第12話「飛んで火に入る」
突如、花街でひときわ目立つ摩天楼が紅蓮の炎に包まれた。賑やかだった街に絹を裂くような悲鳴が広がる。国が開かれ、舶来の技術とともに近代化が急速に進む帝都とはいえ、街の大半は木造だ。歴史上も度々大火に襲われたこの街は、そのたびに激甚な被害を出してきた。
帝都の人々にとって、炎とは災厄の代名詞ともいえる存在だった。
「迅!」
「間違いねぇ。あれは妖火だ!」
そして、妖たちにとっても火は馴染み深い。妖のなかには炎を自在に操るも多くいるのだ。そして、そういった炎は妖の目には特別に映る。
葵と迅は一目でその火災が妖によるものだと理解した。そして、その側に洸哉たちがいることも。二人は風のように屋根を掛け、臆することなく大屋敷の側へと近付いた。
「あれ、お前んとこの旦那じゃないのか!」
「本当だ!」
そして、燃え盛る建物を背後にした、広々とした庭園に立つ軍服の男達を見つけた。一人は柔らかそうな癖のある茶髪の青年。そして、もう一人は濡羽色の髪を乱した痩身の美青年――紛れもなく冷泉洸哉その人である。
しかし二人は共に花街へ遊びにやって来たような浮かれた表情はしていない。緊張と敵意を孕んだ鋭い目を、まっすぐに向けている。その先に悠然と立っているのは、華やかな衣に身を包んだ絶世の美女だった。
「あれが花魁?」
「たぶんな」
尋ねながら、葵はその女が妖――否、妖怪であることをはっきりと理解した。
見た目からして、彼女は黒髪の間から三角に尖った耳を覗かせ、ふっくらとした白い尻尾を腰のあたりから垂らしているのだ。いくら花のように可憐な顔立ちでも、それが人ならざるものであることは一目で理解できた。
そして、妖としての感覚がつげている。あの女からは生臭い血の匂いがする。人を喰い、その味を覚えてしまった凶暴な妖――妖怪の隠しきれない特徴だ。しかも、その匂いの濃さは葵が知る何よりも強烈だった。
「大変。あんなの、大妖怪じゃない」
「花魁の銀……。まさかあんなえげつないのが花街に隠れてたとは」
瓦の上からそっと覗き、二人の妖は戦慄する。人を喰らう妖怪は、飲み干した血の量に応じて妖力を増す。遠く離れたところまで火の粉と共に流れてくる匂いは、銀が莫大な血を飲んでいることを示していた。
あれは危険だ。いかに洸哉と言えど、危ない。
葵は焦燥に駆られる。だが、無策で飛び出そうとした彼女を、迅が慌てて抑えつけた。
「離して!」
「落ち着け! 化け猫が飛び込んだところでどうにもならないだろ!」
「くっ!」
事実だった。
化け猫は変化に長けているだけ。それ以外のことは何もできない。対して洸哉は妖怪を祓う術を体得した調伏師だ。どちらの方があの花魁と戦えるかは、火を見るよりも明らかである。
しかし、それでも。状況は洸哉達の有利とはいえない。彼らの軍服は傷が目立ち、特に金橋などは片膝をついてしまっている。洸哉は彼を庇うようにして銀と対峙していた。
洸哉が何かを投げる。白い紙片に見えたそれは、宙で滑らかに形を変える。細い鳥のようになったそれは、風をきって銀へと迫る。だが、花魁が艶やかな所作で手を振るうと、猛火がそれを焼き尽くした。
「式が効いてねぇ。あれじゃあ術を練る暇もないぞ」
葵には何が起こったのかさっぱり分からなかったが、迅は調伏師の戦い方に理解があるようだった。
調伏師は流派にも依るが、式と呼ばれる力を込めた呪符を用いる。それは鳥や虫の形をとってひとりでに動き、術師の手足となって働くものだ。帝都を空から眺める見張り鳥も、式のひとつである。
そして、調伏師は式を使って妖怪を牽制し、その隙に術を練る。それこそが妖怪を滅する刃であり、切り札だ。だが、式による牽制が効かなければ、大規模な術を組み上げるだけの時間が稼げない。
結果、二人は妖怪の一匹に追い詰められているのだ。
「――つまり、時間を稼げばいいのね」
「おい、何考えてるんだ」
険しい表情を浮かべる葵を見て、迅は不穏な空気を感じとる。彼は三毛猫を抑える手に力を込めて逃さないようにとするが、彼女はするりとそこからすり抜けた。美しい毛並みの三毛猫が、その体を滑らかな白い鱗の蛇に変えていた。
「驚かせるだけなら、私だって!」
「おい、やめろ!」
迅の声も聞こえない。葵は蛇となった体に力を巡らせ、気合を込める。
「しゃあああああああああっ!」
その体が膨れ上がる。人の丈を遥かに超えて、楼閣に迫るほどの大蛇へと。鋭い牙から毒液を滴らせ、甲冑を擦るような恐ろしい声を発する。
「なんや、今夜は騒がしいなぁ」
花魁の目が、大蛇へ向けられた。気怠げな、それでいて美しい女性の声。彼女が尻尾を振った瞬間、強烈な妖力が迫るのを葵は察知した。
「しゃぁっ!」
大蛇が更に変化する。巨大な蛇から拳ほどの羽虫へと。その瞬間、虫となった葵の頭上を熱風が掠めた。頭が焦げるかと思うような灼熱に、葵は肝を冷やす。だが、これほど瞬時の変化は敵も予想外だったらしい。なんとかその一撃を避けることができた。
(でも――!)
葵は驚愕する。銀の蠱惑的な瞳が、羽虫をしっかりと捉えていた。あの一瞬の変化にも関わらず、彼女はその後を的確に追いかけることができている。
次は避けられない。
「うおおおおおおおおっ!」
業火が羽虫を飲み込もうとしたその時、突風がそれを掻き乱す。葵は間一髪、隼へと変化して機敏な羽ばたきで炎の波から逃れた。
「迅、ありがとう!」
「うるせえ! 勝手に飛び出しやがって!」
屋根の上から迅が叫ぶ。鎌鼬である彼は、そのひと風で疲弊しているようだった。
だが――。
「よそ見している暇があるのか。――縛ッ!」
「きゃぁっ!」
葵と迅が、銀の注意を引いた。
その僅かな隙を縫うようにして、調伏師が術を練り上げた。
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