけ確かなことがあります。1つは、あの時から私の父に対する印象が苦手から大嫌いに変わったこと、もう1つは人には見えない何が見えるようになったことです。
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